Sac a vinのひとり言 其の三十八「対になるもの」
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建部 洋平の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
つい最近、とあるお客様から放たれた言葉から、ある疑問を抱くようになった。そのお客様は所謂「自然派」ワインがあまりお好みでは無く、慣行的なワインへの働きかけの「クラシック」なスタイルのワインを嗜まれる方だったのだが、会話の流れの中で「最近みんなが“自然”なワインが好きっていうけどさ、個人的にはあまり好きじゃ無いんだよね。だから最近ソムリエに“不自然”なワインが好きだって冗談を言っているよ」と冗句をおっしゃられた。その場はそのまま違う話に移行し、食事も恙無く終了して満足して帰られた。しかし私の中ではその“不自然”という単語が喉に刺さった魚の骨の如き除去できない違和感を持って頭の中を支配していた。何故なのか? 自身の思考を整理してみて一つ思い当たったのが、“自然”なワインの条件や定義に関しての議論や意見は巷に溢れかえっているのに対して、その対義語であるはず(あるべき)の“不自然”なワインの定義づけや判別方法に関しては、明確な議論や提唱などを私は寡聞にして把握していない。“自然”なワインに関する考察や論証などの反例や比較対象として慣行的なスタイルをピックアップする事は有るが、“不自然“なワイン自身の定義に突っ込んでの議論に関しては必要性が無いのかはたまた別の理由なのか、とんと見当たらない。試しに作業のファクターごとに分けて分析してみた。
(以下“自然”サイドをA、“不自然”サイドをBと記載する。)
① 酸化防止剤の使用の有無:Bで不使用は無い。しかしAにおいて全てが不使用ではなく生産者の裁量に委ねられる。スタイルの違いとはなるが品質の優劣に対して作用すると断言する必然性は見出せない。
② 折り引き作業、フィルター使用の有無:A、B共に使用の有無がその定義には関係は無い。Aは使用を控える傾向にはあるが作柄や品種、醸造過程によっては使用を選択するケースはいくらでもある。また、Bでも不使用及び使用を最低限に控える例も見受けられる為、AとBを分ける決定的な要因にはなり得ない。
③ 農薬、人工肥料の有無:Aに置いてもボルドー液をごく当たり前に散布する生産者は存在し、認証によって使用できる薬剤の範囲はまちまちである。しかし、消費者はその大きな括りの中にあるものを全てAだと認識する。Bだと自称していても、Aよりもそういった介入の少ない生産者も少なく無い。目安にはなり得るがこれもやはり決定的な判断基準にはなり得ない。
④ 添加物の有無:この判断基準を入れた瞬間にChampagne、Portoなどの職人的な介入を必要とする全てのワインがBにカテゴリーされてしまう。しかし、そういった生産者が自然を尊重した仕事をしていないかと問われたならば断じて否で有る。よってこの判断基準も必要十分では無い。
⑤ 天然酵母、培養酵母の使用。又は原生酵母のみでの醸造か否か:この判断基準を導入した場合に持ち上がってきてしまう一つの問いがある。其れは、「ワインの醸造に携わる人間の仕事もテロワール、そのワインの誕生に必要な周囲環境に含めるか否か?」というものである。
発酵を考える際に大雑把に分類してみると、
❶培養酵母を使用して安全且つ潤滑に発酵を終わらせる。
❷一切添加を行わずにブドウを圧搾、破砕して発酵を行う。
❶はB、❷はAだと分類することが容易に可能であり、わかりやすい判別方法だと思われるのだが、厄介な事にこれらに加えて、
❸畑に生息する酵母をなんらかの手段で採取、培養して発酵の際に使用する。
というパターンが存在する為、問題がややこしくなってくる。酵母の構成要素自体は畑由来のものである為、Aに分類出来うるのだが、採取と培養という人為的な介入、ある意味ではBに属する作業がなければ発酵の際に使用する事はできないのである。加えて一定以上の量を生産すると想定した場合において、❷の手法はあまりにもリスキーであるし、ビジネスとしてワインの生産とマーケットへの供給が不可能になると言わざるを得ない。品質の問題では無く、取引としての信用の問題になってくる為だ。マーケットを見てみれば豊富な生産量で素晴らしいAのワインを算出している方もいる為、やはりこれも決定的なリトマス試験紙とはならない。
このように“自然”と“不自然”を明確に分ける基準というものはそもそも存在せず、ブドウを絞って作る以上、どんなに技術や薬剤が介入しようともワインという商品は“自然”なもので有るし、栽培や醸造、瓶詰めなど人為的な介入が存在する以上ワインは絶対的に“不自然”な存在でも有る。しかし人は両者を区別して各々に都合の良い様に消費している。その判断はどの様にされているのだろう?相対的な基準にならざるを得ないが、実地で提供している人間としては最大公約数として、
“自然”なワインを求める人は、技術や介入の痕跡が無いものを求める。
→コールドマセラシオン、新樽、MLFなどの輪郭がはっきりしたものを避ける。
“不自然”を求める人は濁りや揮発酸、還元などのネガティブな要素を含まないものを求める。
→スルスル飲める、野性味あふれる、瑞々しいなどの表現を受けるワインは苦手な傾向。
と、この様な嗜好の様式がある様に把握している。
実際のケースで説明するのは簡単である。現場に立っている人間であれば、「スルスル飲める薄濁り系の癒し系のワイン頂戴」「軽い揮発酸とブレットが複雑味を与えている」「樽の風味しかしなくて頭が痛くなりそう…」この様なお客様の要望や意見は日常茶飯事であるだろうし、「なんか味がぼんやりしていてよくわからない。もっとガツン!としたのくれ!」「酸っぱくて飲めないよ。普通のワインある?」なんてお言葉は大体のソムリエは頂いたことが有るだろう。どちらが優れているなどと言う議論では無く、双方におけるニーズの違いがあるので、明確な相違点を把握する必要性から考察を進めてきたのだが、書けば書くほど“自然”なワインと“”不自然“の境目というものが分からなくなってきた。そもそも明確な境目自体存在し得るのだろうか?残念な事に明確な答えを私は持ち得ない。しかし、このテーマは今後突き詰めて掘り下げなければならない、避けては通れない命題であると私は考える。何故なら、件のお客様が最後に残した言葉が未だに忘れられないからだ。
「不自然とあえて言ったけれど自然なものを否定しているわけでは無いよ。ただ、今のワインの中で“自然”なワインと呼ばれるものの大多数が、自然ではあるけれど正直健全なワインだとは思えないんだよね。」