*

エッセイ:Vol.146 「〈学ぶこと〉と〈考えること〉」

学ぶことの意味
 なにごとからも学べるし、学ぶべきことがあります。
 学ぶとは、たんに知識や情報を得ることではなくて、学ぼうとする態度や志向をさします。ある事柄から、自分自身とその生き方や考え方にとってのヒントや、自分の抱えている問題や課題を解決する手掛かりを得ようとする、積極的な心的態度です。だから極端にいえば、学ぶことの目的は答えを得たり与えられたりすることではありません。〈自分にとっての意義〉を探るという、プロセスそのものを活性化することに学びの意味があるのです。民主主義と同じで、学ぶのには手間がかかりますが、実りの可能性を含んでいる絶えざるプロセスなのです。

 だからして本来、学ぶことは苦痛どころか楽しいことであって、プロセスに時間をかけるという当世には稀な贅沢が味わえます。
 学ぼうとしない人がいるとすれば、学びたくない(勿体ない!)のでなければ、学び方がわからないのでしょうか。とくに日本の若者たちに不学の向きを感じるとすれば、彼らはすでに情報中毒のあおりで老成した風があり、自身の成長を放棄してしまったかのよう。もしかしたら、諦念を植え付けて権力への反抗心をそぐという、ずる賢い政治支配者の術中に陥って無力感に覆われ、不条理な状況からの脱出意欲を喪ってしまったのかもしれません。

 

大義の重み
 たとえば、現代アジアの政治状況の焦点になっている、香港の民主化運動から学ぶことがあります。
 まず、大義 (course)の重要性ではないでしょうか。個人的な利益追求といった目標ではなくて、個人を超える一般人(general public)にとって共通する、重要で不可欠な、共感できる理念がそこにあります。
 香港人にとっては、自治―自由な選挙で選ばれた市民代表による民主的な自己統治―は、自分たちの身を守る最後の砦なのでしょう。別の言葉で言えば、「外部からの権威や権力からの自由」の追求。その大義を実現するためには、身体を張って行動する価値があるという粘りつよい香港人の信念と行動に、ぬるま湯に浸かって呆けている者は、畏敬の念で撃たれるにちがいありません。

 

権力から学ぶ?
 ホットな香港と海を挟んで向き合うこの国では、権力に迎合して、その分け前にあずかろうというたぐいの受益者的な発想と、忖度や事なかれ主義が横行しています。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」(アクトン)という現象が、まさに目の前で起こっているのに、権力の監視役であるべきジャーナリズムの大勢が機能不全とは情けないことです。世は寄生虫の論理がまかり通るが、国民の大多数が権力の毒に中り、独立自尊の気概を失ってしまったわけではないでしょう。

 

学ぶことと、考えること
 学ぶことは、考えることと同じではありません。学びは主体的な作業であるのに対して、考えることは純粋に主観的でも純粋に客観的でもなく、両方の側面をあわせ持っています。人生/人間と社会には常に解決を要するさまざまな問題がありますが、問題へのアプローチにもまた、さまざまな方法があり、当然ながら問題の性質に応じてアプローチの方法が異なる。科学的な問い(たとえば幾何学)に対する科学的なアプローチですら、芸術的な解法から力業ともいうべき解法までさまざまです。ご存知のように、芸術的ともいえる鮮やかな補助線の引き方もあれば、補助線を用いずに方程式を組みわせて解を得るという強引な技もあるのです。

 次に、考えることには、〈解決を目指す〉という最終目的があります。解決でないにしても、〈結論〉は必要です。日本の文章やエッセイには情感を漂わせるのは巧みでも、結論が不在であったり、結論への導きかたがあやふやであったりするという傾向が、かつては散見されました。いずれにしても、自分が学んだことは(そのプロセスを抜きにしても)結果的に体得すればよいのですが、考えたことは思考プロセスを文章化することが必要です。思考とは思考プロセスなのですから。

 

思考と科学的思考
 というように、この考えるというプロセスを、文学的に表現することも、科学的に表現することもできるわけですが、科学は素人が考えるような、一枚岩というほどの厳密でこれでなくてはならない、という客観的なルールが必ずしもあるわけではありません。

 科学というものがあるわけではなくて、科学的な思考方法がある、というだけのこと。時代によって「科学的」の中身や水準が異なるので、ある時代(例えば現代)の、ある学問分野(たとえば分子生物学)には、公理とファインディングス、その証明方法や実験法があるわけですが、それは相対的な技法群とその結果の集合であって、ファインマンさんや池田清彦さんのような思索力のある科学者が書いているとおり、これが科学でこれが科学でない、というような明快な線引きは難しいのです。

 まして、なにが疑似科学や似非科学であるかについては、論者の科学観によって科学の基準が違うから、特定の論者の結論をうかつに信用しない方がよいでしょう。代替医療について、ある訳書は初版で似非科学を匂わせるタイトルを付けていましたが、原タイトルにはそのような決めつけはなかったので、次版からはその言葉は削除されたことを記憶しています。

 なにが科学で、なにが科学でないかよりも、科学的で明晰なアプローチに貫かれ、因果関係が合理的に推定されていれば、その論や書物はまじめな検討の対象になるはずです。つまり、科学的であるかどうかは、読者自身が判定すればよいわけで、だれから教示されるという性格のものではないのです。

 

O-リング・テストを考える
 たとえば、O-リング・テスト。この技法について、一部で似非科学という断定がありますが、あらゆる断定は疑ったほうがよいことを、まず指摘しておきましょう。私見では、医学的な診断技法としての有効性という側面と、具体的に応用面で役に立つかどうかという側面を分けて考えるべきだと思います。前者については私の専門外なので判断は控えますが、私が内科と歯科の患者としてそれぞれ診察を受けたかぎりでは、そこで正確な診断と処方や処置を受けたことだけは確言できます。

 医師によってO-リング・テストの診断・処方の技術や水準が違いますので、人(医師)を選ぶことが必須の実用的な知恵というべきでしょう。科学は人によって異なることはない、というのは医学的な判断においては当てはまらないことは、だれもが名医を探すという実践的な経験からわかることです。

 

O-リング・テスト:ワインへの応用
 同テストの応用面での効用については、私が考えて発見したファインディングスについて、これまでのエッセイで書いてきましたから、ここでは再説しません。そこに書いてある手順に従って、意味を考えながら環境設定を施せば、ワインの味わいにとって改善効果はあるはずです。
 が、論理的なプロセスの構築・判断力と、経験の積み重ねがO-リング・テストという技法の活用には欠かないことだけは確かです。私の師である故・豊岡憲治先生も、晩年つくづくと語っておられたとおり、O-リング・テストは技法としては単純なのですが、正確に使いこなすことはとても難しいのです。鍼灸医も同じですが、名人や達人の域にある医師でないと、O-リング・テストで確実な治療結果を期待することは難しいでしょう。
 応用面もまた同じことで、「生兵法は大怪我のもと」“A little learning is a dangerous thing”だと心得るべきです。そういえば、20世紀のイギリスが生んだ文学者イヴリン・ウォーの自伝のタイトルも「生兵法」“A Little Learning”でしたが、ついでにいえばこの「生兵法」というタイトルは吉田健一さんがつけた訳題でした。

 
PAGE TOP ↑