Sac a vinのひとり言 其の三十四「Les luttes」
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建部 洋平の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
ありのままを受け入れることが最も良い訳がない。
自然はただそこにあり、ただただ流転するものである。人類が勝手にそこから禍も福も見出しているだけである。天然である=正しい、素晴らしいなどと判断するのは、些か手前勝手過ぎると考える。豊かな実りも灼きつける様な酷暑も、芽を潰す遅霜もブドウの実を色付ける太陽の光も全て等しく自然のあり方であり其処には善意も悪意も介在しない。唯々営まれるのみである。
初めてブルゴーニュを訪れた時に、コルトンの丘からムルソーまで車で送ってもらったことがある。一面に広がるブドウ畑。山の頂から裾まで広がるその緑の植物が整列する風景に私は軽い感動を覚え思わず現地に住む運転手に「自然が豊かで素晴らしいですね」とこぼした。
その時、彼がボソリと返した言葉が未だに忘れられない。
「何処が?ブドウ畑しか見えないこの光景の何処が自然?」
ブドウ畑は「畑」である時点で度合いの強弱はあるが、自然を恣意的にデフォルメしたものであり自然の営みに介入したものであるという認識を朧げながら持ち始めたのは、思えばこの時からだったのではないだろうか。
自然から、大地や海から何かを得ようとする行為は戦いである。
自然からの恵みを乞うのみであれば、与えられる我々はその気まぐれに右往左往して唯々超常的なものに縋るのみとなるであろうし、自然から奪うのみであれば、金の卵を産むガチョウの逸話のように未来を失うことになる。其れは歴史を見れば説明の必要は無いだろう。
自然は決して敵ではないが味方でもない。と言うよりも我々人類も天然自然由来のものであり、その一部構成要素でしか無い。例え自然からどれだけ乖離しようとも我々も自然の営みから発生した一個の生物でしか無い。
北原白秋の「待ちぼうけ」の童歌の様に、幸運にも自然からの恵を受け取ることも有るだろう。病害も無く天候にも恵まれてたわわに実った収穫からの順調な発酵、熟成、瓶詰めまでスムーズに終了し、醸造的なトラブルが発生しないという幸運な年もあるだろう。その時は造り手も飲み手もその喜びを分かち合って愉しむべきだが。先ほども述べた様に人間は自然の一部でしか無く、そして営みの主体で有る自然には良いも悪いも無い。有るはずがない。あるがままに存在し流転する。そこには人間の都合など寸毫も入る余地は無い。
我々が勝手に「良い天気」「素晴らしい土地」「悪天候」「不毛の土地」などと言う形容は、飽くまで人間の主観的な判断でしか無く、自然に「こうなって欲しい」「こう有るべき」などと期待するのは愚かで有ると言わざるを得ない。だから、人々を自然の猛威から守る治水事業は常に歴史上の治世者の責務であったし、食料の安定的な獲得の為に耕作や品種改良などで「恵まれない(人間にとっての)」環境に適応してきた。端的に言ってしまえば人類の歴史の大部分は自然との戦いの歴史で有り、地球というフィールドの自然環境の中で、間借りしてその勢力を広げてきた一生物の歴史でしかないと私は考えている。自然が無ければ我々は生きられない。技術の発展によって必要が無くなったとしたら果たしてそれは最早(もはや)生物と呼べるのだろうか?
話が逸れてしまったので本題に戻ろう。
「自然は素晴らしい」「自然のままのものが最も良い」「ありのままを受け入れるべきだ」
こう言った思想は科学の発展に伴うカウンターカルチャーとして、少なくない割合の人間が共有している。そう言った方々は基本的に自然というものは我々に常に様々なものを与えてくれると考えている。だが別に自然が与えてくれている訳ではなく、人間が勝手に人間にとっての美味しいところを掠め取っているだけである。自然の一つの営みの切れっ端でしか無い。然して自然が与えるものはポジティブなものばかりでは無い。世界的な流通の発展によるパンデミックや薬物に耐性をもった新種のウィルスの出現も人間にとっては非常事態で有るが、生態系の多様性の獲得という意味では自然にとってはポジティブな出来事で有ると見ることも可能である。自然を無条件に肯定的に捉えるのは思考の方向性として怠惰でしか無い。
「科学は素晴らしい」「技術の粋を集めて最高の物を」「コントロールすべき」
こう言った科学万能の思考方法もまた同様に危険である。我々も天然由来の生物の一つでしかなく、その「恵み」(敢えてこう記させていただく)無くして我々は“未だ”生きていくことは不可能である。科学が発達したと言っても人類は有人で深海の最深部まで潜る事は実現叶わず、月面にも再度着陸できていない。勿論雨の操作は不可能で堤防やダムでなんとか凌ぎ切っている。人類は自然に勝利などしていないし、また勝利したところでそこに意味などあるのだろうか?
私は正直「ナチュラルワイン」という呼称は好きでは無い。ワインとは自然からの恵みで成り立つものであるが、その恵みは人間の介入の結果でしか無い。介入無くして収穫はあり得ないし自然無くしてはそもそもブドウを得ること自体がままならない。醸造も天然なのか培養なのかの違いはあれどその働きを我々の都合の良い方向に誘導したもので有る。大体にしてワイン用のブドウ品種自体が先達者の方々の自然との戦いの歴史でありその結実である。
ワインという存在自体がナチュラルであり且つアルティザナルな性格を持つもので有る。極端に乱暴な言い方をしてしまえばどんなワインであっても「ナチュラルワイン」で有るし、どんなワインも「ナチュラルワイン」では無い。購買意欲を唆る殺し文句として大変優秀であったことはこの20年のマーケットを見れば一目瞭然で有る。消費者は別に其れでも構わないと思うが、ソムリエで有る我々がナチュラルだから〜ビオディナミだから〜となどとワインに臨むというのは、プロフェッショナルの商材への臨み方としてどうなのだろうか? 捉えるべきは向き合ったワインの品質であり其れ以外の装飾語を多用する事は本質から離れていく行為と言わざるを得ない。平たく言えば「ナチュラルワイン」で有るか否かはワインの性質には影響はあっても品質には全く持って寄与しないという事だ。
今回、私が若干強い主張の文章を記させて頂いたのは、私自身がワインに本格的に傾倒を始めたのが「ナチュラルワイン」とカテゴリーされるワインたちとの出会いからだった。
La Ferme de la Sansonnière,Didier Dagueneau, Philippe Pacalet,Jacques Selosse,etc.
彼らのそのクリアーでピュアでありながら充実したエキス分を持ったワインとの出会いは正に衝撃的であった。しかし、彼らのワインが素晴らしく現在の様に確固たる地位を築いているのは、あくまでその品質に由来するからであり、決して「ナチュラルワイン」で有るからでは無い。自然に畏敬の念を払った彼らの所謂「ナチュラル」な畑と醸造への働きは、彼らの素晴らしいワインの品質を担保する大きな要因で有るが、醸造に関する深い知識、彼ら自身の天稟、経験から来る適切な判断、弛まぬ努力など職人的な無数の要因もまた必要条件で有る筈だ。ナチュラルに作っているから素晴らしいなどと認識するのは余りに失礼であろう。彼らが自然に異形の念を払い、必死に戦ってきた結果で有る。正しくluttes raisonnées、正しき闘いと呼ばれるべきもので有る。(ワイン製法の分類ではなく)
そして現在。巷にはナチュラルワインと呼ばれるものが溢れ、コンビニエンスストアにさえオーガニックワインが並んでいる。しかし其れらをつぶさに眺めてみると玉石混交と言わざるを得ない様な状況である。ワインが天然自然を由来とするもので有る以上、ナチュラルなものに関心が払われる様になった現状は喜ばしい事で有るが、果たしてその内のどれだけがLuttes raisonnéesを行っているのであろうか?
今のワインシーンを眺めると疑問を抱かざるを得ない。
~プロフィール~
建部 洋平(たてべ ようへい)
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー