ファイン・ワインへの道vol.53
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最終更新日:2021/02/01
寺下 光彦の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
ストラディヴァーリ敗れたり(?)の、世の中で。
ストラディヴァーリを持っている世界トップクラスの演奏家が、その神話的名作を捨てて、まだ50歳代の現代作家のヴァイオリンを全てのコンサートやレコーディングで使用するようになった・・・・・・。
この事実はクラシック音楽ファンに衝撃という域を超え・・・・・権威と階級は崩れる時には崩れるという意味で、なんとも示唆深い話ではないでしょうか?
少なくとも私にとってはそうでした。
年始早々、ワインに全然関係ない話じゃないか、と思われるかもしれませんが・・・・・。ある面で、まるでシャトー・ペトリュスとシャトー・ラフィットを山ほど持ってるコレクターが突然、私が一番好きなワインはクリスティアン・チダとロアーニャだと言い出したような話かもしれません。 それほど衝撃的、もしくは本当のことを言ってしまった(?)のかも、です。
“世界一高い楽器”であり神聖にして不可侵なヴァイオリンとされた、ストラディヴァーリ(日本では、ストラディバリウス、とも呼ばれ)は少なくとも1台2億円以上。20億円に達するものもあります。それを越えたとさえ一部で言われるヴァイオリンはわずか700~800万円ほど。値段は1/30~1/3000ですね。
しかも。ストラディヴァーリを捨てたトップ演奏家というのが、あのクリスティアン・テツラフなのです。 ベルリンフィルのアーティスト・イン・レジデンスを務めるほか、ウイーン・フィル、ニューヨークフィルなどとも定期的に客演。ほぼ無名の時期にドホナーニ、ギーレンなどの偉大な指揮者がその才能を見出し、ソリストに抜擢したことでも知られる、現代最高のヴァイオリニストの一人とされています。
そのテツラフが、現在愛用するのがシュテファン=ペーター・グライナーのヴァイオリン。 1966年生まれ。14歳以来、基本独学でヴァイオリンを作り続けたという異能です。
しかし大学時代には物理学者とともに3Dスキャンで18世紀イタリアのヴァイオリンを分析する研究を1,300回以上行ったそう。 そんなグライナーの作品は現在、テツラフ以外にもイザベル・ファン・クーレンほか現代の音楽界を代表する数多くのソリストに愛用されているのですが・・・・・・。 彼が若い頃は「周りの人間の視野があまりに狭くてとてもイライラしました。みんな古いヴァイオリンの方が優れているという固定観念に縛られていたんです」と語っています。しかし今ではグライナーは「業界を根本から変えた人間」とさえ評されています。
しかも、その変化は長いクラシック音楽の歴史の中のたった30年で、一個人が起こしたことなのです。
グライナーが語る「固定概念」の話に似た話は、なんだかよく身の周りにある・・・・・・とも思えませんか。色々な酒席や宴席に、とっておきのペーター・マルベルグやクリスタルムのワインを持参し、コンディションも完璧なのに、
「何これオーストリア? 南アフリカ? 5,000円、1万円? あっそう」と全くスルーされてるのに、亜硫酸が入念に何重にも添加されて二口飲むのも嫌なボルドーの有名シャトーや、過収量で香りも味も空虚で、ラベルを二度見・三度見してさえグラン・クリュとは思えないブルゴーニュが、喝采を浴びるようなシチュエーション。
ワインの液体としての実質よりも、判断基準はラベルの権威と知名度、そして価格だけ、なんでしょうかね。なんてラクな、ワイン選びでしょう。
もちろん、 ラ・ターシュをポケットマネーで飲めた世代は たとえ一本1万円でもそれに近いワインに出会えば“ラ・ターシュに近い”と判断でき、飲めなかった世代は同じワインに出会っても“悪くないワイン”で終わり、で未体験グランヴァンの亡霊が肩に乗り、そのグランヴァンに匹敵するワインにさえエキサイトしていいのかどうかさえわからない、という世の不幸はありますが。
それはまさにストラディヴァーリの音を聴いたことがなければグライナーの素晴らしさにも戦慄できないことに近いでしょうか。CD ならストラディヴァーリでもなんでも1枚3000円で比較できますが・・・・・ワインはそうもいきません。そこがワイン世界の忸怩たる不幸ですが・・・・・。
ともあれ。年始め、今年のワイン選びに僕自身にも自戒の意味を込めていくつかの先人の名言をご紹介できればと思います。
『何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である』
『自分の目でものを見て、自分の心で感じる人間がいかに少ないことか』(ともに、アインシュタイン)。
『何かを主張をするのに権威を持ち出す人は全て、知性を使っているのではなく、ただ記憶力を使っているだけである』レオナルド・ダ・ヴィンチ
『人々は理解できぬことを低く見積もる』ゲーテ
では今年も、ストラディヴァーリ(格のワイン)を越えるほどのワインに、多く出会えますように。
ワインのカースト制度をにこやかに打破する、そんなワインは既に何年も前から数多く、日本に届いていますので。
追記:
ストラディヴァーリほか17~18世紀イタリアの神話的ヴァイオリンと、現代ヴァイオリンを有名演奏家数名が弾き比べて音質を比較する実験は既に世界各地の大学機関による学術研究として度々行われており、テツラフの件が特に目新しくはないことはクラシック音楽愛好家には周知の話です。そしてその実験全てで、現代ヴァイオリンがストラディヴァーリより高い評価を得ていることも。
今月の、ワインが美味しくなる音楽:
ストラディヴァーリを越えた音(?)は、チダの白に似た、五感沐浴力。
テツラフ・カルテット 「シューベルト&ハイドン:弦楽四重奏曲集」
そのテツラフが弾くグライナーのヴァイオリンの、凜々しくも澄み切り、高雅な艶のある深遠な響きが詰まった一枚。4人のメンバーは、チェロ以外は全員グライナーを使用。音、一音一音の粒立ちの鮮明感、活力、生命感は、シュレールやチダのワインに通じる純潔感があり・・・・・新年の心身と五感のリフレッシュ効果もたっぷりです。このCDにはシューベルトとハイドンが収録されていますが後半、5曲目以降のハイドンの楽曲に、より音の艶と輝きが冴えるように思います。
カルテットは1994年結成。既に世界で最も優れた弦楽四重奏団の一つとの評価を確立。昨年9月に予定されていた来日公演は残念ながら中止になりましたが、今年の再来日を期待したいですね。
https://www.arkivmusic.com/classical/album.jsp?album_id=2248320
今月のワインの名言:
楊柳の花は飛んで江水に流れ、王孫の草色は芳洲に遍し。
金罍の美酒、葡萄の緑(※註1)、青春(※註2)に酔わざれば愁を解かざらん。
漢詩:「春日の作」 新井白石(1657~1725年)
註1:江戸時代はワインは緑色(?)、緑がかった白ワインと推測される。
註2:春の日、という意味。
註3:原文はこちら。
楊 柳 花 飛 江 水 流 王 孫 草 色 遍 芳 洲
金 罍 美 酒 葡 萄 緑 不 酔 青 春 不 解 愁
寺下光彦
ワイン/フード・ジャーナリスト
「(旧)ヴィノテーク」、「BRUTUS」、「MEETS REGIONAL」等に長年ワイン関連記
事を寄稿。アカデミー・デュ・ヴァン 大阪校」、自然派ワイン、および40年以上熟
成イタリア・ワイン、各クラス講師。イタリア、ヴィニタリーのワイン品評会・審査
員の経歴も。音楽関連記事も「MUSIC MAGAZINE」に約20年、連載した。