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エッセイ:Vol.149 「『ヴィノテーク』追想」

 創刊以前からなにがしか関りがあり、初期にはエッセイを寄稿し、ラシーヌとしては連載広告を出稿した、縁の浅からぬワイン専門誌『ヴィノテーク』が廃刊されると聞き、思わず筆が動いた。といっても、書いているいま手元に資料やメモはなく、初期のヴィノテークは横浜のわがヴィノテーク(書庫)の奥深くに眠っているので、取りだせない。つまりは記憶を頼りにするしかないので、多少の不正確さはお許しを乞いたい。

 さて、その編集長となった創刊者のひとり、有坂芙美子さんと近づきになったのは、有坂さんがスピーカーとなったチーズ講習会(赤坂見附で開催)に、わたしが顔を出してからのことである。
 当時わたしは広告代理店でマーケティングにかかわりながら、学生時代以来のワイン探索に深入りしだしていた。有坂さんはといえば、当時の直談によると、同業のインターナショナル博報堂でコピーライターをしていたが退職し、フランスにワインを学びに出かけ、帰国以前からメルシャンで仕事をしていたが、転じて仲間でワイン専門誌を創めることにしたよしであった。

 女性3人がこれまで未経験の月刊ワイン専門誌を編集発刊するという、勇気あるがたいへんな話である。その際に意見を求められたので、わたしはあらましこう述べた。

 趣味誌ではあってもあくまで専門誌であるためには、広告から独立した編集陣によるジャーナリズムだ、という確固たる方針を確立するのが肝心。逆に言えば、業界に寄生するトレードマガジン(業界誌)ではなく、あくまで一般読者を想定し、広告主の機嫌をとらずに(忖度しないで)独立性を維持してほしい。

 これは、言うは易しく行うは難しい。とりわけ、かつて広告業界にいた人にとっては、スポンサーと適切な距離をとることは、難しい注文だったはずである。

 わたしは創刊後まもなくの同誌にエッセイを書き続け、ときに思うまま辛口の書評を寄せて、ソムリエの著者と出版社から連名の抗議文を突き付けられたりした。麻井宇介さんによる『比較ワイン文化考』(中公新書)は、業界誌『食品工業』に連載中から注目していただけに、日本で初めての本格的で個性的なワイン評論である、という旨の書評を載せた。その縁で、麻井さんとの交流がはじまったことは、同誌に感謝しなければならない。

 麻井さんにはその後、著作のたびごとに意見を寄せたりして意見を交換した。ちなみに麻井さんは、M.ブロードベント『ワインテースティング入門』訳文(初版)にある誤訳の部分を、原書を参照せずに引用して自説の論拠としたことがあった。わたしは失礼をかえりみず、引用文の訳し違いを指摘したところ、麻井さんはすぐにその非を認められた。

 さて、同誌のその後の経過を見るに、表4(裏表紙)広告には、有坂さんが繋がりのあったメルシャンが、長年にわたって継続的に出稿していた。これは裏返せば、同社(と、麻井宇介さん)がヴィノテーク誌を支援する意志があると解釈できた。歴史のある同社は大手だけにケチな忖度など求めないだろうし、当時社長だった鈴木さん(のちに面識をえた)は寛大だったはずで、まして見識ゆたかな麻井さんには、そのような心配は杞憂だったのだろう。

 にもかかわらず、あえてそんなことを記すのは、理由があった。あるとき同誌主催のテイスティング会に参加したわたしは、ワインの評価をヴィノテークに寄せた。かねがね、同誌のテイスティングコメントが甘口で参考にならない、と不満に思っていたので、各ワインに付けたコメントにつづけて、自分流の評点をカッコ内に20点満点で記した。
 ところが、印刷された記事からその点数表記が消えていた。わけを尋ねたところ、それが編集方針だからとのこと。これは忖度の類いだと思って失望し、編集理念が異なる同誌とはやや距離を置くことにした。

 ちなみにその頃わたしは、イギリスからワイン関係の専門書や古書だけでなく、ワイン雑誌類も取り寄せていた。数々のすぐれたワインブックを世界に先駆けて出版していたイギリスでは、すでにジャーナリスト出身で名文家のシリル・レイが、続々と著作やシリーズものの編集書を世に問うていた。ヒュー・ジョンソン(これまた名文家で編集の才に長けているが、ビジネス熱心でもある)が世に出る以前の、よき時代であった。まだ、若きジャンシス・ロビンソンが業界紙で元気に記事をかいていた時代でもある(参照『わたしのワイン人生』)。
 が、わたしにはイギリスで、日本のような露骨な忖度にはあまりお目にかかった記憶がない(アレック・ウォー著『リプトン・ストーリー』など、PR出版物は多いけれど)。

 そのころからわたしは、どうやらワインの病コウモウトとなったようだ。なぜか、山本博さんが率いる「ワイン・クレイジー・クラブ」(初代)のメンバー扱いされ、12人限定会員のひとりとして、月例のワイン会で交代に幹事を務めた。その珍妙な名の会では、アルバート・スタンプさんと川合勝幸さんとは、ボルドー派として盟友になった。また、太っ腹で神経細やかな会員だった故・坂根進さんからは、ロマネコンティの古酒をご馳走いただいただけでなく、いろいろ学ぶことが多かった。多謝!

 その後、ヴィノテークとはやや疎遠となったにしても、吉田節子さんら同誌の編集委員とともに、麻井宇介さんを囲む会に連なった記憶があるが、それは別の話。のちにインポーターのル・テロワールに引き続き、ラシーヌを合田泰子とともに立ち上げたが、いずれもマス広告を避け、地道なプロモーションに専念してきた。

 ラシーヌでは創立10周年のころから、これまでの間接話法(酒販店などのクライアントが、顧客である消費者にたいして自主的に、ラシーヌに代わって語ってくださること)に頼りきらず、企業理念を打ち出した企業広告をしよう、ということになった。そこで、お馴染みヴィノテークの登場である。
 毎月のようにオリジナル原稿の雑誌広告を、ほぼ表4面だけに出稿することはえらく手間がかかったが、有能な社内スタッフに恵まれたおかげで、無事に続けることができた。
 手元の記録によれば、2015年(1, 3,5,7,8,9, 10, 11,12月)、2016~17年(24ヶ月)、2018年(計4回)の長きにわたったとは、よく長続きしたものである。

 そして新型コロナ時代になっても、2回だけヴィノテーク誌に企業広告を出稿して、ワイン愛好家にラシーヌの健在ぶりを示し、常に共にいることを伝えようとした。2020年3月号はアンフォラワインについての、縦1/3広告。ヴィノテークでラシーヌ最終広告となった6月号表4のコピーは、「どんなときにも/あなたとともに/ラシーヌのワイン」。
 グラフィックは、やはりミシェル・トルメーの大作が、ラシーヌ流アートの掉尾を飾ることになった。

 そこではわたしの仕事はディレクションと、コピーもどきを書くことだった。が、前社では同期でコピーライターだった藤原伊織君らの名人連中と仕事をしてきて、その有能な本職の仕事ぶりを心得ていたから、思いは汗顔にたえない。
 さいわい連作広告は、消費者はともかくとして、社内外の関係者のあいだでは良きにつけ悪しきにつけ、評判になったとか。ヴィノテークとアート関係の制作陣、それに多くの優品の掲載をすべて許して下さったミシェル・トルメーには、あらためて感謝したい。

 すべてはよい思い出になり、日本のワイン史をヴィノテークとともに数行を飾ることになったとすれば、ラシーヌにとってもこれに勝る記念はない。

 最後に、終刊号にいたるまで編集長を務めた稲垣敬子さんには、あいかわらず我がままを言わせていただいたお詫びを述べるとともに、これからの健闘を切に祈りたい。

 ヴィノテークの亡き後は、断じて廃墟ではない。

 

 
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