Sac a vinのひとり言 其の四十八「多様性という名の鎖 3」
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建部 洋平の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
多様性。これまで2回に渡って語ってきた内容について、引き続き書き記させて頂く。
ワインという愛すべき飲料が、画一的ではなく多種多様な魅力にあふれることは、喜ばしいことであり受け入れるべきことでもある。
これまでに述べてきたように、ワインが地産地消のドメスティックな文化から輸送網と情報網の進化により、インターナショナルな文化へと変貌を遂げた現在において、食卓を彩るワインに求められる役割は日々増大し、ワインを飲まない文化圏(つい忘れてしまうが日本も元々はそう)の食事との相性すら求められており、既存の味わいでは対応できない状況も増えつつある。
ロバート・パーカーを代表とする発信者らの功績により、過去の、ワインが主に貴族やブルジョワの間でのみ取り上げられる地方性の強い秘密主義的な嗜好品として、ある種のマニアックさを伴っていた時代から、情報がパブリックに公開され流通するようになったことで、日常的な消耗品としての価値も真に有するようになり、一部のスノッブも過去の遺物になりつつある現在において、肥大化した顧客のニーズ全てをフォローすることは大規模な生産計画で、ビジネスに当たるワインメーカーにとってはメリットが少ないため現実問題対応されることはなく、そのニッチなマーケットは小規模な生産者が拾い上げているので、問題なくマーケットは回っている。そして生産者側の新しい試みやある意味での奇抜な挑戦も、どこかしらでニーズが有ると予想されるので、世間に必要とされない個性をもつワインというものは、何らかの欠陥でも有さない限り市場には原則存在していない。
そして、実利的な面でも様々な品種のワインが栽培されることは、フィロキセラや一部の疫病の流行などへの防衛手段として非常に有用である。もちろん画一的な品種と製法で製造される「計画的」なワインは、経済への寄与という面で考えれば、評価すべきことなのは自明の理ではあるし、大量生産を行わなければ拡大が続く世界のマーケットでの商機を失うということも理解できる。
しかし、消費者の欲求と情報共有の速度、そして消費行動の超高速化が一向に止まらない現在において、画一的で変化に乏しい商材が、マーケットでシェアを確保しつつ成長して続けるというのは、余りに楽観的である、と言っても言葉は過ぎないだろう。同じ商品が変わらずに売れ続けるためには、常にブラッシュアップし続けなければならず、またその変化を対外的に発信することを絶やしてはならない。
クォリティの向上は必要条件ではあるが、劇的に向上することは簡単ではないし、どうしたって時間というコストを掛けない訳にはいかない。そして、ワインという生産に必要な時間のコストが大きな商材の場合、コンビニエンスストアで売っているスナック菓子やパンのように、「美味しくなってリニューアル!」などと気軽に発信するわけにはいかない。気長に臨むしかない。
よって、畑での仕事のメソッドや新規品種の栽培、醸造方法の取捨選択といった、時間的コストの必要のない生産途中のポイントにおける変化という、ある意味では「気軽に」発信できる情報は、対外的な広告に使用可能な情報としては、非常に魅力的で重宝されていると私は感じる。皆様も既存の生産者の新規の品種のワインや独自の製法のキュヴェが出たら、つい買ってしまった(買わなくてはいけなかった)経験は少なからずあるだろう。そういった意味では、少し前から大手生産者も積極的に自然に慮った畑仕事を取り入れていくケースが増えてきているのは、コマーシャル的な意味での選択ではもちろんあるだろうが、結果として不必要な除草剤や農薬の削減にもつながり、少なくない醸造元で品質の向上につながっているのは喜ばしいことだと言える(醸造学がある程度まで発展して、機材も進化のスピードが鈍りつつあり、尚且つ市場からにニーズは常に増え続けているので、収量を落として品質の向上を図ることのできない現状、生産工程において作業の見直しがが可能で品質の向上が見込める数少ない部分であったという、企業側の冷静な判断もあったとは考えられるが)。
ただ、ある程度の歴史と評価の土壌が固まっている文化に、新たな価値観と参入者が入ってきた場合、必ず起きると言っていい現象がある。
原理主義者と新たな教義を振りかざすものとの諍いである。
音楽や書物などのそれぞれの嗜好に関わる古株と新参者の争いを思い浮かべて頂ければわかりやすいと思う。新旧世代のぶつかり合いは、新しい発見や発展を促すことも往々にしてあるので、決して忌避すべきものではないのであるが、問題になるのが自身の所属するセクトこそ絶対であると信じて柔軟さを失い、そして、狭い世界で先鋭化して排他的になっていくことである。
ワインの場合で考えると、ひと昔前なら「新樽絶対主義、抽出万歳」な方々であったし、今なら「天然自然こそ絶対。科学的要素は絶対排除」な方々であろう。面白いのが、傍目には対照的に見える両派であり、出発点と目標点は激しく異なるのだが「手法と味わいが結果として画一的」な点においては、面白いほど酷似しているというところだ。そして何ともコメントに困るのが、両派の信奉するようなトップの生産者は基本的に手段や哲学には基本こだわっておらず、ただ単純に自身が「美味しい」と信じるものを可能な範囲で実行した結果、銘醸が生み出されたに過ぎないということである。
簡単に言えば、彼らは「ワイン造り」が上手で、真摯に仕事に向き合っていただけに過ぎず、教義や特殊な技術があったから素晴らしいワインを生み出すことが出来たわけではない。むしろ、そういったものを出発点としたワインで傑出したものには、寡聞にして出会ったことはない。
そう、メソッドや考え方で素晴らしいワインが生み出されるわけではないのだ。
確かにそれらはクォリティの向上の一助にはなり得るのだが、ワインであれ他の何であれ、素晴らしいクォリティを持つものを生み出すのは、常に真摯な仕事に対する姿勢と情熱、経験に裏打ちされた知識と、反復して身についた技術なのである。特別なコツや魔法などが介在する余地は無い。技術介入の範囲が広いものであれば、誤魔化しを利かすことは可能ではあるが、ワインという果実のエネルギーを可能な限りそぎ落とすことなく頂くことを目的の一つとしたものの場合、色々と弄って取り繕うことは高いレベルにおいては、難しいと言わざるを得ないだろう。
多様性も同様である。個性があるから素晴らしいなどということはないし、提供者がそれをバリューだとして発信することには違和感を抱かなければならないと思う。揮発酸や所謂豆香が混じりこむことで複雑味が生まれることはあり得るが、入っているからクォリティが上がっているわけではなく、元々の品質が高いので個性として認められているに過ぎない。
一般的な感覚からすれば、雑味は雑味でしかない。ネガティブなものはネガティブであるとしっかりと認識して判断しなければ、判断の基準がどこに在るのか分からなくなってしまう。
開けて30分以内に飲み切ってくださいというのも、購買者からすれば個性でも何でもなく欠陥でしかない。年に10本程度しかワインを飲まない方が、久しぶり贅沢しようと思って開けたワインがすぐ美味しくなくなってしまったら、その人がワインに対して抱く印象はどうなるだろう? 不安定な状態で購買者に引き渡すことで失われる信用は、販売者の信用だけではなく「ワイン」全体の信用である。
個性や多様性というものはあくまで付加価値でしかない。
しかし、マーケットの現状を俯瞰してみると、様々な理由から他の商品との差別化の為(新しい商品の発掘はビジネスの基本なのでそれ自体は責められるものではない)に、如何にして独自の性格を持つワインを発掘、展開していくかに腐心しているように見える。生産者側も、そういったニーズを無視するわけにもいかないという現状がある。そして、消費者は異常な速度でそれらを消費して、また新たな発見が市場に提供され、また消費される。ある意味では消費するように追い立てられているといった見方すら出来てしまう。別に誰かが「もっと変わったものを! 多様性を! 」と圧力をかけているわけではない。しかし、いつの間にか生産者も、業者も、消費者も、みな多様性という名の鎖につながれているように私には感じられてしまう。
自由と解放を多様性に求めていた筈なのに、逆にそれに縛られている。何とも皮肉なものである。
私自身も新しい品種や地域のワインに出会うと、つい贔屓目に見てしまいがちであるし、冷静な判断が出来ているかと言われると、答えに詰まってしまう。3回に渡ってこのテーマで執筆させて頂いたのは、自戒の念に駆られてという側面もある。
多分、提供者がこういった本質以外のことに悩まされず、判断するのに一番重要なことは、単純である。
”ときめき” である。香りを胸いっぱいに吸い込んだ時、一口ワインを口にしたとき、胃袋から華やかな後味が駆け上ってきたとき。そういった時に感じた胸のときめきには、虚飾や損得の感情は一切なかったはずである。そして、それはワインに携わる人間であれば、必ず体験している筈である。
私も昔のような瑞々しいあのときめきを思い出すことが出来れば、判断にブレが生じずより的確な提供が出来るのであるが、などと夢想している。
~プロフィール~
建部 洋平(たてべ ようへい)
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー