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Sac a vinのひとり言 其の五十「正しさ」

 スーパーマーケットの入り口の色が山菜で彩られ始めてくると、春の訪れを感じてしまう。厨房に届く食材の香りが鼻をくすぐり、見習いが筍の皮に悪戦苦闘する。日本国内だけでなく世界中から様残な食材が届いてしまう現在では、季節感というものはどこか印象が薄くなってしまっているが、やはり厳しい寒さの季節を抜け出した喜びというものは格別である。
 鯛は明石、筍は京都、鮎は天竜川など、ひと昔前であれば、その食材はここ、この食材ならあそこに限るといった、格付けとまでは言わないが市場で求められていたものはある程度限定され、それ以外のものは基本的にドメスティックな範囲での消費に限られていた。しかし、バイヤーの情報共有の発展と消費者のニーズの増大に対する対応に業界が追われていた結果、日進月歩で新たな商品が発掘されている。
 近年の例で挙げると、それまでは冬のエゾシカくらいしかマーケットに出回っていなかったのが、流通の安定によりマーケットが展開された四国や中国地方から来る夏のニホンジカ、温暖化の影響で量と品質が向上したことにより評価されている北海道米、オーストラリアの黒トリュフなどが良い例なのではないだろうか。
 こういった商品の発展を眺めた際に面白いのが、常識的に考えると従来の商品との競合になるケースが想定されるのだが、時期のずれや新旧の商品の購買層が全く同じではないケースが多いことにより、むしろマーケット全体が活性化していることである。新規の顧客は所謂〝ブランド″ものが価格や割り当ての問題で手に入らないことがあり、新興の商品を入手して提供する。名品として扱われてきたものを取り扱ってきた業者も新興のものを試しに使ってみて、それらが一定の品質基準を満たしていれば積極的に取り入れることで、供給の安定化や期間の延長などの顧客への還元が可能になる。供給側はまさに群雄割拠であり、量や品質などのパフォーマンスで鎬を削りあうという、結果として消費者にとっては非常に喜ばしい環境が整いつつあると感じられる。

 このような様々な産地、時期、生産者といった商品の変数の数が複雑化して、分析と判断が重要になってくる現在、商品のプライスとクォリティがある程度は担保されていると仮定すると、消費者が考える「あるべき姿」「正しさ」というものが、一定では無くなってきていると考えるべきだろう。
 カツオで説明してみよう。古来、「江戸っ子は初ガツオを女房を質に入れてでも食べなくちゃなんねえ」と言われるほど初夏のカツオは絶対的なブランドであったし、提供者もそれに合わせた商品展開を行っていた。昔の魚屋が青葉の頃にカツオが安いよ! と叫んでいたのが懐かしいものである。しかし、90年代半ばから後半にかけて一部でしか知られていなかった秋のカツオ、所謂「戻りガツオ」が一般でも好んで消費されるようになった。初ガツオに比べて脂のノリも良く濃厚な香りのするカツオは、従来その殆どがタタキにして薬味をたっぷりと利かせて供されていた状況を大きく変えて、刺身でそのままあっさりと頂くという食べ方を〝一般化″させた。双方の品質は性格が違うだけであり、そこに優劣はない。結果として夏にはタタキ、秋には刺身という二つの消費形態が並び立つこととなりカツオという商品の汎用性と価値が上昇することとなった。そうなると、初ガツオだけがもてはやされたころに求められたカツオのポテンシャルは、如何に美味しいタタキになるかであったが、刺身も消費の形態に組み込まれると、今まで夏にあまり歓迎されなかった脂の多い刺身に向いたカツオも消費者からニーズが発生するようになる。「正しさ」が並びたつのだ。

 料理の話ばかりしていても仕方がないのでワインに置き換えて話を進めたい。
 ブルゴーニュという枠で考えてみると、先ず時代という軸では 
   戦後~1980年代 前半      冷涼な気候と化学技術の積極的介入
   1980~2000年代 初頭      緩やかに進んだ温暖化、樽比率の上昇、醸造技術の発展
   2000年代初頭 ~ 現在    顕著な温暖化と樽比率の低下、薬品使用と技術介入の是非
 などが、まずトレンドとして考えられる。

 そして、この際の変数は「気候」「ブドウ」「周辺環境」「醸造」「生産者」があげられるだろう。そこに輸送網の発展と情報の共有の極大化が加わったことによる、対外的マーケット拡大からのニーズの変化も加味するべきだろう。
 そして、大きく変動しないのが「畑の位置づけ」「法律による規制」「品種特性」などだろう。味わいやクォリティの分析や分類は今までも触れてきたことなので割愛するが、世代ごとに「正しい」品質があり、それらを俯瞰したうえで並べてみてもそこに優劣は存在しない。
 「昔のブルゴーニュの味筋のほうが好きだ」と述べるのは問題ないのだが、「20世紀後半のワインのほうが現在より品質的に優れている」などと述べてしまうとプロとしては大問題であるし、要らぬ誤解を生みだすだけの行為である。「醸造技術の研究は昔より進んでいて、品質の安定化が達成されて産業として成熟した」ならば事実なので問題ないが、ワインの品質の判断は数値で表されるものではないので、現在・過去・未来で向上または衰退したか否かは客観的な評価は不可能で、あくまで主観的なジャッジのみが可能となり、そしてそれは非常に移ろいやすく、基本的に「間違い」は存在しない。マジョリティ側に属する「正しさ」であれば共有されやすく、マイノリティ側であればその逆になるだけである。

 そう、主観的に観測と評価がなされるものは、リアルタイムでは絶対評価は不可能で、あくまで総体の内の位置づけが決まり、そして新たな評価が毎年更新されてまた新たな位置づけが決まり…と、刷新と繰り返しの中で、おおまかな〝評価″が決まっていく。そして、それは頻繁に更新が行われる。〝評価″は議会制民主主義のように多数決で決定するものではないが、大多数から好意的に受け止められるということは、皆に利益、この場合はパフォーマンスが相当すると考えると、そこに対して意見や異論などは存在するだろうが、おおむね間違っていないと考えられる。そしてその結果と履歴が、「ファイン」「クォリティ」といった形容詞をワインに与えられる。現在進行形で与えられるわけではなく、辿ってきた経歴や評価がそれを可能にすると考えるならば、「ファインワイン、クォリティワインで〝あった″」はかなり客観的に成り立つのに対して「ファインワイン、クォリティワインで〝ある″」というのはあくまで観測者の現在の主観としてしか成立しない「完了形」なのである。
 だが、ワインという想定的に判断基準が変化して主観的にしか補足できないこの悩ましいモノたちの中から、私たちは「ファインワイン、クォリティワイン」を探し出していかなければならないし、生業である以上、他よりも先んじなければにならない。誰かの見つけてきた「過去完了」を追いかけるのではなく、自身の判断基準で「未来完了」を見出していく。それがプロフェッショナルとしての仕事であるし、その判断に5W1Hでしっかりと答えられるようにあらねばならないだろう。それは誰かに担保される「正しさ」ではなく、自分が「正しい」と感じて信じるものを世界に打ち出していく。自分自身が世間の目という俎上にのせられる。なんともおそろしくも感じられるが、世界という大河にワインのチョイスという小石を投げ込むことで、少しでもさざ波を立てられるのならば、こんなにも心躍ることとはないだろう。それが「正しかった」か否かは、未来が教えてくれるだろう。

 

~プロフィール~

建部 洋平(たてべ ようへい)
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー


 
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