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エッセイ:Vol.148 「堕ちまい、浮かれまい」

公開日: : 最終更新日:2020/06/17 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

はじめに
 COVID19が派手に世界中で悪さをしでかしている。パンデミックのさなか、地球上の全人類は「偶然に生きていることの幸せ」を実感させられているかのよう。だが、困難や理不尽な状況に直面すると、言葉と理性を手掛かりにして打ち勝とうとするのが人間的、あるいは健全な精神ではないだろうか。もちろん、ワイングラスを片手にして、ね。

おまえをなんと呼ぼうか
 さてこのウィルスを、なんと呼んだものだろうか。発生源とされる特定地域に結びつけるのは、イメージしやすいにしても、安直にすぎる。「武漢ウィルス」とか「中国ウィルス」と呼び、病像を「一帯一路型感染症」と呼んだりするのは、関係者の気休め、責任の押し付けやなすりあいでなければ、たんなる言葉のゲームである。蔑称を投げかけるだけでは、状況の改善や問題の解決に役立たない。

認識概念と操作概念
 むろん、言葉という記号抜きでは、あらゆる認識もコミュニケーションも成立しない。ただ、さまざまな状況のなかで、言葉が《認識概念》として用いられているのか、それとも《操作概念》として用いられているのかを、わたしたちは峻別しなければならない(このことを私は大学時代、永井陽之助先生の鋭くてユーモアあふれる講義から教わった)。

 人間はだれしも、言葉にかかわらずに生きられない。ところが、言葉はなかば個人的、なかば社会的な存在だから、各人が使う言葉は個人の癖や意味の世界を構成するだけでなく、つねに外界や出来合いのイメージに染まっている。要するに言葉は、人間と同じく、歴史的な偏見や時代の感情にまみれた、生き物のような存在である。

 だから、ものごとを認識するための記号や道具として言葉を用いる際は、なれ合い世界の符丁(合言葉)を拠りどころにせず、できるだけ言葉を定義しながら使うしかない(言葉をその場で定義しながら用いる見事な例を、丸山眞男先生[永井さんの師昇格]の文章や発言から私は学んだ)。

情報操作業としての政治家
 かたや、本来コンフリクト(紛争)の調停と解決を務めとするはずの政治家は、―とりわけ現代の政治家ときたら世界中で―とびきり情報操作に長けており、いまやそれを本務と心得る専門家のようにみえる。言葉は事実を覆い隠すための方便となり、あるいは恫喝や脅しの手段にすらなり果てる。特定の政治的思惑や経済的利害から自由でない彼らや彼女ら政治的職業人にとって、言葉はタダなだけでなく、操作意図どおりに人や物事を特定方向に動かすために好都合な手段でしかない。

 ウソやフェイクニュースのかたちで政治界を淵源として日常的に発せられる言葉は、ジャーナリズムで増幅されて社会と家庭に伝播浸透していく。が、遅かれ早かれ市民は事実との情報落差に気づかざるを得ないから、政治的な利害や荒廃から無縁な市民層の間には、結果的に民主主義への無力感が支配的になりかねない。いや、こう感じさせるのが、当代の中枢政治家たちの狙いなのかもしれない、と勘繰られてもしかたない。

 あげく、当の政治家だけでなく、言葉そのものまで信頼性が貶められ、傷つけられてしまうのは、言葉の悲劇と呼ぶしかない。

両面の敵
 そこでCOVID—19。相手かまわず攻撃を仕掛けるこの《見えない敵》は、当代の悪ずれした政治家よりもさらに手ごわい。情報操作専門の権力政治家とCOVID—19という、両側の敵から挟み撃ちにあっている現代世界の人間は、意に反して歴史的な舞台に登場させられた悲劇の登場人物、といった格好である。

COVID19は新型グローバリズム
 グローバリズムはその名に反して、特定の強力な国や階層のパーシャルな利益を擁護するイデオロギーであることが、その経済的な破綻現象の中からいまや見え隠れする。
 COVID—19もまた、グローバリズム(と、そのほころび)に乗じて世界中に一気に拡がったとされるが、浅はかで愚かな経済=政治権力の錯綜する、無力な支配層を嘲笑っているかのよう。

 どちらの強敵に対しても備えるには、世界中の市民が連帯感情を復活させ、理性と感性を総動員して身構え、生活の質を守り、維持しようと努めるしかあるまい。

 COVID—19は、金融破綻だけにとどまらず、日本の実体経済に深刻な影響を及ぼし、当然ながら大規模イヴェントは影を潜めた。私たちの仲間である飲食&ワイン業界もまた、健闘しているにもかかわらず深刻以上の打撃を受け、その回復不可能な被害状況は私たちにとっても他人ごとではない。

 だが、世界を見渡せば、いまのところ日本は欧米やアジアの各国にくらべて、都市や都市圏は封鎖されず、市民の行動もまた厳重に規制されず、交通の制限もないにひとしい。各種のサーヴィス業も個人の行動も、良識と自己責任に任され、あるいは放置されている(ヨーロッパのワイン人から寄せられる便りやSNSからは、予想を上回る封鎖の不自由さと、経済&行動の不活性にもかかわらず、意気軒高として健全な精神が伝わってくる)。

 このような状況の中で、各人が懸命に仕事に打ち込むだけでなく、お互いできるだけ生活の質を落とさず、交流とコミュニケーションを維持しようとしているさまには、元気づけられなくもない。

浮かれずにご用心
 たしかに、肉体的にも精神的にも閉じ込められていただけに、季節の廻りや蠢動の気配とともに人々が外界により関心を向け、外出をしたくなるのは自然ではあるけれど、あまりに無邪気で無防備なふるまい方をみると、備えは十分かと尋ねたくなってくる。

 ロバート・パーカーがたびたび引用したように、“caveat emptor”(買手の危険負担)という原則がここにも通用するわけで、見えない敵との闘いに油断は禁物なのです。私がどのようにしているかについては、参考になるかどうかは別として、お尋ねくださればお答えしますが、基本を私流にアレンジして守っているだけです。

 

 
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