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Sac a vinのひとり言 其の四十一「信じたところで別に救われはしない。ただ楽しい。」

 昔聞いた話で、バーテンダーが会話の際に触れないようにする話題の3Sというものがある。

一つ目のS 政治  個人の利害関係やビジネスに関わることで、もし相反する立場の人間がいたらトラブルに成りかねないので避ける。

二つ目のS 宗教  個人の心情や理念の根幹に関わることであり、其方方面に話が移行していくと、どのように話題が転ぼうが面倒なことになるから。

三つ目のS サッカー 個人の嗜好や出身、所属に関りがあり、損得に関わらない情熱であり敵対する人間同士がいた場合収集が着かなくなる恐れがあるため。
※日本の場合、野球などに置き換えても良いかもしれない。

 Barだけにとどまらず、ソーシャルな場での会話の内容はある程度の虚飾とオブラードに包まれている。それは思いやりと保身を図る心づもりとエゴが程よくカクテルされたシビアな現実主義から形作られたレトリックであり、人々を守るフレームである。
 文化や人種の違いからその枠組みや濃淡は移ろいやすいものであるが、社会生活がうまく機能していればお互いがお互いを傷つけあわない様に働いているものである。それが上手くいかないとどうなってしまうのか今の世界の状況を見渡せば容易に理解できてしまう。
 江戸の町では氏素性と出身地を聞かなかったというのは、都市部という人間がカオスに混ざり合う空間における必然性からくる作法であっただろうし、現在の長屋ともいえる集合住宅で近隣の住民に関して殆ど知ることがないというのも、情報の流動化と重要性が増した現在においては致し方のないことと言わざるを得ない。何とも寂しいことではあるが。

 さてさて、何故私がワインと関係のない人間関係におけるソーシャルディスタンスについて私見を述べているかというと、前々から疑問に思っているのが、何故食物や飲料に関して大人は自身の所属する(していると思っている)派閥や心情を、ああも声高に世間や周囲に対して発信するのだろうか? と。
 例を挙げるのは簡単である。

「私、自然派ワインしか飲まないんですよ」「寿司は○○の系譜の××の云々~」「自然派ワインってだけでアレルギー反応出ますね」「あそこは古典を軽視している~」などなど。
 愛するものを(本当に愛しているのか疑問は残るが)を褒めたたえる言葉だけではなく、自身と対立もしくは受け入れない立場の者を滅亡寸前の平家のように、存在そのものを否定する言葉が簡単に飛び交っている現状は、冷静に観察すると中々に背筋がひんやりとするものだと私は認識している。
 ここまでならお互いに好き勝手言っているだけなので、遠くから見ている分には「いけ好かないやつ」という認識をお互いに持ち合うだけで済むので、精神的なストレス以外実害は生じないのだが、厄介なのが自身の信ずる対象が正しくて絶対的な価値を持つと考える人間が、「善意」から周囲に対して働きかけていくと悲劇が始まる。ある程度の価値観のすり合わせができる人間同士の間であれば、お互いが「すばらしいもの」に対する感情を共有することが叶うという、人生の不要不急ではあるが最も心躍らす事象の一つと言えよう。
 だが、もし価値観が絶望的に合わない人間同士の場合はどうなるか? 損得の関わらない自身の趣味嗜好を否定されることは、ある意味では自身の否定につながる。それは自身の信仰を否定されることに匹敵するといっても過言ではない。その結果が別離であればまだ良い結果であって「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」よろしくお互いの人格の否定にまで発展しかねない。利害関係まで絡んでくるともう目が当てられない。
 どうしてこのようなすれ違いが起こるのかは、これまでのコラムで私が述べてきたように、結局のところ、例え同じ事象を見ていたとしても、各々のよりどころとする文化や心情が異なると、同じものを同じようには見ることはなかなかに難しい。
 更に観察した結果を自己消費して理解して各人の中に取り込んでいくと、得ることのできる感情や感想は全く違ったものになるのは当然といえる。自身と同じ印象を相手に持ってもらいたいという感情は、我々が考えている以上に贅沢で傲慢な感情だと言ってしまうのは若干ナーバスが過ぎるであろうか? それを実現させるためには発信者と受信者の間でのギャップを埋めていく作業が必要であり、それは言葉であり想像力である。要するに相手のことをきちんと理解して話を聞きましょう、という極めて当たりまえのことでしか成し得ない。
 大体にしてワインという物自体が、香りの成分は不特定多数で未だに正確に検出出来てはおらず、色調にしたところで各人の主観による判断で情報の交換が行われている。味に至っては色々研究が行われているが周囲から見れば「よくわからない」状態にある。
 もし一本のワインの中で確かなものがあるとすれば、「アルコール度数」と「容量」と「生産年」と「生産地」くらいなものである。肝心要のクォリティ―に関して客観的な判断条件は、ロマンを差し引いて考えれば限りなくゼロに近いと言えてしまう。そう、ワインにおいて公正明大かつ明瞭なものは非常に少ないのだ。しかし、ワインを愛する者はプロもアマも関係なく、その愛を相手に伝えようとする。だが「このワイン750mlあるんですよ!」とか「なんとアルコール度数が13.8ピッタリなんですよ!?」などと訴えかける人間は当然ながら見たことがない。「フィネスが~」「のど越しが良い~」「土壌の味わいが~」といった曖昧模糊な自身の感想を人に対して投げかけている。私もその一人だ。決してテキトーに内容を精査せず話しているわけではなく、自身の経験と感覚からくる率直な「感想」をどの様に伝えたら良いのかを自分なりに吟味した結果、「適当」な言葉を顧客に投げかけているのである。
 そしてそれは「正しい」。

何が言いたいのかを簡潔にまとめると、
 「ワインにおいて確かなものなどあんまりない。でも不確かでも正しいことは一杯ある」
 「不確かなもの同士のすり合わせなので相手を慮らないとろくなことにはならない」
 「価値観が合わないならそもそもどうしようもない場合もある」
 といった至極当然のことである。
 ワインの世界においてロジックやサイエンスは、存在していつの日かより深い理解を我々の前に提示するだろう。ただ未だ蒙を啓かれていない我々は、その暗闇の中を手探りで言葉を手繰って相手に届けなければならない。そして相手の虎の尾を踏む事の無いように慎重に歩いていくことだ。気を付けていても踏んでしまうことはあるが、まあその時はその時だ。そして自身の好みを相手に伝えるときもあまり誇大に誇張することなく、シンプルに伝える様に心がけることであろう。あまり強く伝えると相手との価値観の共有のチャンスが失われるかもしれないから。そしてもし相手との意思の疎通が上手くいかなくても、「しょうがない」と諦める潔さであろう。ピンとこない相手とは往々にして上手くいかないものである。
 その位のほうが無意味に敵を作らずにワインを楽しめると思う。

 最後に私の信仰を述べるならば
 「適正な価格でおいしいワイン」「安くてうまいワイン」
 であろうか? 同じなようで意味が結構違うというのがミソである。

 

~プロフィール~

建部 洋平(たてべ ようへい)
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー


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