ドイツワイン通信Vol.120
迷想録:ジャーマン・ビオの構図
この文章を書いている9月26日、ドイツ各地ではシュペートブルグンダーの収穫が、山場に差し掛かりつつある。今年7月に大規模な洪水に見舞われたアールでも、大勢のボランティア達のおかげで、どうやら順調に収穫作業が行われているようだ。「被災した当初は途方に暮れたが、今は新しい時期に入ったのだとワクワクしている」と、被災した醸造家の一人は地元テレビ局のインタビューに答えていた。「最初のころは、掻き出した泥の入ったバケツをリレーしていたが、今、そのバケツには熟したブドウが入っている。かつて目の前を塞いでいた、高く積み上げられた瓦礫の山が、人々の手で次第に低くなり、その向こう側にあった景色が見えるようになった感じに似ている」。洪水に流されてしまった醸造機材は、ドイツ各地だけでなく、ポルトガルの醸造所からも提供の申し出があったそうだ。機材メーカーも、特別な優遇条件を出して支援してくれたという。大半が流されてしまった2020年産とともに、アールの2021年産は、色々な意味で忘れられない生産年となることは間違いない。(参考:ドイツワイン通信Vol.118 )
ジャーマン・ビオの構図
前回、現代のドイツワインのおかれた状況を理解するポイントとして、4つの項目を挙げた。つまり、1. 気候変動とその影響、2. 有機栽培の一般化、3. 辛口によるテロワールの表現と、4. 醸造の多様化とナチュラルワインの萌芽である(ドイツワイン通信Vol.119 )。今回は、2.の有機栽培の歴史について、少し掘り下げてみたい。
20世紀初頭からの、ドイツの有機栽培への取り組みを振り返ってみると、基本的な構図として、科学技術や経済成長に伴う社会情勢の変化と、それに対する危機意識と抵抗運動があるように思われる。それは具体的には、19世紀末からの産業の急成長と、第二次大戦後の高度経済成長から生じた歪を背景として、有機栽培が登場していることに表れている。一方で、21世紀における有機栽培は、EUの支援を受けつつ市場が急成長している様子にも見られるように、抵抗運動ではもはやない。農業の一分野として定着し、かつ、安全で高品質な製品という、一種のブランディングにも成功している。20世紀以前と、21世紀以降の有機農業の位置づけの変化は、その背景となる世界が変化したことに伴うパラダイムシフトの発生であり、20世紀における対立の構図からのアウフヘーベン(止揚)と見ることもできるかもしれない。
言葉遊びが過ぎたかもしれないが、ドイツのワインをテーマにした拙いエッセイでもあり、大目に見ていただきたい。さてそれでは、まず20世紀初頭の、ドイツにおける有機栽培の起源について見てみることにしよう。
ドイツにおける有機栽培の起源
有機栽培の起源と言っても、化学合成肥料や農薬が登場する以前、農業は有機栽培しか選択肢はなかったのだから、有機栽培の起源とはすなわち、化学合成肥料の登場ということになる。それは1906年、鉄を主体とした触媒上で水素と窒素を反応させてアンモニアを生産する、いわゆるハーバー・ボッシュ法が開発され、窒素肥料の大量生産が可能になった時である。19世紀末、当時の人口増加に対し、このままでは食料生産が追い付かず、飢饉が訪れるのではないかという危機感が高まっていた。ハーバー・ボッシュ法により、廉価にアンモニアを合成することで窒素肥料が量産され、穀物の増産と食料の安定供給が可能になったのは、たしかに人類にとって福音だった。
だが、一部の人々は人口増加にともなう都市化と工業化を嫌った。物質文明は自然の摂理に反するとして、人間が本来あるべき生活様式への回帰を説いた。いわゆる「生活改革運動」である。彼らは僻地や郊外に集落を形成し、有機栽培を行い、菜食主義を実践し、たばこや酒などの嗜好品を遠ざけ、新鮮な空気と太陽の光の中で働き、瞑想と祈りと共に生活した。東洋と西洋の智の融合と普遍宗教を目指す神智学を信奉し、霊能者による霊的認識を通じて、神に近づこうとした。
この神智学から独立したのが、ルドルフ・シュタイナーの人智学である。神智学は教祖のような、特別に選ばれた者にしか霊的なお告げは聞こえないが、人智学では修行を通じてだれでも「超感覚的認識」を獲得できるとした。1924年にシュタイナーは霊的な直感に基づいた農法を講じ、それが弟子たちによりバイオダイナミック農法と命名され、今日に至る。
ちなみに神智学では、アーリア人は他の人種よりも霊的な進化が高い段階にあるとし、人智学もその認識を受け継いだ。また、ナチスは「物質主義的世界観」を、ユダヤ人やイギリス人がもたらしたものだとして批判し、バイオダイナミック農法を推奨し、農場内の土壌、植物、動物、人間の生物学的共生を目標に掲げた。ナチスが1935年に施行した帝国自然保護法で、ドイツの森や野原の自然を「ドイツ民族の憧憬であり、喜びであり、保養地である」と表現したのは、それが国民の共感と支持を獲得するための重要なポイントであったからだが、上述の生活改革運動で希求された、新鮮な空気と太陽の光とも重なる。新鮮な空気を味わい、太陽の光を存分に浴びることを、現在もドイツ人がとても大切にしていることは、彼らがカフェやレストランの外にある席を好み、毎週末、何時間もかけて森や野原を散歩する習慣に見て取ることが出来る。
第二次大戦後の危機意識と反動
第二次大戦の敗戦後、ドイツは奇跡と形容されるほどの急速な復興を遂げた。ハーバー・ボッシュ法を開発したBASF社は、戦時中に火薬を製造していたが、戦後再び肥料の製造・販売に注力した。兵器や戦車に用いられた製造技術は、トラクターをはじめとする農業機械の製造にも応用された。どちらもが農業生産性を向上させ、経済復興に寄与した。一方で、大気汚染に伴う酸性雨が針葉樹林を枯らし、産業廃棄物や残留農薬が、生態系と人体に悪影響を及ぼすことが明らかとなり、社会問題となった。ブドウ畑でも除草剤を撒かれ、トラクターで踏み固められた。それはちょっとした雨でも土壌流失を起こし、農薬散布に伴う健康被害も深刻だった。
「ラインヘッセンは軽いレス土が多く、畝の間に草を生やしているのは、怠け者の証拠だった。一方で雨が降ると土壌が流出し、石灰質も流出して、ブドウの葉が黄色くなるクロローシスがしばしば起きた」と、1950年代にドイツでいち早く有機農法に転換した、サンダー醸造所(Weingut Sander/Rheinhessen)の現当主、シュテファン・サンダーは言う。シュテファンの祖父は、戦後いちはやく有機栽培に転換した、ドイツのビオワインの先駆者である。畝の緑化を行うと土壌流出が止まり、クロローシスも出なくなり、ミミズの数も増えた。また、シュテファンの祖母は、若いころに多発性硬化症を患っていたが、祖父が海藻ベースの肥料で野菜を栽培すると、病状は改善し進行が遅くなった。「有機栽培の生産者は、健康上の問題を抱えている家族がいることが多い。家族のために『一体何が出来るか』という問いから、有機栽培に取り組む生産者が各地に少しずつ現れたのが、1960年代までの状況だった」そうだ。
当時、有機栽培に取り組む生産者は、いわゆるアウトサイダーだった。集落から孤立しつつも、目の前にある問題をどうやって解決したらよいのか考え、在来農法で栽培する近隣の農家と衝突しながら、それでも諦めなかった。コンサルティング組織のなかった当時は、各地域に指導的な役割を担う生産者がいて、その周囲に興味を持った弟子たちが集まっていた。例えば上述のサンダーがそうで、その弟子がヴィットマン(Weingut Wittmann/Rheinhessen)だった。ヴィットマンはまた、のちにVDPの同僚たちに有機栽培を指導している。
1970年代に入ると、ビオラント(1971)、IFOAM国際有機農法連盟(1972)、ビオクライス(1979)、ナトゥアラント(1982)といった有機農法団体が結成され、有機栽培のノウハウが共有されていった。1985年にワイン生産者の団体エコヴィンが設立されたが、2000年頃まで、有機栽培に取り組む醸造所はマイノリティにすぎなかった。彼らは在来農法が支配的な世界における、いわばレジスタンス達であった。
醸造技術の革新と危機感
1990年代に入ると、ブドウ畑ではなくセラーにおいて、技術革新とそれに対する反動が起きた。冷却装置付きのステンレスタンクが普及し、多種多様な培養酵母と醸造補助物質が出回り、アロマティックでフレッシュ&フルーティなスタイルがトレンドになった。90年代後半には、逆浸透膜を応用した果汁濃縮装置が登場し、天候に恵まれなかった年でも凝縮感のあるワインが、技術的には可能になった。さらにワインの香味成分を分子レヴェルで分解し、再び組み立てることの出来るというスピニングコーンカラム装置がメディアで注目されると、ワインはもはや農産物ではなく、香味をデザインした画一的な工業製品になってしまうのではないかという危機感が、スチュワート・ピゴットをはじめとするワインライター達や、醸造家達の間で高まった。モーゼルの醸造家ルドルフ・トロッセンの言うところの「フランケンシュタイン」ワインの登場である(参照:ドイツワイン通信Vol. 21)。
フランケンシュタイン・ワインの対極にあるのが、培養酵母を含む醸造補助物質を使わず、発酵温度の調整も行なわず、微量の亜硫酸以外はブドウの果汁を、果皮についた野生酵母で、つまりブドウ畑に由来するものだけを使って醸造することで、その土地の個性を反映した、トロッセンが言うところの「ふるさとのワイン」だ。そこでは地中の微生物環境が重要であり、ひいてはブドウ畑をとりまく生態系までもが、ブドウ畑の個性の表現に貢献するものとして理解される。
ここでもまた有機栽培は、ワイン造りの工業化と画一化へのアンチテーゼとして登場しているが、同時に高品質で個性的な、高付加価値なワインを造るための手段として重要なのであって、環境保護自体は付随的なものになっている点に注意したい。有機栽培に取り組む意味が変容しているのである。
そして、ブドウ畑の個性の表現を目指す動きは、EU欧州連合の、海外の新興生産国からの廉価な輸入ワインに対する差別化という戦略にも合致するものであった。ここに至って有機栽培の生産者達は、もはやアウトサイダーではなくなっている。あのエソテリックな、90年代までは冷笑されたバイオダイナミック農法ですら、ドイツのトップクラスの生産者達が大真面目に取り組み、その効果を認めるとは、2000年以前は想像しにくいことだった。一層の品質向上の手段として有機栽培やバイオダイナミック農法に取り組むようになった、高品質なワイン造りを行ってきた生産者達は、同じ目標を持つ生産者達のロールモデルとなり、普及を促している。
技術革新とナチュラルワイン
醸造上の介入を出来る限り抑制し、亜硫酸を添加しないか極端に抑制したナチュラルワインは、90年代の技術革新による成果の、対極にあるワインとして位置付けることができる。ごく一部の生産者が生産しているにすぎないが、若手生産者の中には、デジタル・ネイティヴならぬナチュラルワイン・ネイティヴとも言うべき、もともと造りたいワインがナチュラルワインだった、という人々がいて、両親から醸造所を継いだのを契機に路線変更する人もいれば、ゼロから醸造所を立ち上げた人もいる(ドイツワイン通信Vol.102 、Vol.119)。
かつての有機栽培と同様、このアウトサイダーのパイオニア達が今後どう変化していくのかは未知数だが、ある意味極端な醸造の成果を示すことで、メインストリームのワイン造りに、その限界と可能性を提示していることの意味は、おそらく小さくないのではないだろうか。
北嶋 裕 氏 プロフィール:
(株)ラシーヌ輸入部勤務。1998年渡独、2005年からヴィノテーク誌に寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)や個人サイト「German wine lover」(https://mosel2002.wixsite.com/german-wine-lover)などで、ドイツワイン事情を伝えてきた。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得し、2011年帰国。2018年8月より現職。
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