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Sac a vinのひとり言 其の四十七 「多様性という名の鎖 2」

公開日: : 最終更新日:2021/01/01 建部 洋平の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ

 人はパンのみでは生きてはいけない。太古の為政者も、パンだけでは無くサーカスが必要であると言葉を残している。お酒は元々安全な飲料としての要素と儀礼に欠かせないシンボリックな要素、そして祭事における歓楽とガス抜きの要素が人類の歴史の中では重要視されてきた。しかし、パスツールの業績からくる醸造の不確定要素の排除と品質の向上、産業革命による物流の発展、近代農業がもたらす大規模生産からなる食糧事情の改善、上下水道の完備によってもたらされた安全な飲料の安定供給などなど。これ等からなる近代における生活水準の劇的な向上は、その時代に生きる人たちの価値観も同様に変化をもたらし、物質や概念に対する捉え方も著しく変わった。

 ワインに関して述べるならば、基本的に収穫祭や何らかの祝い事にしか飲めず、また一般的な庶民からすると、選択の幅は少なく自身が属する地域のワインを飲むことで一生を終えていた。しかし、産業革命以降の労働階級の生活レベルの向上の恩恵と、農業と醸造学の発展にからなる安価かつ大量のワインの安定供給と、輸送網の発達からなる、地産地消で終わっていたワイン消費の‘’対外的な‘’市場の増大により、ワインという商品のもつ特別性と神秘性は減退していき、反対に嗜好品として日常の一部と化していった。(19世紀の資料などを参照すると、その時代でも様々な地域のワインを楽しんでいる様子が詳細に書かれているが、これらはあくまで貴族やその子息、一部の豪商の間のみでの話であり、一般的なマーケットと見做すにはいささか心もとない。神秘性や特別性を裏付ける資料としては興味深くはあるが)

 さて、ある程度容易に入手できるようになった嗜好品が次に迎えるのが、情報の共有から来るブランドの成立である。言い換えたらスノビズムの跋扈と言っても良いかもしれない。
 スノビズムというと聞こえは悪いかもしれないが、時代背景を考えると少々捉え方が変わってくる。現代のように検査体制や監視の目が行き届いていない「安かろう悪かろう」ものが極々当たり前に流通する当時において(今は無い、と言えたらどれだけ良かっただろうか) 、安全かつ安定して商品を供給するブランドの価値が高まり、世間が追い求めるのは、健全な市場原理の流れだと言ってしまうのは乱暴であろうか? 
 元々、その発展には宗教と切っても切り離せないところを持つワインという文化。副次的価値を添える寓話や歴史には事欠かない。ブルゴーニュの特級畑やシャンパーニュの逸話、ドイツの畑名などを見れば分かり易いだろう。しかも、これらは積み重ねてきた経験則と出来上がったワインという厳然たる事実があるので、或る種の‘’信仰‘’とも呼ぶことのできる商品価値への信用と信頼を高めるのには、素晴らしい効果を上げたと言えるだろう。

 さて、そのようにしてブランドが構築されて商品としての順列への一般認識が定まってくると、そのカテゴリーの中でもヒエラルキーのようなものが形成されてくる。AOC法も定まっていない1855年に、パリ博覧会の為に定められたボルドーの畑の格付けなどは、そこに商業主義と権威主義がミックスアップさせて、世界一般の認識を固定させた対外的な発信としては素晴らしい成功例と言えるだろう。一般認識として価値があるとされると、そこからもたらされる体験は「正しい」ものとして認識される。それは範囲が広大であれば有るほど強固なものとなり、事実と見做される。こうして一部地域や富裕層の密かな愉しみでしかなかった銘醸が、一般に認知されて「正しい」もの、要するに王道的、または古典的なものとして伝播していき、時代の経過とともに厳然たる事実として堅牢な城壁を気付いていく。此処までが前回述べた「一般的なもの」という概念が、如何に生まれ出ずるのかの私なりの考えである。

 このまま続けると、近代ヨーロッパにおける食の文化史を論ずることになってきてしまうので、話を自然派ワイン、ナチュラルワインと呼ばれるものに戻していきたい。
 彼らも色々な寓話やバックストーリーには事欠かず、また歴史と呼ぶにふさわしい程度の時間も経過しつつある。一般的な認知度も高まってきているのは疑いようのない事実であるし(コンビニやスーパーでオーガニック認証を売りにして販売している光景を皆様見たことはあるだろう。意識の高まりか否かの問題ではなく、‘’商品価値がある‘’と見做されているのが重要なのである)、様々な生産者や畑の中でもヒエラルキーが構築されつつあると述べてしまっても、現在ならば余りおかしくはないだろう。一部の入手困難な希少なボトルや、引退などの理由により生産が止められてしまったワインなどは、秘匿性や神秘性も十二分にある。ブランドとしてはある程度の位置づけは獲得したと言っても問題は無いと考えられる。

 で、あるからだ。わたしが前回から色々と理屈をこねくり回して文章を書いているのは、ブランドとして市場に対して価値があると受け入れられつつある現状だからこそ、今一度その価値に対する責任というものを認識しなおすべきではないか? ということを述べたいのである。簡単に言えば、商品としての責任を担保できているのかを再度確認すべきではないかということである。

 ワインは飲料であり、体に摂取されるものであり嗜好品である。であれば身体に害を及ぼすことなく、料金分の品質が担保されなくてはならない。品質への要求は対象とする購買層によって変わるため、コストパフォーマンスという単語で単純に判断できるものではない。が、飲料という側面から考えると、ある程度の安定性を顧客が求めるのは極々自然であると言えるだろう。勿論古酒などの抜栓してからの寿命が短いものは当然存在するが、そこに対してのアテンドと対象顧客の選定で、そこはフォローアップ出来るのであまり問題はない。
 だが、一般小売しているナチュラルワインのどの程度が、その提供方法と抜栓後のケア、品質に対する説明が出来ているだろうか? よく、ワインを試飲した際に揮発酸やブレットなどのニュアンスに対して、「これも特徴の一つです」と説明されることがある。捉え方は色々とあるだろうが、プロとして言えることはただ一つ。許容量を超えたネガティブな要素は特徴ではなく欠陥でしかなく、また、一般顧客の許容レベルは我々のものよりはるかに厳しいものである、と。ワインをあまり飲んだことのない顧客が揮発酸のキツイ一杯をナチュラルワインとして飲んだとしたら・・・そのあとは想像に難くないだろう。
 ワインの粗探しをしなさいと言っているわけではない。ワインの良いところを探して適正にサーブするのは我々の仕事である。しかし、同時にやらなくてはならないのが、粗に目を瞑らずにしっかりと認識していくことなのである。どんなワインにだって良い点も悪い点もあるのだから、そこにどのように取り組むのかは各人のスタンス次第だと考える。しかし、絶対にネガティブなことを、ポジティブだと考えてはいけないと私は思う。プラスとマイナスのバランスをとるのが我々の仕事であるし、顧客にも情報を明確に伝えなければならず、またターゲッティングも正確に行わなければならない。 

 繰り返すことになるが、ナチュラルワイン、自然派ワインは以前よりも社会における価値と被認識は上がりつつある。だからこそ、顧客に対しての責任と商品価値の担保というものが求められてきている。これはブランドとしての超えねばならぬ壁だと私は考える。自然を相手にするものであるから、安定供給と品質の一定化は至難を極めるだろう。それは重々承知している。しかし、ここから更なる一般への浸透、要するに一般常識化を目指すのであれば、避けては通れない道なのではないだろうか? 今回、かなりきつめの言葉を使ったが、私自身素晴らしい自然派ワインの生産者と交流から、ワインに傾倒していった人間の一人であり、今後のマーケットの発展を信じてやまず、また其れを望んでいる。 
 ひと昔前だったら、「自然派? なにそれ」だったのが「ナチュラルワイン頂戴!」と言われることも増えてきた昨今(その反対の要望も比例して増えてきた。これは喜ばしいことである。なぜならそれだけ認識されている証拠なのだから)、この状況でどれだけ適正に販売、提供していくのか。我々の責任は重大である。 

 今回は多様性を語るうえで外せないマジョリティや王道、それらに伴う責任に関して書かせて頂いた。もう少しだけこの話題を次回で語って、多様性に関する私論の締めとしたい。 

 

~プロフィール~

建部 洋平(たてべ ようへい)
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー


 
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