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ドイツワイン通信Vol.110

公開日: : 最終更新日:2020/12/01 北嶋 裕の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ

ヴィノテークと私

 ヴィノテーク誌との出会いは、確か1992年頃だったと思う。開店して間もない恵比寿ワインマーケットパーティの書籍コーナーで手に取り、有坂芙美子さんのハンガリー取材記事を目にした記憶がある。直に見聞きした現地の様子を、自分の言葉で書いている文章が新鮮だった。

 1998年からモーゼルのトリーア大学に留学していた私は、2002年に個人サイト「Yutaka’sドイツワイン紀行」を立ち上げ、醸造所訪問や試飲会など、貴重に思われた体験を記録し公開していた。2004年12月、アイスヴァインの収穫に初めて立ち会った時のレポート(http://mosel2002.holy.jp/page078.html)を、翌年の春、思い立ってヴィノテーク誌に投稿してみた。するとまもなく吉田節子編集長から連絡があり、機会があれば書いてみてください、ということになった。そこで9月に、ものは試しとVDPモーゼルの競売会のレポートを投稿すると、採用された(掲載:2005年11月号)。3ページほどの拙い記事だったが、何かの事情でやっぱりボツになっているのではないかと心配し、掲載誌が届いて本当に載っているのをこの目で確かめるまでは、落ち着かない日々を過ごしたことを思い出す。
 それからすぐに、アイスヴァインの特集記事の執筆依頼があり、2006年1月号に掲載された。その年の3月のプロヴァインには、ドイツワイン・インスティトゥートのツアーに、日本から招待された人々の通訳を任せていただいたりして、次第にワイン業界との接点が増えて行った。ヴィノテークのライターの一人になったことで、プロヴァインや、VDPドイツ高品質ワイン醸造所連盟のプロ向け試飲会など、愛好家には閉ざされていたり、有料だったりする多くのイベントへの参加が認められるようになった。ヴィノテークは私にとって、ワイン業界への扉を開く合鍵だった。それは原稿料以上に得難く、貴重なものだった。

・現地レポーターだった頃

 2011年8月まで続いた在独中、大体年に1回の特集記事のほか、毎月、1ページのドイツワインコラムを担当した時期もあった。特集記事はプレスツアー参加報告のこともあれば、テーマに沿って自分で醸造所を選び、取材に赴くこともあった。モーゼルに住んでいたので、ラインガウやファルツなど、周辺の産地には日帰りで容易に行くことが出来た。また、トリーア大学に在籍していたので、必要な文献資料のほとんどは、大学図書館を通じてドイツ各地の図書館から取り寄せ、一カ月あまり閲覧することが出来た。また市立図書館は、ワイン生産者向けの栽培醸造専門誌を複数購読していたので、栽培醸造技術に関しては、そこで調べることが出来た。有力紙の新聞記事は大学図書館の端末室で、無料で検索して読むことが出来た。情報源には事欠かなかった。ただ、愛好家向けの一般書や雑誌は、自分で購入するほかなかったが。
 ヴィノテークの執筆活動は、本業である西洋中世史の博論執筆と、無理なく両立させることが出来た。ただ、ヴィノテークの仕事をしていなかったら、博士論文の提出が1年前後早まったかもしれない。日本の大学院の指導教授の存命中に帰国して、どこかの学校の非常勤講師になっていたかもしれないが、それも今となっては、どうしようもないことだ。

・取材と執筆方法の変化

 ヴィノテークへの寄稿を10年以上続けている中で、取材と執筆の方法は変化した。最初の頃は、勢いに任せて書くことが多かった。テーマが決まると、まず文献資料を収集し、読み込んだ。それから取材に行って、話を聞いて試飲しながら手帳にメモをとる。帰宅してから、文献で得たテーマの全体像の中に、取材で得た体験をどう組み込むか考えながら構成して、執筆に入る。書くときは、なるべく記憶が新鮮なうちに書き上げる。草稿が出来上がって気が付くと、メモを全く見返していないことが多かった。だからと言って、メモが無駄という訳ではなく、取材の最中に見聞きした内容を、記憶する役には立っていたのだと思う。
 寄稿をはじめて間もない頃は、ゲラが出来上がってからの手直しが多かった。デザインが見えると、ここも、あそこもと直したい部分が出てきて、その差し替えを気軽に出していたが、一度、吉田編集長(当時)に怒られたことがあった。デザインの組みなおしになるのでお金もかかるし、稲垣さん(当時は編集部員だった)がデザイナーさんに頭を下げて、怒られながらやっている、わかっていますか、と。それからは、校正に手を入れる時は、極力文字数を変えないよう気を付けている。また、音楽(例えばCaroline Daleのチェロ)を聴きながら、気分を高揚させて書いていたので、文章が叙情的に流れることも多かった。その度に、「ウチは文芸誌じゃありません。もっとジャーナリスティックに、客観的な事実を書いてください」と注意されることも、度々だった。

 2011年9月に日本に帰ってからは、来日生産者の取材が加わり、取材方法が変化した。
 2013年にザールのエゴン・ミュラー四世が来日した時のインタビューで、ドイツ語での会話は盛り上がったのだが、メモを読み返してもうまく記事にならず、面白いと思った部分は編集部にカットされて四苦八苦した(掲載:2013年4月号)。同じ年にオーストリアから、ニコライホーフのクリスティーネ・サースさんが来日した時、再びインタビュー記事を任された。小一時間ほど、ひざを突き合わせてじっくりと話しを聞き、話題も尽きず、会話も盛り上がった。終わった後、「これほど深い話が出来たことは滅多にない」と、サースさんからありがたい言葉をかけていただき、お土産にTBAを一本いただいたほどだ。
 だが、書けなかった。あれほど良い取材が出来たのに、なぜ書けないのか不思議だった。何度メモを読み返してもストーリーがつながらず、絞り出すようにして書いた部分は編集部にカットされた。やむなく、執筆過程で生じた疑問やインタビューの確認を、メールで改めて質問しなおして、なんとか形にして事なきを得た。情けなかった(掲載:2013年9月号)。

  そこで思い至ったのが、会話を録音することだった。インタビューで情報はとれているはずなのに、文章がうまくつながらないのは、会話の内容をしっかりとメモしきれていないからではないか。ドイツ語か英語で聞いて、その場で理解できて、使えそうな情報はメモをとるが、聞き逃していた部分も多かった。会話している時は問題なくても、後になると、その聞き逃していた部分や、十分に理解できていなかった部分が、実は重要だったのではないか。メモをとるときは手先に集中せざるをえず、内容を聞きそびれることが多いことを痛感した。 
 それ以来、インタビューは全て録音した。それまでやっていなかったのが、不思議と思われるかもしれない。一度、在独中に試みたことがあるのだが、書き起こしには膨大な時間を要し、廉価なICレコーダーの音質は聞き取りにくく、これほど効率が悪くては意味がないと考え、途中でやめてしまった。 
 だが、そう言っていられなかった。翌2014年春、オーストリアからフレッド・ロイマーが来日した時、ありがたいことに再び取材依頼があった。この時はiPhoneで録音して書き起こした。かつてのICレコーダーとは比べ物にならないほど明瞭な録音で、書き起こしに時間はかかったが、思っていたよりも楽だった。何より、実際に書き進める段になってはかどった。今までメールで確認していた不確実な部分も、書き起こしを読めば済んだし、編集部からの問い合わせにも対応できた。 
 振り返れば在独中は、潤沢にあった文献資料の読み込みで記事の土台を作っていたのだが、日本ではそれが出来なくなった。代わりに取材で得た書き起こしを土台にして、その他の情報は補助的に用いるようになった。いわば仕事のやり方のコペルニクス的転換だった、と言えるかもしれない。その違いは、2011年11月に取材したジョージアワインの記事(掲載:2012年3月号)と、2014年10月に取材した、トルコのカッパドキアでワインを造るドイツ人醸造家の記事(掲載:2015年1月号)に、見て取ることが出来る。 

 ・ヴィノテークへの借り

 ヴィノテークは現地取材に重きを置いていたので、今年の新型コロナ禍は、誌面作りに決定的なダメージを与えた。毎年定期的に、ワイン産地の広報団体が主催するイベントがある。そこで現地の最新事情を取材するだけでなく、その産地のワインを輸入するインポーターに、広告とタイアップ記事の出稿を提案する。タイアップ記事が了承されると、インポーターが指定する生産者に赴いて丁寧な取材を行い、特集記事とあわせて掲載し、その生産者とワインを読者に印象付ける。購読料とともに、広告とタイアップ記事による収入が、私が見たところ、ヴィノテークの経営には欠かせないものだった。 
 だが、周知の通り新型コロナの蔓延で、2月下旬以降、ワイン関連のイベントやプレスツアーはことごとく中止された。記事の材料が減り、飲食業界全体が苦境に立たされる中、広告収入も減少を余儀なくされたものと思われる。そして、1980年から40年間刊行されてきた、ワインと食とSakeの月刊誌は、一度その幕を閉じることとなった。 

  2018年8月から、私がラシーヌの輸入部に勤務するようになってからも細々とではあるが、日帰り取材や原稿の依頼をいただいていた。一昨年、久しぶりに海外取材のオファーがあり、胸が高鳴った。だが結局、辞退させていただいた。海外に出ると約1週間、家と会社を空けることになる。取材の後も書き起こしと原稿執筆に、相当な時間と労力を注ぎ込まねばならない。果たして編集部の期待に応えるだけの記事が書けるのかどうか、確信が持てなかった。また当時、父の体力が目に見えて落ちていたことも気がかりだった。 
 今年に入ってまもなく、再び原稿の依頼があった。今度は取材なしで、国境をまたいだ二つの産地――例えばオーストリアとハンガリー、バーデンとアルザス、モーゼルとルクセンブルク――を、歴史的・文化的・地質的な観点から眺めてみよう、という企画だった。編集人の吉田さん、稲垣編集長、そしてワイン産地を地質から読み解く記事を、ヴィノテークに度々寄稿している坂本雄一さんと4人で、新橋の南米料理店に行き、新シリーズ立上げの気勢を上げた。 
 その企画は、残念ながら日の目を見ることはなかったけれど、いつの日か、実現させたいと思っている。ヴィノテークには、新橋でごちそうになった借りを返さねばならない。これを聞いたら吉田さんはきっと、こう言うだろう。「じゃあ、倍返しで」と。 

 

北嶋 裕 氏 プロフィール:
(株)ラシーヌ輸入部勤務。1998年渡独、2005年からヴィノテーク誌に寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)や個人サイト「German wine lover」(https://mosel2002.wixsite.com/german-wine-lover)などで、ドイツワイン事情を伝えてきた。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得し、2011年帰国。2018年8月より現職。

 
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