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ドイツワイン通信Vol.103

モーゼルの真打ち登場

 今月から、モーゼルの【イミッヒ・バッテリーベルク】の取り扱いが始まる。ドイツの新規生産者は、本当に久しぶりだ。あれは、昨年7月のことだった。ポルトガル出張から戻って来たばかりの合田さんが、なぜか、モーゼルの醸造家ゲルノート・コルマンに連絡をとるよう言ったのだ。リスボンで開催されたナチュラルワインの試飲会に、ゲルノートが出展していて、とりわけ2014年産のリースリングが素晴らしかったそうだ。ポルトガルでモーゼルのワインに出会い、日本での取り扱いに繋がるというのも、なかなか無い巡りあわせのような気がする。

・ゲルノートとの出会い

 ゲルノート・コルマンと最初に会ったのは、2001年のことだった。ザールのファン・フォルクセン醸造所を、現オーナーのローマン・ニエヴォドニツァンスキーが購入した翌年、彼らが最初に手掛けた新酒のお披露目試飲会の時だった。
 当時、ゲルノートはローマンの右腕であり、ファン・フォルクセンの醸造責任者だった。丸刈り頭に、赤味を帯びた頬が初々しかった。ローマンは、大手ビール醸造会社の御曹司で、まだ大学院に在籍していた。約2mの長身は今と変わらないが、ワイン造りに関しては素人同然だった。20人あまりの訪問者を前に緊張で喉を涸らし、時々、隣に立つゲルノートを見下ろして、すがるような目線を送っていた。現在のローマンの、自信に満ちてエネルギッシュな立ち居振る舞いからは、想像もつかない頼りなさだった。
 一方、ゲルノートは落ち着いていた。もともと母と同じ医者を目指していたが、ワイン好きが昂じて醸造家に目標を変えて、1991年から、モーゼルのDr.ローゼンで研修を始めた。その後、ハイルブロンの大学で醸造とマーケティングを学び、フランケンのカステル侯爵家醸造所を経て、モーゼル最大の醸造所の一つである、トリーアのビショフリッヒェス・ヴァインギューターに、事務職として3年あまり勤務していた。その頃にローマンと知り合い、意気投合して、二人でファン・フォルクセンを立ち上げた。ファン・フォルクセンは周知の通り、19世紀から続く名門醸造所だったが、1989年に破産して、1990年代に所有者を確か2度変えている。1999年に再び売りに出た時、名乗りを上げたのがローマンとゲルノートだった。

・【ファン・フォルクセン】時代のゲルノート

 ローマンたちは、新しく手に入れた、長い間十分な設備投資が行われてこなかった醸造所に、莫大な投資を行い、汗を流して復興に取り組んだ。シャルツホーフベルクとその周辺に所有していた、約13ヘクタールのブドウ畑の栽培もまた、ゲルノートの方針に基づいて取り組まれた。それは、今から約20年前は、相当に思い切った手法だった。

 普通の生産者ならば、ブドウ樹は収量が落ち始める30年前後で植え替える。収穫量は収益に直結するからだ。とこが彼らは、あくまでも量よりも質を目指した。樹齢が高く成長力が弱く、果粒の小さな房を少ししかつけない老木を、より質の高いワインが出来るとして大切にした。「大切なのは、遺伝的多様性だ」と、ゲルノートも、ローマンも口をそろえる。「クローンは遺伝的素質が同じで、兄弟姉妹のようなものだ。一方古木は自根のことが多く、素質の良いブドウの枝を植えて苗木を増やすのが普通だった。そうすることで、非常に多様な遺伝的素質を持ったブドウ樹が、一つのブドウ畑で栽培されていた」とゲルノートは言う。
 だから、ファン・フォルクセンでは、周辺で古木が植え替えられると聞くと、すぐさま畑の所有者に出向いて直談判し、購入したり、平地にある畑と交換したりしていったので、所有する急斜面の古木の畑の面積は、年を追うごとに増えていった。

 当時、近隣の生産者達を呆れさせたもうひとつの方針が、徹底した遅摘みだった。他の生産者よりも、1週間前後遅く収穫にとりかかり、2週間前後遅くまで続けるのが常だった。それは、単に果汁糖度が高くなるのを待っていたわけではなく、ブドウのアロマが最高に蓄積された、「生理的完熟」と呼ばれる状態になるのを待っていたのだ。一方、当時多くの生産者は、とりあえず収穫を確保するために、ある程度糖度が上がったら収穫するということをしていた。それが、時に「鋼のような(スティーリィ)」と称される、酸度の高く硬質な、ザールのリースリングの味わいの要因だった。
 ファン・フォルクセンでは遅摘みなので、残っているブドウを狙う猪や鳥の被害も大きく、畑の周囲には弱い電流の流れる電線を張り巡らした。トンビのような甲高い鳴き声をあげるスピーカーを配置し、森との境界にはネットを張ってブドウを守った。周辺のブドウ農家達は、彼らの忍耐をギャンブルのようだと称し、金持ち息子の道楽だからそんなまねが出来るのだ、あいつら何もわかっちゃいない、と肩をすくめた。

 ヘクタールあたりの収量もまた、一般の醸造所が60~80hl/ha、多いところでは100hl/haに達するのに対して、せいぜい40hl/ha前後、少ないときは25hl/ha前後まで絞り込んだ。またセラーでも、微量の亜硫酸塩以外の添加物を一切使わずに、ベーシックなクラスはステンレスタンクを使い、畑名入りのワインには、伝統的な容量約1000ℓのフーダー樽と大樽で醸造した。酵母や清澄剤などの醸造補助物質を一切使わず、生産の大半を辛口から中辛口に仕立て、畑名なし、村名、畑名、グラン・クリュというふうに、呼称範囲が狭くなるに従って質と価格を上げるブルゴーニュ式の格付けを導入し、甘口は生産のごく一部に留めた。そういう品揃えの生産者は、ザールはもちろん、モーゼルにもほとんどいなかった。

 そして、醸造所を立ち上げた翌年から、ローマンとゲルノートは、収量を抑えて完熟を待つノウハウを、自分達だけでなく、近隣のブドウ農家達にも委託栽培という形で伝授し、普及につとめはじめた。醸造協同組合に納めるよりも良い値段で収穫を買い上げ、ベーシックなクラスのワインの生産量を増やし、コストパフォーマンスに優れたワインの生産者として、醸造所の名前を市場に普及させて行った。

・リースリング・ルネッサンスの影の立役者

 高い志を持ち、リスクに果敢に挑んだ辛口系のリースリングは、当初「モーゼルらしくない」と批判された。しかし、間もなく「リースリング・ルネッサンス」とも評される、辛口ドイツワインの一大ムーヴメントを引き起こした。その仕掛け人がローマンであり、ワイン造りのプロフェッショナルとしてローマンを補佐したゲルノートだった。

 いつだったか、ゲルノートはサラリとこう言ったことがある。「ファン・フォルクセンは僕のアイディアで造ったんだよ。本当は僕のワインだったんだ」と。ファン・フォルクセンでゲルノートは裏方として表には出ず、経営と顧客対応はローマンの役目だった。ローマンが醸造所のコンセプトを熱く語り、次第にファンを増やしていったのは事実である。彼はリースリングの語り部であり、醸造所の顔であった。強靱な意志と、繊細な思いやりと社交性を兼ね備えた、希有な人材である。一方、ゲルノートはいつもどこか飄々として、我が道を行くようなところがあった。二人三脚で始めた醸造所ではあったが、ゲルノートの気持ちは次第にファン・フォルクセンから離れ、いつか独立して自分の手腕を試してみたいと思うようになったのかもしれない。

・ゲルノートの独立

 2004年7月にゲルノートはファン・フォルクセンを辞した後、フリーランスのコンサルタントとして、各地の醸造所で栽培・醸造を手掛けた。2004年9月にオーナー醸造家が急逝した、モーゼルのR&Bクネーベルでは、後継者のマティアス・クネーベルが独り立ちするまでの後見役として、約5年間醸造所を支えた。トリーアのレストラン兼醸造所ヴァインハウス・ベッカーや、アールのエルヴィン・リスケでも醸造とマーケティングを請負って、いずれのワインも魅力的なスタイルに変身させた。
 また、オーバーモーゼルでは、2005年に温暖化を見据えたプロジェクトをスタートさせた。貝殻石灰質土壌の南向き斜面2.6haに、シャルドネを90%、残り10%でヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダー、ピノ・ノワール、ヴィオニエ、ムスカテラーを植樹した。そのすべてを同時に収穫して混醸するという、モーゼルでは他にない「ゲミシュター・ザッツ」を、2011年から醸造・販売している。
 現在、彼のコンサルティングはどこも終了している。オーバーモーゼルのプロジェクトはゲルノートの手を離れ、ヴァイングート・リンケの名で今も造られている。

・イミッヒ・バッテリーの購入

 2009年、ゲルノートはイミッヒ・バッテリーベルクの経営・醸造責任者に就任した。モーゼル最古の醸造所の一つで、西暦908年、カロリング朝の東フランク王ルートヴィヒ4世が、現在醸造所のある地所を、教会に寄進した証書に登場するのが最古の記録だ。地下セラーの柱は、9世紀後半に、ローマ時代の荘園の邸宅に使われていた建材を再利用したものと言われている。そしてセラーの奥まった一角には、城塞のような館が敵に囲まれた時、村の背後にある森の中に逃れるためのトンネルの入り口がある。12世紀にエッシ侯の所領となって以来、館はエシェブルクと呼ばれ、醸造所が所有する複数のブドウ畑の収穫を使った、ミドルレンジのワインの名前になっている。
 「イミッヒ」の名は、1425年から代々醸造所を継いできた、イミッヒ家に由来する。「バッテリーベルク」という畑名の由来については、今更繰り返すまでもないかもしれない。1841年から1845年にかけて、粘板岩の斜面に発破をかけてブドウ畑を造成した際、その爆破音が砲兵隊(バッテリー)を思わせたことから、バッテリーベルクと名付けられた。もっとも、ゲルノートによればバッテリーベルクだけではなく、モーゼルの急斜面のブドウ畑は、大抵同じようにして発破をかけて造成されたそうで、ここだけが特別な訳ではなく、イミッヒ家がマーケティングを考えて命名したのだという。

 1989年、この伝統ある醸造所は、後継者のいなかったイミッヒ家の手を離れ、本職は弁護士だったオーナーの手に渡った。1995年から2003年までは、気鋭の若手醸造家ウヴェ・ヨストックの下で、一定の評価を獲得していた。しかし2003年にヨストックが醸造所を去ってから経営は傾き、2007年に倒産した。
 ゲルノートは、実は2004年ころから、イミッヒ・バッテリーベルクの購入を考えていたそうだ。所有するブドウ畑を切り売りしていたことから、経営難に陥っていることは察しがついたので、もしかしたら、醸造所ごと売ってくれるのではないかと考えたのだろう。
 イミッヒ・バッテリーベルクのブドウ畑の大半は、プロイセン政府が1868年に作成したブドウ畑の格付け地図でも、グラン・クリュとされていた。そしてさらに、平均樹齢70年の自根の古木の割合が約80%と非常に高かったのだから、ゲルノートが目を付けるのも納得できる。実際、当時のオーナーに購入を持ち掛けたが、「まだ売る気はない」と、断られたそうだ。
 結局2007年に倒産し、醸造所とともに残っていた3haあまりのブドウ畑は、不動産投資会社から売りに出された。だが、ゲルノートには高すぎて手が出なかった。ところが、2008年のリーマンショックが幸いした。資金の必要に迫られた不動産投資会社は、売却価格を当初の半額まで値下げしたのだ。ゲルノートは、人づてに銀行家と電子部品メーカーの資産家二人を紹介してもらい、無事に醸造所を購入することが出来た。二人の資産家をオーナーとして、自身は経営・醸造責任者となった。

・新生イミッヒ・バッテリーベルクでのワイン造り

 こうして2009年、イミッヒ・バッテリーベルクは、ゲルノートのもとで新しいスタートを切った。栽培と醸造のコンセプトは、ファン・フォルクセンと基本的に変わらない。古木を重視し、約40hl/ha以下まで収量を絞り、生理的完熟に達するまで収穫しない。醸造もまた、微量の亜硫酸塩以外は何も添加せず、シャプタリゼーションも除酸処理も行わず、ブドウ畑で果皮についた野生酵母で発酵する。
 ゲルノートが目指しているのは、アルコール濃度の低い、ほっそりとして繊細なスタイルなので、マセレーションも短めにして切り上げ、圧搾後は適度な濁りを残してステンレスタンクか木樽に入れる。樽は7年前後、他の醸造所で使われた後のバリック樽で、亜硫酸塩を添加せずに、澱引きもせずに熟成させる。
 ただ、バッテリーベルクとファン・フォルクセンでは規模が違う。現在約90haのブドウ畑を所有するファン・フォルクセンでは、収穫作業は約50人の作業者で組織的に行われるが、バッテリーベルクでは5人あまりの作業者が、こぢんまりと収穫する。醸造もゲルノートが醸造責任者だった当時の、かつてのイエズス会修道院の地下にあるセラーではなく、ザール川の対岸の丘の上に新築した、広々とした醸造施設を使っている。一方、バッテリーベルクが現在所有しているブドウ畑は約9haで、圧搾室は2018年に新築したものの、発酵は千年以上の時を経た、石造りの地下室で行われる。

・イミッヒ・バッテリーベルクのラインナップ

 ワインのラインナップもまた、ファン・フォルクセンとイミッヒ・バッテリーベルクは似ている。ベーシックなワイン「C.A.I.」(19世紀にバッテリーベルクの畑を発破して造成した当時のオーナー、カール=アウグスト・イミッヒのイニシャル)の約90%は、ファン・フォルクセンの「シーファー・リースリング」や「V.V.」と同じく委託栽培による収穫だ。ミドルレンジの「エシェブルク」は、現在所有している約9haの畑のうち、斜面の下方の区画や、畑名ワインに使われなかったブドウを用いている。ファン・フォルクセンで、ザールの複数の畑の収穫を用いる「ザール・リースリング」に相当する。
 畑名入りのワインは、エアステ・ラーゲ(プルミエ・クリュ)の「シュテッフェンスベルク」と、グローセ・ラーゲ(グラン・クリュ)の「ツォルトゥルム」、「エラーグルーブ」、「バッテリーベルク」、「ツェップヴィンゲルト」がある。いずれもリースリングだ。他にピノ・ノワールの「モンテノイベル」と、スパークリングの「ジュール・フィクス」をリリースしている(ラシーヌが5月に取り扱いを始めるのは、C.A.I.、エシェブルク、シュテッフェンスベルク、バッテリーベルクとジュール・フィクスの5アイテム)。

・ファン・フォルクセンとイミッヒ・バッテリーベルクのワイン

 ザールのファン・フォルクセンと、モーゼルのイミッヒ・バッテリーベルクの、ブドウ畑の立地条件と土壌や気候、そしてワインにはどのような違いがあるのだろうか。それぞれの代表的なブドウ畑である、シャルツホーフベルクとバッテリーベルクで比べてみると、いくつかの違いが想起される。
 一つは、川からの距離である。バッテリーベルクはモーゼル川沿いの西から南西向き急斜面で、川幅も広く、見晴らしがよい。一方シャルツホーフベルクは、ザール川から約1km東の内陸に入った高台にあり、周囲はだいたい同じ高さの山に囲まれている。
 次に土壌は、シャルツホーフベルクが長い歳月をかけて、細かく粉砕された灰色粘板岩が厚く堆積しているのに対して、バッテリーベルクは地下200~300mに達する灰色粘板岩の岩盤の上に、約150年前に爆破されて生じた粘板岩の比較的大きな礫と、約50cmばかりの薄い表土に、珪岩がしばしば混じっている。
 気候的には、一般的にはザールの方が、モーゼルよりもがわずかに冷涼で、降水量も若干多い。だが、バッテリーベルクのあたりは、モーゼル川が南むかって、紐を吊り下げたようにぐるりと蛇行する区間の先端に近く、周囲を森に囲まれている。ベルンカステル=クースやピースポートのような、対岸になだらかな地形ある地区よりも、奥まった雰囲気があり、冷涼な印象を受ける。
 個人的には、イミッヒ・バッテリーベルクのリースリングは、ファン・フォルクセンに比べて、とりわけ若いうちは、粒子が大きく、荒々しい印象をうける。だが、成熟すると、きめ細かくスタイリッシュで繊細なニュアンスがあり、非常に余韻が長い。ファン・フォルクセンは、どちらかといえば熟した柑橘類が思い浮かぶが、バッテリーベルクはハーブや青りんごが想起される。緻密さと複雑さと繊細さでは似ているようでいて、異なっている。まもなく飲み比べることが出来るのが楽しみだ。

・ゲルノートの公的活動

 最後に、ワイン造り以外でのゲルノートの活動について、短く触れておきたい。ファン・フォルクセンを立ち上げる前の1999年、モーゼルの多数の醸造所が集まる大規模な試飲会を、ゲルノートはローマンを含む5人ほどの仲間たちと一緒にオーガナイズした。今でこそ、若手の活躍とワイン業界は切っても切れない関係にあるが、あのころは、若者が中心になって運営するワインイベントは、他になかったように思う。
 また、2011年2月には、ラインラント・ファルツ州ワイン農業担当相に、地理的呼称制度の導入と、単一畑と紛らわしい、集合畑(グロースラーゲ)の廃止を陳情した。2009年8月に施行された、地理的呼称制度のEU全体への導入が、ドイツでは骨抜きにされていることへの批判と、将来への提言を、政治家に直接訴えたのだ。残念ながら成果には結びつかなかったものの、新聞などで取り上げられ、改革の機運が盛り上がった。近い将来抜本的に改正される、新しいドイツワイン法では、ゲルノート達の提言が反映された形になっているはずだ。(ドイツワイン通信Vol. 101参照
 そして2014年6月の精霊降誕祭の週末、「ミトス・モーゼル」(http://www.mythos-mosel.de/)と称するイベントを立ち上げた。2013年8月23日付の、フランクフルター・アルゲマイネ紙に掲載された、モーゼルのワインとガストロノミーの、旧態依然とした状況を揶揄した記事に対する、カウンタームーブメントとして始まったイベントである。毎年区間を変えながら、モーゼル川沿い約20kmの醸造所が観光客に門戸を開き、村と村の間はチャーターしたバスが運行する。今年は6月5~7日の開催が予定されているが、主催者は中止の判断を下しておらず、どうなるかはわからない。

 実を言えば、ゲルノートは今年のヴィネクスポ香港にあわせて来日する予定だった。それが5月から7月に延期されたが、中止となる見込みが濃厚となっている。その代わりに、オンラインでゲルノートも参加した、お披露目会が企画されている。詳細はこれから詰めていくが、実現したら、新しい時代の幕開けとなるような気がする。乞うご期待。

 

図:イミッヒ・バッテリーベルクの位置

バッテリーベルクの畑の位置。

 

バッテリーベルクの畑。

セラーのゲルノート・コルマン。

 

(以上)

 

北嶋 裕 氏 プロフィール: 
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。


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