Sac a vinのひとり言 其の三十九「昨日の世界を思いつつ」
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最終更新日:2020/05/01
建部 洋平の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
基本的に自分は脳髄になんらかの着想が転げ落ちてきたらそれを捕らえて一気に原稿を書き上げる。そのようにして今までこちらの紙面に連載させて頂いてきた。もちろんデータなどの肉付けが必要なものは用意するなど準備はするにはするのだが、意識が仕事でもプライベートでも無い波間をたゆたっているときに、ふと湧いてきた疑問や気づきを電子の紙の上に落とし込んで皆様のお目を汚してきた。何を伝えたいかと言われたら、私が記してきたことは杓子定規なアナライズ作業の結果ではなく、「私」という情報収集媒体が置かれた環境から組み上げた環境や状況などの情報を、「私」というフィルターを通して皆様のもとに放り投げられた物だと考えている。そうであるように心掛けている。
本来であれば、街が萌黄色に装いを纏い始めて其の下を行き交う人々も何とは無しに楽しげに見受けられる季節に何を書こうか?などと頭を捻っているはずだったのだが、此の歴史の転換点ともいえる状況にあると其のような能天気なことは言っていられない。とは言っても一介のソムリエが此処に何かを述べる事で何かが変わるとも思えないが、尋常ならざる世界に於いて何を見出して何を考察したのかを書き留めておくことは決して無駄では無いと私は考える。それが決して論理的ではなかったとしても。
以上から、今回記すことは普段以上に情緒的な内容になることをご容赦願いたい。
1 ソムリエとは関係性の中で成立する職業である
そのままである。普段から私は「ソムリエは飽くまでも最終提供者にい過ぎない」と何回か述べさせて頂いていたが、其の持論が図らずも皆様にも認識されたと思う。ただし、考え得る最悪の形で。 調理師の方はテイクアウトを作れる。酒屋の方はワインを配送することができる。それぞれの専門領域であるからだ(収益性に関してはここでは考慮しない)。では我々にしかできないことは現状としてなんであろうかと?考えてみるのだが、現時点では正直なところ頭を抱えるしか無いというのが本音である。マリアージュやペアリングの提案が我々の主たる仕事である以上、「消費者」と「製造者」が存在しないと「仲介者」である我々の出番は正直存在しないと言ってしまっても良いだろう、いや認めたくないことであるが目を背けるわけには行かない。自身を戒める為にも敢えて述べさせてもらうが、今までソムリエは「生産者及び製造者」と「消費者」の好意に甘えてしまっていたのではないか? と。 売るべきワインと過ごしやすい周囲環境、美味しいお料理と愛すべきお客様。つい1ヶ月前までは50mごとに見受けることが容易であった光景であった。我々は其の中を其々の環境の違いはあれども思う存分に泳ぎ回り、調整をしてより良い関係性を作り上げることに腐心していた。しかし所謂3密と飲酒を避けなくてはいけないこのシチュエーションは我々にとっては両手をもがれたに等しいと感じざるを得ない。「人に近づくな!喋りかけるな!酒を提供するな!」と政府に言われて、それに抗って接客しなければいけない正義など、私には見出すことなど私には出来ない。何故なら我々は飽くまで顧客を幸せにする為に働いているのであり、其の対価としてお代を頂いている。その顧客が払うべきコストの天秤に「貴方の健康と命を乗せてください」などとは口が裂けても言えない、言いたくない。 ただ此処で述べたいのは悲観的なことだけでは無く、もっと重要なこと。それは「ソムリエも現場以外にビジネスを持つべき」である。隠す事でもないので申し上げるが、複数の現場に勤務していた私は先だっての都の緊急事態宣言から依頼の激減とキャンセルの嵐である。休業している店舗に立つことなどできないし、従業員を守る為に外部への依頼を減らすのは経営者として当然の判断である。(そんな中でも依頼を継続してくれる顧客の方には敬意と感謝を捧げる)幸いなことに私は現場以外にも何個かテレワークが可能な仕事を幾つか持っていたので、明日のご飯をどうするかに絶望を感じるような事態には今のところ直面していない。そこで感じたのが、今回は世界的に危機的な状況にあるので皆が自身の先行きに関して深刻かつ真剣に検討しているが、良く良く考えてみると太平な世情にあったとしても病気や事故などにより収入のリソースが絶たれるリスクは内包されているものである。 ワインのコンサルタントやスクールの講師でも良いし、株式などの投資でも構わない。社会人として何かあったときのために備えをしておくという当たり前の事をするべきなのではないか?と思わざるを得ない。飲食という職業の特性上、現場以外に目を向ける金銭的にも時間的にも余裕がないかもしれないが、今回望まない形ではあるが時は皆様に平等に与えられてしまったので、我々の関係性に依存しているビジネスモデルに関して考え直していく良い機会なのかもしれない。切り捨てられた我々が「不要不急ではない」存在であろうとすれば、そこから新しくより社会に密接な関わりが生まれてくるかもしれない。
2 遠足は家に帰るまでが遠足、レストランも家に帰るまでがレストラン
人は何故外食をするのだろう?今まではそこに行かないと食べたり飲んだりできないものを求めて皆思い思いの憩いの場を見出してそこに足繁く通っていた。もちろんお店のムードや従業員との関係性を楽しんではいたと思うが、飲食店である以上主役は飽くまで提供される料理やお酒であった。翻って現在の状況に目を戻してみると、この危機的状況においても人は快楽は忘れることは出来ない、いや、抑圧されていることから普段よりもストレスが溜まりやすいこの状況下においては、何らかのはけ口を求める衝動は普段よりも強いものであると言えるだろう。飲食店側も多種多様な品目を持ち帰りという形で提供し、それらが家庭の卓上を彩っているが、基本的にその場での提供を生業としてきた店舗で出されているものが、そのままの魅力を楽しんでもらえているかと言われると、100%うまく行っているとは言い難い状況であると私は考える。何故か? 其れは、仕事が目指すベクトルが根本的に違うからである。幸いにも私は現在乃木坂にある和食の店舗に勤めさせて頂いていて、其方でもお弁当の提供をこの度始めたのだが、営業も行いつつ仕込みを行うので必然的にかぶる食材も出てくるのだが、施される仕事が全く性格の違うものであるので何が店舗提供と家庭への持ち帰り用の提供で何が違うのか観察させて頂くことができた。 簡単に言えば100m走とマラソンの違いである。その場で食べるものであれば食材のもつ持ち味を出来る限り引き出してベストのタイミングで提供する最大値を狙った仕事となるが、持ち帰りの場合は素材の持ち味の中で重要な要素を把握してその持ち味をどれだけ長く保たせるかを狙いにしなければならない。嫌な言い方をすれば、どのような食べ方をしても美味しく感じてもらえるような仕事を狙っていく。このように書くと持ち帰りに特化した仕事の方が単なる廉価版の様に受け取られてしまうが、決してそうではない。むしろ現状を眺めてみるとお店の味をそのまま再現したものはこの現状下に置いては今のところ喜ばれているが、おそらくGW明けくらいには顧客側が段々と飽き始めてくるだろう。これは決して提供している店舗を馬鹿にしているわけでは無くて仕事の性格上の問題である。 その問題点とは「持ち帰ったものを家で食べなければならない」ことである。 何を当たり前の事を言っていると思われるかもしれないが、真面目な話である。 日常から比べて極端に少なくなったこの状況下において、少しでもささくれだった心を慰撫するべくして、せめて美味しいものをとテイクアウトを用意するのだが、楽しむ場所はついさっきまで仕事をしていたその場所、そのテーブルなのである。そして普通の家庭であれば用意される皿やグラスなども振り払いたい日常の延長線上にある。 癒しを求めて非日常を探して見つけたはずが、其れにまとわりつく日常の残滓を見出してしまう。これは現在はまだ顕在化していないがこのまま長期化することになれば、無視できない影響があるのではないかと私は考える。オンライン飲み会などが行われているのは皆が変化を求めるその証左であろう。その点お弁当やサンドイッチなどの携帯が可能なものは、環境を変えて(この状況下であまり推奨はできないが)自分になんらかの変化をもたらす為の裁量が与えられているので「楽しみ方」の幅が実を言うとかなり広い。何より「片付け」とう日常の象徴を行わなくても良いと言うのが今においては非常に価値のある事だと私は考える。ある意味ではどのように楽しむかという自身の器を試されている様なものだ。
今の情勢になって改めて思う。 レストランが非日常である事がどれだけ価値があったのかと。
3 そしてワインとは相対的かつ社会的な飲み物である
こんなにもワインを人に注ぐ機会が減ったのはいつ以来だろう?ストレスを感じるというよりもどちらかというと懐かしい気持ちを感じざるを得ない。試飲を毎日のようにこなしていたのが遠い過去にすら思われてくる。この状況に陥っているのは自分だけではないので焦りはあまり感じないで済んでいるのだが、どちらにしても心身の健康にとっては少々芳しくない状況だ。試飲できないのは構わないが、顧客にサーヴできないのはサーヴィスマンでもあるソムリエにとって死活問題なのだ。というよりも現在の我々を覆う環境は自身とその仕事の存在意義を剥奪しようとする恐怖を孕んでいる。別に今までの環境がどれだけ幸せだったか! お客様に奉仕する喜びを再認識しました! などと殊勝なことを言い出すつもりは寸毫もありはしないが、ソムリエは他者の存在する空間で初めて生存の許されるタイプの生物だと認識を改めて深めざるを得なかった。生き延びるために価値に見合わない廉価での販売などが始まりつつあり、それに伴ったブランドイメージや価値の崩壊などを危惧する声もにじみ出てきている。商材の発掘から販売戦略の作成、宣伝方法などを綿密に構築して業務を当たっているインポーターや酒販店においては、看過することは憤懣やるかたない事態ではあると思う。実際影響は少なからず残るであろう。 しかし、現場の人間が「状況が改善してもわざわざ足を運んで自分が選んだワインを飲んでくれるのだろうか?」という心配は取り越し苦労であると考える。 人は何故ワインを飲みに行くのか? 消費という意味だけを考えるのならば、自宅で楽しむのが金銭的にも時間効率的にも最も優れているはずであるし、入手が難しいものも今ならば比較的容易に手に入れることが可能なはずだ。しかし、少なくない私の知己が「ワインを飲みに行きたい」「ワインをサーヴして欲しい」と零している。そこから私が朧気ながら感じたのが、ワインの本質を考察する際に「味わい」「価格」「付加価値」はさしたる重要なものではなく、肝要なのはそれに付随する「関係性」と「違い」(多様性ではない)、そして「必然性」なのではないかと。この3点が具体的に何なのかは各々によって受け取り方が変わってくるので敢えて説明はしないでおく。というよりも本章は今読んで何かを感じ取って欲しい訳ではなく5年、10年後に振り返った時に何を思うのかの為に書き記した備忘録のようなものであるから。
来年は桜の下で美酒を聞し召すことが叶うことを祈って
~プロフィール~
建部 洋平(たてべ ようへい) 北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。 ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。 ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー