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『ラシーヌ便り』no. 170 「イ・クストーディ」

I Custodi イ・クストーディ

 ラシーヌでは、エトナ産のワインとしては、長年信頼している《エトナ生まれ、エトナ育ち》の名ワインメーカー、サルヴォ・フォーティが実際に栽培と醸造に参画し、責任をもって造り上げたワインの中から厳選し、紹介してまいりました。
 結果的に、生産者側の事情などの理由で、取引関係には紆余曲折がありましたが、近年ラシーヌは、サルヴォが率いる栽培家集団の名をそのまま掲げる、【イ・ヴィニェーリ】に絞ってご紹介しています。が、加えてこの度、【I Custodiイ・クストーディ】との取引を始めましたことを、お知らせします。

 オーナーのマリオ・パオルーツィとは、2004年【イル・カンタンテ】のオーナーの一人として出会い、親交を結んでまいりました。【イル・カンタンテ】の解散後、マリオは間をおかずに【イ・クストーディ】を興し、高地に拓かれた最上の畑を自力で買い求め、サルヴォの全面的な協力のもとに、妥協のないワイン造りを始めました。わたしたちも幾度となく試飲を重ね、ワインの成長をたしかめながら、取引の可能性を話し合ってきました。
 わたしたちにとって、この十数年余りは、【イル・カンタンテ】の不調と解散・混乱、【ベナンティ】との決別、サルヴォ・フォーティ自身のセラー建設の難航などが重なり、エトナでかつてサルヴォが築き上げた域に達する目ざましいワインの入手を、なかば諦めかけていました。すんなりと【イ・クストーディ】と取引することもかないませんでしたが、昨年【イ・クストーディ】が日本でこれまでの取引関係を終えたと聞き、新しく建造されたセラーを訪問しました。

1【イ・クストーディ】のオーナー、Mario Paoluziマリオ・パオルーツィ

 オーナーのマリオ・パオルーツィは、エトナの麓の港町カターニャで生まれ、父は製薬会社を営んでいましたが、マリオは家業のほかに、ファブリック関係の機械製造会社を営んでいました。エトナのワイン、特にネレッロ・マスカレーゼ種から造られる赤ワインに、強く惹かれていたマリオは、エトナ山でワイナリーを持つことを若いころから夢見ていました。
 マリオとサルヴォ・フォーティとの出会いは2000年、サルヴォがイギリスの歌手ミック・ハックネルからワイン造りを任され、ワイナリー【イル・カンタンテ】を立ち上げようとしていた頃です。ミックはシチリア人のワイナリー共同出資者を必要としていました。友人からミックに紹介され、ワイナリーを持つことが夢であったマリオは、喜んでその申し出を受け入れ、【イル・カンタンテ】のプロジェクトは順調に進みました。しかし、ある時その友人が、ぼそっとつぶやいたといいます。“栽培はイ・ヴィニェーリ、醸造はサルヴォ、だけどワインはミックのワイン。マリオの名前はどこにいっちまったんだろうね”。
 次の瞬間、マリオは自分のワイナリーを造ることを決意していました。【イル・カンタンテ】は2004年VTを最後に、廃業しました。マリオがそのブドウ畑を引き継ぎ、2007年に念願のワイナリーを立ち上げました。栽培はもちろん、サルヴォ率いる栽培家集団イ・ヴィニェーリ。しばらくはランダッツォの醸造所を間借りしてのワイン造りでしたが、2018年にモガナッツィ(ランダッツォから東へ10㎞)で、醸造所を建設しました。
 ワイナリーの建物は、現在完成間近の【イ・ヴィニェーリ】と比べると、近代的な建築です。マリオもエトナの伝統的なパルメントへの思いはなかったわけではないのですが、古い建物を利用して醸造施設を建設することは、相当に複雑な事情があるようです。昔ながらの石壁のワイナリーは、不衛生だという理由で醸造所としては認可されないのです。本気でそのようなことを考えているのかと、信じがたいですね。

 マリオはエトナで生まれ育ったわけではないですが、サルヴォの考えに深く共感し、伝統的でかつクオリティーの高いワインを造るためには、栽培はアルベレッロ仕立てであるべきだと、強く信じています。マリオが「イ・クストーディ、守り主」と命名した時に、「なんと大げさな、どちらかといえば尊大な名前を選んだのだろう」という意見も聞こえました。しかし、マリオがそのような名前をつけずにおれないほどの事件がありました。フェウド・ディ・メッツォ区画には、樹齢が200年を超える大変有名な区画があました。マリオはその持ち主に何度も購入したいと申し出ましたが、聞き入れられませんでした。その畑は、年配の兄弟が所有していましたが、ある日突然その半分の樹が抜かれてしまいました。「樹齢200年を超える樹を抜いてしまうなんて、なんという取り返しのつかないことを!」マリオの嘆きは、どんなことがあっても、残っている樹を自分が守るんだという固い意志にと変わり、ワイナリー名を「イ・クストーディ」としました。その後マリオは、残された半分の畑を買い取ることができ、そのブドウでSaeculare Etna Rosso が作られるようになりました。 
 他にも、モガナッツィのワイナリーの建設の際に、そこにはすでにグイヨー仕立てで畑が植えられていたのですが、ブドウをすべて引き抜き、新たにアルベレッロ仕立てで植えました。それほどまでに彼の、エトナの伝統への思いは強く、未来へ伝統を残そうと一切の妥協なく、意思を貫いている、それがマリオ・パオルーツィ、イ・クストーディという名前そのものの人だと思います。 

 

2)マリオの右腕、Massimo Ruffinoマッシモ・ルッフィーノ 

 【イ・クストーディ】のマネージャーであるマッシモ・ルッフィーノもまた、エトナのワインに魅せられたシチリア人で、マリオの大切な仲間です。シチリアのこの40年を見続けてきたマッシモ。火の山の男と呼ばれるサルヴォ・フォーティとは異なった視点でエトナと東南海岸を知る、シチリアの生き字引のような存在です。元々はTorrone di Mandorleという菓子で有名な ノートにあるカフェ・シチリアで働き、その後モディカで自身のレストランを開きました。1980年代、料理のすばらしさとシチリア中の優れたワインのセレクションでシチリア東部一のレストランと評価され、やがてサルヴォの右腕として【ベナンティ】【グルフィ】を世界中に広めました。

 ある日彼のレストランに、ニューヨークで大成功を収めたシチリア出身のレストランオーナーがやってきて、マッシモに「シチリア中の優れたワインをすべて集めてテイスティングをセットしてほしい」と依頼しました。その時、運よくやってきたのが、フランク・コルネリッセン。ちなみにフランクとは、彼がベルギーでワイン商を営んでいた時代から、わたしは付き合いがありましたが、ワイン商が挫折してイタリアに移り住んだのでした。そのフランクは、たちまちエトナのワインに心を奪われ、即座にエトナでワインを造ることを決意しました。その他、カラヴレッタ、オキピンティらも、ワイナリーを興すときに、マッシモに相談をし、古樹の畑を購入し、ワイナリーを興し、エトナブームへと発展していきました。明るく、親切で、エトナのワインをこよなく愛するマッシモもまた、エトナの守護神のひとりです。 
 ラシーヌがご紹介する新しいエトナのワイン、イ・クストーディ、どうぞご期待ください。

 

 
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