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エッセイ:Vol.153 「素朴な疑問① ワインの博愛主義 」

本論

 ワインを愛することはむろん、あらゆるワインを愛することではない。(テーゼ①) 

 かりに、あらゆるワインを愛することができるとしても、あらゆるワインを飲み味わって楽しむことができるだろうか。もし、飲み楽しむというワイン愛の行動を伴わないとすれば、喉・鼻・胃袋という肉体をとおさないからには、それは口先だけの愛、しょせんリップサーヴィスにすぎない。理想的に言えば、愛は思想と行動をともなわなければならないのだから。 

 ここで、あらゆるワインを愛すること―これが可能かどうかは別として―を、「ワインの博愛主義」と呼ぼう。(テーゼ②)

 現実的にいえば、あらゆるワイン―すべての産地と品種、タイプと製法、造り手が大製造者か小ヴィニュロンか、その品質と状態など―を、ひとしく無差別に愛することは、神ならぬ人間がそれぞれ異なる好みや趣味を持ち合わせる以上、無理難題で実行は不可能。 
 あらゆるジャンルの芸術(美術・音楽・映画・演劇・文学・評論など)や、生活のアート(ワインをふくむ飲食の組み合わせなど)についてもおなじ。それらを形づくっている多様で個性的な作品群のそれぞれを、そのできの如何を問わずにひとしく愛するなど、無理もいいところで狂気の沙汰。しょせん、観念の戯れにすぎない。

 とすれば、テーゼ①は、テーゼ②からして、こう言いかえられる。
 すべてのワインを愛することは、ワインの博愛主義という、観念の戯れにすぎない。

 逆に言えば、
 ワインを愛するとは、特定のワインを愛することである。(テーゼ③)

 おおげさにいえば、各人の審美的な、あるいは趣味の基準にもとづいて、特定のワインを愛で、特定のワインを退けること。これが、意識的か無意識的かは別として、ワイン愛好家が日常的にとっている行為であろう。

 次に、「至高の愛」(注。ヴィリエ・ド・リラダンの小説のタイトル)の世界から、判断や評価、鑑定という世俗の世界に降りよう。愛することと評価することとは、別の次元に属すことがらとして、峻別しなければならないから。

 [ワインの認識と評価にかかわる、数々の素朴な疑問
 厳密に論じるとすれば、まず、個別のワインについて、人はそれを評価することができるか。そもそも、ワインの評価とはなんだろうか。ワインの評価は、「数字」—特定の尺度にもとづく点数—によるのか、それとも「言葉」—文章記述—によるのか。その評価は、評者や評論家によって異ならないか。異なるとしたら、それは客観的な評価であるのか? そもそもワインのような感覚世界に属するものを、主観ぬきで絶対的な尺度や基準でもって、客観的に評価できるか。客観的な評価が可能だとしても、ワインの個別の要素(色、香り、成分、味わいの構成など)をふまえた、総合的な個性と可能性の評価は、いったいできるだろうか。

 認識をめぐる基本的な疑問と自問自答のあげく、私の下した定的な結論は次のとおりである。

 ワインの評価はあくまで主観的なものであり、また、主観的でなくてはいけない。ワインという感性的な存在を、理性によって捉えようとするのは理解できるし、評価を追求する試みを放棄してはならないが、その試みを客観的な評価であるかのように装うとしたら、それは欺瞞である。(テーゼ④)

 そこで予想される典型的な反論は、ざっと次のようなものだろう。

 どんな世界にでも知識と経験ゆたかな専門家がおり、ワインもその例外ではない。現在は科学と専門家の時代であるから、とりわけ科学に通じた専門家にとって、ワインを客観的に分析判断し、評価できるはずであり、じじつそのような専門のワイン評論家として世界で認められている人がいるではないか。奇怪な説をなすお前こそ、なんのワイン資格もない、一介の非専門家ではないか。

 ここで、いちいち反論するのはバカげているから「差し控えさせていただく」(政治家が愛用する言葉)が、言いたい要旨はつぎのとおり。

 まず【専門家】について。およそ専門家とは通常、対象とする専門領域を定めて、その排他的な領域については豊かな経験と詳細で確実な(過去の)学識があるだけでなく、それに劣らぬ自負心がある人物。その領域に属する問題については、定められた業界手順にしたがって、同業者または素人に対して、説得的または玄人めいた論法でもって、説明や判断、批評や評価を下すことを職業とする人。なにごとも手際よく解説できるだけでなく、鑑定や予測ができると思われている人もおり、ジャーナリズム界で重宝される。

 ついでに、【プロフェッショナル】とは、特定の領域において問題を有効に解決できる技能を有し、有料でもって自己の責任で解決すべき仕事を請け負って実行し、それでもって生計を立てている人、というふうに外形的に定義することができる。

 そこで、【ワインの専門家】の出番である。
 この職種の人たちもまた他の職種の専門家どうよう、ワインという領域でその評価や鑑定ができ、それを職業とする人だと思われ、期待されているようだ。が、そんなことは可能なのか。
 たしかにワインについても、その個別領域別に専門家とみとめられている方々がおり、一人でもってすべてのワイン領域をカバーしている人はほとんど皆無。世界各地のワインについては、各国別の専門家に分かれ、フランスワインの専門家もまた、ボルドー、ブルゴーニュ、ロワールなどのテリトリーについて、少数の尊敬すべき専門家がいることはたしかだ。

 はかり知れない数にのぼるワインの品種について、園芸学的な知識を有する、ジャンシス・ロビンソンのような人も、例外的にいる。けれども世には、ピノ・ノワールやサンジョヴェーゼの専門家というワインライターがいて、誰もが公平にワイン品種を愛し、同等に評価しているわけではない。そういえばマット・クレイマーも、ジンファンデルは好きだがシラーは苦手だと、どこかで率直に書いていた(我が意を得たり。私も同じ好みだ)。

 いうまでもなく、すべての品種が同格同レヴェルで、すべからく優秀なワインができることはありえないから、等しく愛好家や自称専門家たちの愛情に浴する価値を主張するわけにはいくまい。かといって、某品種は二流と決めつけるのも愚か。その特定品種を用い、特定産地で特定の造り手がつくった特定アイテムについて、ワイン界のどういう水準にあるかを、おおよそ比較判定すればいいだけのこと。特定品種信奉者にも、流行品種(や流行産地)追随者にもなりたくないものである。

 そんな品種問題はさておき、また細部に神やどるという明察もさておくとしよう。
 ワインの理解とは、ひとり合点にちかい思い込み、愛好家の執念か妄想であろう。まして、すべてのワインを正確に理解し、評価することは、実際的にいって不可能だというのが、論理的な結論になる。だからこそ、ヒュー・ジョンソンなどの稀にみる編集的な知性人だけが、各地域や分野別の専門家を擁しつつ、世界のワインについての情報を整理要約することができる。どうようにして比類なく頭脳明晰なジャンシス・ロビンソンにして、はじめて不朽の大作『オクスフォード版ワイン事典』が、有能な協力者をえて編集執筆できた次第なのだ。

 以上のような例外的な事実があることは称賛に値するが、それは【ワインの専門家たち】の共通知を集合すれば、ワインに関する正確で詳細な情報を集約できること以外に、なにも証明してはいないのではないか。

 個別ワインの客観的評価については、ワインライターなど同業者間でおよその一致をみることがあるにしても、それが正確であるかどうかは別の話である。また、一般的にいえば、編集や執筆の才に恵まれた知性人が、文章記述力をのぞけば、必ずしも特別に優れた味覚と記憶力の持ち主であるとはかぎらない。(参照:ワイン記憶の天才が、ワインの判断や記述ができなかったことをめぐる、マット・クレイマーの好エッセイ)

 結論。【ワインの専門家】ならば、あらゆるワインは無理としても、特定領域ワインの評価や鑑定が正確にできるというのは、あまり根拠のない確信でなければ思い込みであろう。

 

なくもがなの補論

 なにごとにも欠点は付きものであって、人間もワインもまたその例外ではない。だから、多かれ少なかれ欠点のある人間が、少なかれ多かれ欠点のあるワインと付き合うとき、お互いの欠点を見つけて非難しあうとしたら、それこそおかしな話になるだろう。が、生憎というべきか残念というべきか、ワインは人ではない(らしい)から人語を解さず発しもしない(ことになっている)。

 というふうに、ここでいちいちカッコ(~ )をつけて正確を期すという厳密な書き方は、書き手にも読み手にも七面倒くさいから、カッコをはずして書き進めることにするが、あらゆることにカッコはつけられる(冗談)と思ってお読みくださいな。以上は、カッコつきの注釈です。

 おっと、話をムートンならぬ、もとのワインに戻すとしよう(このあたり、ラブレー調)。欠点のあるワインを、同様に欠点がある人間がえらそうに評価や判断を下すのは、おこがましいところ。だが、人間が人間を評価判断するのもまたそれ以上に難しいはずだが、日常的にはワインも人間も、人間が評価し、はては点数をつけることが習わしになっている。厳密には不可能なことを、やむをえず押し付けられているというところか。

 だとしたら、ワインに関するかぎり、あるいはワインについても、人は本質的に判断不適格者なのだから、控えめかつ慎重にワインに向き合うべきことになる。ワインについて何かを言えば、クチビル寒し。吐いた言葉はわが身にふり掛かってくるわけで、人とワインに通じたわけしりの人からすれば、おこがましさは噴飯ものだろう。
 要は、ワインと言葉で向き合うよりは、肌身の間柄でつきあうことが肝心だが、これまたなかなか難しくて骨が折れることなのである。

 欠点のあるワインや、ワインの欠点そのものを愛するのは、度量の大きさを示すのかもしれないが、しょせん贔屓の引き倒しであって、神の愛かもしれないが、知恵のある人のすることにはつながらない。


 
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