エッセイ:Vol.147 「今年の収穫」
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最終更新日:2020/06/17
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
Ⅰ.ワインの収穫年にはあまり興味がないこと
ヴィンテッジにとんと関心が起きないのは、どういうわけだろうか、われながら不思議である。むろん、どこかの旧社名のことではなくて、ワイン・イヤーのことを言っているのだ。さらに断っておくが、歳のせいで興味の対象が減ってきているせいでもない。それどころか、関心の対象と範囲が年々広がりすぎ、むしろ当惑している。
とすれば、「収穫年不感症」の、考えられる理由はなんだろうか? 年来ワインには興味が尽きないのに、収穫年にだけはさほど興味がそそられないという私ごとになど、読者に興味があるとは思えない。けれども、問題が問題なだけに、さらに深追いしてみたい。
仮説① 〈
収穫年そのものが、ワインにとって意味がない〉
この仮説が間違っていることはあまりに明白であるからして、私の拠り所にすらなりえない。気象条件は各地で毎年かわり、ことに近年は異常気象が「異常」ではなくて「通常」化していて、ワイン生産者の大きな頭痛のタネであり、自然火災をもふくめれば天候条件は生死に関わる現象ですらある。とすれば、ブドウが収穫された年の持つ意味は、ますます重大になっている。
天変地異という要因を除いて、収穫年について、さらに検討しなければならない。
仮説② 〈
ワインの栽培管理と製造にかかわる技術が向上した結果、ワイン造りにかかわるあらゆる環境や条件に対応することが可能で、問題のないようにコントロールできる〉
この仮説には半面の真理というより、一面の事実があるにしても、全体としては賛成できない。ワインの普及じたいは大いに結構なことであるが、それと無縁ではない近代的な量産技術が普及し、ある分野のワインでは生産がほとんど工業化されていることは確かだ。
が、それにしても、畑では化学肥料や農薬、除草剤に遺伝子改変技術をもってしても、病虫害すら完全に防ぐことはできない。セラー内でも、培養酵母や化学物質などの添加剤、高性能な設備と画一的な化粧技術をもってしても、出来上がるワインが無欠点な凡作を超えるのは難しいことも事実であろう。
つまりは、どういうタイプや水準のワインを取り上げて論じるかで、この仮説の妥当性が決まることになる。が、私とかかわりがあり、飲み楽しんでいるワインに関するかぎり、この仮説は無縁としてよいだろうから、わが収穫年問題とはすれ違ってしまう。
仮説③ 〈上手な造り手は、「不良年」にはとりわけ腕を発揮するから、気象条件によってワインに年ごとの味わいの差やヴィンテッジの特徴が出るにしても、いつでも飲み楽しむことができる〉
近頃しばしばみられるように、世界各地で気象条件が栽培と収穫に壊滅的な悪さをするときは、その年その畑のブドウの収量とワイン生産がゼロまたはゼロに近づくことがある。けれどもその場合は、浅ましくワインの入手不可能を嘆くよりは、生産者に同情をおくり、各人ができる範囲で支援の手を差し伸べる方法を考えるべきだろう。
いずれにしても、ワインが生産され、いかほどか入手可能な年については、腕達者な造り手を選びさえすれば、飲み手としてはさほど年ごとの差をあまり気にせず、おおらかにワインを楽しむことができるはず。作柄など、ワインそのもの―というより、ワインの周辺―についてワイン愛好家風に語るよりも、ひたすら目の前のワインを慈しみ、ワインの持ち味を発揮させるよう努めつつ、できたらワイン以外のことについて論じあうのが、ワイン本来の楽しみ方である、というのが年来のわが自説である。
というわけで、飲み手の立場に立ち、飲み楽しむ心構えにかかわる仮説③が、どうやら私には妥当するようである。
だが、ここまでは前置きで、ここから先が本論のはずであった。つまりは、ワインの収穫年についてではなく、ワインブックやワインについての記事や文章について、今年の収穫を論じようというのが、今回の趣旨である。
II.ワイン論―今年の収穫
*アンドリュー・ジェフォードの記事二点について*
丹念に内外のワインブックを漁り、ワインについての記事や論考を探り、さらにはインターネットを渉猟するという時間の余裕が、近年なくなってしまった。だから、遇目した作品について、感想を言うのにとどめたい。だって、オズ・クラークのファンであるのに、近ごろ評判の良いオズの自伝でさえ、まだ目を通していない始末なのだから。あるいは、たまたま新聞雑誌で読んだ記事に、感興をそそられなかったという話をしても、しょうがない。
わたしにとって知的に興味深いワインブックやワインの記事が少ないと感じられるのは、なにも最近にはじまったことではないから、それを嘆くにはあたらない。ところが嬉しいことに、年末になって、その例外に出会ったから、ぜひ書き留めておきたいと思った。
書き手は、ご存じアンドリュー・ジェフォード。なんと、ワインからあがる年収を公表しつづけていることも、知っていてよい。思わず、ワインライターの活動水準と収入の水準がパラレルであってほしい、と願わずにはいられないほど、この人とその作品に、わたしはぞっこん惚れこんでいる。
彼のウェブサイトには、二点の近作が載っていて、知的な文章と語り口がいずれも無料で楽しめるから、著者に感謝せざるをえない。
まず一点は、アンドリュー・ジェフォードへのインタヴュー記事。“Fine+Rare Wines”のギャヴィン・スミスが、2019年11月におこなった質疑の記録であるが、あらかじめ調べぬいたうえでの突っ込みぶりがよい。
第二は、ジェフォードがオーストラリアで2012年5月おこなったいくつかの講演を文章化したもので、“The World of Fine Wine” 36号に発表され、ついでウェブサイトに掲載された。
いずれも著者の意に適った文章だから再掲されたわけであって、ジェフォードの考え方とその背景がよくわかる。ネット掲載文としてはやや長文であるが、内容があまりに刺激的だから、両方とも読みとおすことをおすすめしたい。読む順番は、インタヴュー記事を最初に目をとおすこと。なじみやすい口語体のなかで、話す口調、考え方と発想がたどれるから、ジェフォード入門としても最適である。
いまここに要約する時間がないので、気に入った個所だけを紹介しよう。それは彼の思想的な背景ともいうくだり。ワインは、官能、・知性と感性に訴えるとしたうえで、魂の力spiritual forceがあり、「存在」に訴えかけて、ワインの「驚き」を経験するメカニズムにつながるとする。
哲学を専攻したわけではないという著者だが、哲学の重みを強調し、とりわけマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を挙げる。が、ドイツ語が読めないと率直にのべたあと、ジョージ・スタイナーの著した『マルティン・ハイデガー』(岩波現代文庫、生松敬三・訳)を勧めるあたりは、読巧者としての目が冴えている。
あとは読み手の楽しみを邪魔しないため、「お楽しみに」とだけ。じつは書く時間がないことの言い訳に過ぎないが、悪しからず。