ドイツワイン通信Vol.118
アールの洪水
周知の通り、7月14日(水)から16日(金)にかけて、ドイツ西部、ベルギー、オランダで洪水が発生した。とりわけドイツがルクセンブルクおよびベルギーと国境を接する、アイフェル山地での降水量が多く、そこに水源のあるアール川流域では、多くの醸造所が被災した。全壊して、醸造機材も樽もボトルも根こそぎ流されたという生産者が何人もいる。
一方、やはりアイフェル山地に水源をもつ河川が流れ込むモーゼルでは、川沿いの町が水浸しになったり、セラーに浸水したりした醸造所がいくつもあったものの、17(土)にはほぼ日常を取り戻した。この違いは、どのような条件に由来するのだろうか。
洪水と気候変動
今回の洪水の直接的な原因は、7月の14日から17日にかけて、ドイツ西部に「ベルントBernd」と命名された低気圧が、東と西の高気圧に挟まれて停滞したことによる。東の高気圧からの暖かく湿った空気と、西の高気圧からの冷たい空気がぶつかって発生した雨雲は、特にフランス北西部、ルクセンブルク、ベルギー、そして西ドイツのアイフェル山地付近に集中豪雨をもたらし、24時間以内に150~200mm/㎡という、平年ならば7月一カ月の総雨量約80mm/㎡を大幅に上回る、異常な量の大雨が降った。
また、この短期間の記録的な降水量の他に、年初から雨がちで、地中に含まれる水分量が多かったことも、洪水を引き起こす原因となったと言われている。
なぜ低気圧のベルントがアイフェル山地に居座り、集中豪雨を引き起こしたのか。ひとつには、気温の上昇で、空気中に含まれる水蒸気の許容量が増えたためである。水蒸気の空中許容量が増せば、雲の中で凝結して地上に落ちる雨水の量も多くなる。
もうひとつの理由は、ジェット気流として成層圏を吹く風が、気候変動で弱まっていることが挙げられている。従来は、北極の寒気と熱帯の暖気の気温差により、北緯40度付近を高度約10km、最高速度約500km/hで流れていた。だが、大気中の二酸化炭素などの温室効果ガスが増えた結果、北極圏の氷が減少し、その上空の気温が温まって南北の温度差が減り、風速が低下。ゆるやかに蛇行するようになった。そのため、本来ならばジェット気流に乗って速やかに移動するはずの、低気圧や高気圧が停滞しがちとなっている。
例えば今年6月末から7月上旬にかけてカナダを襲った、最高気温49℃に達した未曾有の暑さや、2019年1月の北米東海岸の氷点下20℃以下の寒さ、あるいは中国河南省の豪雨もまた、気候変動の影響だと言われている。
洪水の経緯
アール渓谷を洪水が襲ったのは、14日夕方から深夜にかけてのことだ。朝には90cmだったアール川の水深が、17時半には上流の川沿いの家屋に浸水し、23時には水深6mを超えて広範囲に濁流が広がった。家の中に入り込んできた水は、毎分10cmのペースで増えていった、と目撃者は証言している。
アール川とその流域。標高によって色分けされている。赤い線はブドウ畑があるエリア。(Source: Ahrwein e.V., Stein & Wein an der Ahr, s. 7.ダウンロード;ahr_07032017.pdf (lgb-rlp.de))
普段のアール川は、川幅が広いところでも10mほどの小規模な河川である。上流のアルテナールから急斜面のブドウ畑が始まり、渓谷を縫うように蛇行する川の周りにあるわずかな平地に、マイショース、レッヒ、デルナウ、マリエンタール、ヴァルポルツハイムといった、赤ワインで名高い集落が点在している。
ヴァルポルツハイムを抜けると沖積地の平野が開けて、温泉保養地として知られるバート・ノイエナール=アールヴァイラーの町に至る。これらの集落と町を、普段は長閑なせせらぎにすぎないアール川が濁流となって襲った。
今回の洪水ではアール以外にノルトライン・ヴェストファーレン州でも死者が出たが、7月25日現在判明している184名のうち、132名がアール川沿いの住民だったということが、いかに濁流がすさまじいものだったかを物語っている。道路は寸断され、鉄道も7カ所の鉄橋をはじめ、線路と送電線が各所で破壊されたため、現在は公共機関での移動は不可能である。ドイツ鉄道の目下の目標は、年内に8割方復旧させることだという(参照:https://www.ksta.de/politik/wiederaufbau-an-ahr-und-eifel-bahn-schaetzt-hochwasser-schaeden-auf-1-3-milliarden-euro-38930066?cb=1627092652560)。
被害の状況と支援
ドイツで4番目に小さなワイン生産地域アールでは、562haのブドウ畑を、65軒の専業醸造所と、1000軒以上の兼業農家が耕作している。中でもデルナウにあるマイヤー・ネケル醸造所と、ジュリア・バートラム醸造所の被害は深刻だという。
「洪水は、私達の醸造所をほぼ完全に破壊しました。試飲直売所、大事なワインの貯蔵庫があった古いセラー、そして事務所も水没し、大量の泥に埋もれてしまいました。醸造施設、樽やタンク置き場、醸造機材倉庫、瓶詰したワインの貯蔵庫まで、高さ6mの『津波』にさらわれました。ほとんど全部のバリック樽だけでなく、タンクや圧搾機の大半までもが、何キロメートルも先まで流されていました。ほとんど何も残っていない状態です」と、マイヤー・ネケル醸造所はフェイスブックに報告している(7月24日)。幸い、VDPに加盟している他の産地の醸造所や、著名ソムリエなどの支援が後を絶たないようだ。
同じくデルナウにあるジュリア・バートラム醸造所は、近年急速に評判を高めている若手生産者だが、やはりセラーとともにバックヴィンテッジだけでなく、リリース前の2020年産も流されたという(参照:https://trinkmag.com/articles/flood-comes-for-the-ahr-and-its-winemakers)。2021年産の醸造は、よかったらウチの機材を利用してほしいと、モーゼルの友人から申し出があるそうだ。
デルナウの隣村レッヒのジャン・シュトッデン醸造所も、セラーが水没したが、ボトルは泥をかぶったものの大半は無事なもようで、樽の中のワインが大丈夫かどうか、後片付けを手伝いに来たラインヘッセンの醸造家とともに確かめていた。ここでも、志のある友人達や、何か役に立ちたいというボランティアの人々が手を差し伸べていた。
マイショース・アルテナール醸造協同組合もまた、醸造所や試飲直売所が浸水・破壊され、一体どこから手を付けてよいかわからない状態だという(参照:Rhein-Zeitung7月21日付https://www.rhein-zeitung.de/region/rheinland-pfalz_artikel,-harter-schlag-fuer-die-weinregion-an-der-ahr-jetzt-droht-auch-noch-dem-jahrgang-2021-gefahr-_arid,2285545.html)。24日に、泥の中から見つかったボトルを6本100Euro(約13,000円)で販売する、とSNSとサイトで発信すると、24時間で600件以上の発注コメントがついた。被災したワイン生産者を支援したい、という人々の思いの強さを感じさせる。
アールのブドウ畑は、川沿いの低地にある畑を除き、洪水の被害は免れた。しかし多量の水を含んだ泥から発する湿気で、カビが蔓延する危険が高まっている。近日中に政府の指示でヘリコプターによる農薬散布が行われるというが、農機具も住む場所も失った生産者達にとって、ドイツ各地の醸造所から駆け付けるボランティアたちの支援が、頼みの綱となっているようだ。
支援が見せるワイン業界の団結力
復興支援の動きは早く、17日にはVDP.ドイツプレディカーツヴァイン醸造所連盟が、加盟醸造所だけでなく、アールの生産地域全体の復興を目的とした義援金の募集を始めた。ここには銀行振込とPayPalによる送金が出来る(参照:https://www.vdp.de/en/the-eagle-helps-ahr)。
20日にDWIドイツワインインスティトゥートは、募金口座の開設とともに、各生産地域からの人的支援や機材の提供による支援のコーディネート窓口を開設。チャリティワインセットを販売する各地の醸造所やワインショップや、DWIとDWI以外の業界団体の複数の義援金口座や、ソーシャルメディアで活動する支援グループのリストを掲載しているが、そのリストは日ごとに長くなっている(https://www.deutscheweine.de/aktuelles/meldungen/details/news/detail/News/flutkatastrophe-an-der-ahr-so-koennen-sie-helfen/)。
一方、日本からの募金については、Wines of Germany日本オフィスは、ドイツのDWIの銀行口座を通じて受け付けるに留まっている(7月26日現在)(https://www.winesofgermany.jp/contents/2021/dramatic-situation-in-german-wine-region-ahr-help-for-wine-producers/)。
一連の支援の動きの中で特に注目を集めているのは、元バルタザール・レス醸造所の醸造責任者で、現在はラインヘッセンのザンクト・アントニー醸造所の経営責任者を務めるディルク・ヴュルツが立ち上げた、「ソリダア(ー)リテート・パケート」SOLIDA(H)RITÄT PAKETである。アールの復興支援に賛同する各地の醸造所が、このプロジェクトにワインを寄付し、無作為に6本組み合わせたセットを、65ユーロ(約8,500円)で販売。売上のすべてがVDPの義援金口座に振り込まれるというものだ。
プロジェクトが立上げられてからまもなく、ドイツはもとよりイタリア、ギリシャからもパレット単位でチャリティ用ワインが持ち込まれたが、その際の輸送費用は運送会社が無料で請け負ったという。梱包用の箱も大量にメーカーから寄付され、注文者への送料はDWIが負担する。わずか48時間で10,000セット60,000本が販売されたという(支援ページ:https://www.st-antony.de/SOLIDAHRITAET-solida-h-ritaet-paket/)。
この他にも、上記のDWIの支援ページにもあるように、ワインの製造販売に携わる人々が、それぞれの立場からアールのワイン産業を支援しようとしており、業界の団結力(ソリダリテート)を印象付けている。
モーゼルの洪水
一方モーゼルでは、アールから1日遅れて16日未明に洪水がピークに達したが、その日の午後には水位は下がり、17日には平常に戻った。モーゼルでは毎年2~4月恒例のように、水源のあるヴォージュ山脈の雪解け水が洪水を引き起こす。それは河岸の散歩道やキャンプ場を水没させるだけの年もあるが、町の中まで水浸しになることも珍しくない。だから、生産者にとって洪水は生活の一部であり、その準備は手慣れたものである。
モーゼル川の水位の上昇が知らされると、川沿いの醸造所では、セラーから水に浮かぶ機材を片付け、樽やタンクが浮かないように床から紐で縛ったり、天井からつっかえ棒をして押さえつけたりして固定する。水に浮かんで移動すると、後で片付ける時に苦労するうえ、密封した栓がどこかにぶつかって、外れるかもしれないからだ。置く場所があれば、フォークリフトで川とは反対側の高台に移動することもある。
今回の洪水では最大水位は1012cm(Zeltingen)に達し、1993年の記録である1100mに迫る水量だった。「いつもの洪水は冬景色の中なんだが、今回は夏の緑の中でモーゼルがあふれている。妙な光景だった」と、ある生産者は言う。ルドルフ・トロッセンでは、川沿いの低地にあるブドウ畑が水に浸かったが、醸造施設には影響はなく、4時間で急速に増えた水嵩が印象的だったという。
トロッセンから少し下流にあるイミッヒ・バッテリーベルクでは、当初、仮にセラーに浸水してもせいぜい10cmだろうと予想していた。醸造所は斜面にあり、地下1階が普段醸造を行うセラーで、地下2階に使用していない樽を置いている。最終的に浸水した水は深さ3mに達し、地下2階が水没した。ただ、幸いワインはすべて無事だったという。
ヴァイサー・キュンストラーのあるトラ―ベン・トラーバッハは、川沿いと醸造所のある町の中心では高低差があり、被害はなかった。上流寄りのA. J.アダムはドーロン川の脇にあるが、この川はアイフェル山地とはモーゼルを挟んで反対側の、フンスリュック山地に水源を発していて、増水はほとんどなかった。さらに上流のザールのファン・フォルクセンでも、山の上に新設した醸造施設はもちろん、ザール川と標高のかわらない町の中にある旧施設も無事だったそうだ。
モーゼルとアールの状況を比較すると、集中豪雨の降水域とともに、やはり渓谷の狭さと入り組んだ地形が、被害を大きくした原因だと思われる。アール川は2016年にも氾濫したが、水深は369cm(Altenahr)で今回の6mよりも少なく、被害の程度も相応に軽かったようだ。機材や樽などが崩れたり、濁流にさらわれたりした様子から、生産者達は、洪水に対する十分な備えが出来ていなかったように見える。そしてまた、ドイツ気象庁が正確な洪水警報を出していたにもかかわらず、該当地域に避難指示を出す役場の責任者が、十分早い時期に命令を出さなかったため、誰も避難行動をとらなかったことも、人的・物的な被害を大きくした原因だとされる(参照:Rhein-Zeitung 7月23日付https://www.rhein-zeitung.de/region/rheinland-pfalz_artikel,-warum-wurde-im-ahrtal-nicht-frueher-evakuiert-innenminister-lewentz-sagt-nur-der-kreis-haette-die-ents-_arid,2287086.html)。
洪水と気候変動
交通網やライフラインを寸断されたアールの復興には連日、連邦軍や消防隊、電気工事などの技術を持つ人々が本業の傍ら参加する技術支援隊THWや、各地から訪れたボランティア達など大勢の人々が働いている。しかし完全な復興までは、年単位の長い時間がかかるだろうと言われている。
18日に現地を訪れたメルケル首相は、洪水の頻度がここ数十年で高くなっていることから、気候変動と関係があると明言。気候変動に対抗する戦いをスピードアップする必要があると訴えた。日本でも近年増えている洪水の被害と、今回の西ドイツの洪水は無関係ではない。7月21日にSommeTimesが速報「西ドイツを襲った大洪水」(https://www.sommetimes.net/post/short2)の中で伝えているように、我々一人ひとりが気候変動を抑制するような行動に、日常から取り組まねばならない時期が来ていることを、アールの悲惨な状況は教えているのではないだろうか。
北嶋 裕 氏 プロフィール:
(株)ラシーヌ輸入部勤務。1998年渡独、2005年からヴィノテーク誌に寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)や個人サイト「German wine lover」(https://mosel2002.wixsite.com/german-wine-lover)などで、ドイツワイン事情を伝えてきた。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得し、2011年帰国。2018年8月より現職。
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