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Sac a vinのひとり言 其の三十三「免罪符」

 贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)とは、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。免罪符とも、免償符とも、贖宥符とも呼ばれる。

 また、日本においては「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや理由、行為そのものを指すこともある。(Wikipediaより抜粋)

 

 この場で敢えて書き記すことでも無いと思うが、ワインとは芸術品にもなりうるものでもあるし、イコンやアイドル(偶像)とも扱われるものでもある。
 しかし、あらゆるバイアスを取り去って考えると ワインは「農産物」である。農産物である以上、現代社会に於いてワインは商材として取り扱われる。これはいうまでもない事実であり自明の理である。

 そして商材を取り扱う以上、ソムリエは啓蒙家でも芸術家でもない。ワインという農作物を生産者から一時預かり、それを消費者に販売する商人である。

 ワインの魅力を伝える為に、詩的な表現や抽象的な説明になる事は往々にしてあり得る事であるし、別に忌避する類のことでは無いと思う。しかし飽くまで適確に情報を伝える為にそういった表現をするだけであり、美辞麗句や詩のような説明が優れた商材説明の必要条件で有るなどと取り違えてはいけない。正確で過不足の無い説明こそが肝要である。そういった表現は、求められた時にそっと慎ましやかに差し出すべきものである。

 

 何かについて判断するときに重要なのは、判断基準が同一線状にあるのか、ねじれの位置にいるのかをはっきりと把握していることである。

 「革新的」と「古典的」は時系列のベクトルの両端にある為、天秤にかけることは問題なく、また客観的な情報からジャッジを下すことも可能である。ただ暫時変化していく為、客観的かつ相対的な価値とカテゴリーすることも可能である。

 「美味しい」と「美味しく無い」は、明確な判断基準が無く、主観的な基準である。
 裁定するもの自身の基準も一定であることはほぼ不可能。よって、これらは主観的かつ相対的なカテゴリーと認識して差し支えはないと言える。

「売れている」、「流行っている」、「よく見る」、「流行遅れの」。これらは数字などで判断できる為客観的かつ絶対評価のカテゴリー。
 「優れている」、「素晴らしい」、「凡庸な」、「見るべきものの無い」。主観的かつ相対的な評価基準ではあるのだが、評価の絶対数と時系列の進行により、これらはある意味での『絶対的、普遍的』評価の基準となってしまう。
 共通認識の積み重ねとでも言おうか。
 AOCやDOCG、生産者の名声と失墜などを見れば説明の必要はないだろうし、銘醸地に属する組織がイメージアップに腐心しているのを見れば証明の必要は無いであろう。

 

 と、このように何かを判断する際の評価にはそれぞれ違う軸やベクトルが有り、各々独立した価値となっている。しかし、我々はそれらを無意識に同一線上に並べて判断を下すことが頻繁に有り、どれだけの人が其れを認識しているのか甚だ疑問で有る。

 「美味しく無く」て、「見るべきものが無く」ても、「流行っている」ものも有るし、
 「古典的」で「素晴らしい」にも 関わらず「売れていない」ものも有る。

 良く、「こんなにコスパが良くて品質も素晴らしいのに何で売れないんだろう?」という人がいるが、その場合として考えられるのが、その商材に求められるのが「コスパが良い」ことでは無く、「割高」でも「素晴らしい」品質であった場合、ニーズと噛み合わないので売れなくなる、顧客のボリュームゾーンに引っかからなくて「売れていない」パターンなどが考えられる。
 事実、価格を上げたら急に売れるようになった!という例はワインに限らずいくらでも有る。
 プロフェッショナルを名乗る以上、「品質に見合った」価格で「素晴らしい」ものを購入していきたいものだが…。

 厄介なのが、「売れる」「売れない」品質の判断基準は、本質的な意味で言えば寄与される性格のものでは無い。
 しかし、先述した様に販売戦略の成功などにより、「売れる」対象となる商材を経験する者の絶対数が増加する。
 絶対数が増えれば共通認識の共有が行われて、『絶対的、普遍的』評価が形成されていく。其れが自然形成されたものであれば、ある意味では市場における淘汰作用の一つであるので受け入れるべきなのだが、その共通認識の作成が恣意的に行われたもので有る場合、要するに企業などによるマーケティングの結果である場合、それらは作り上げられた『絶対的、普遍的』価値観となる。

 消費者の観点で見れば、其れは何も問題はなく享受して楽しめば良いので有るが、販売者である我々が其れに便乗して利用し、売れれば其れで良いと言うのは些か考えものである。
 もちろん商売である以上「売れる」ものを手配して顧客に販売することは重要であるが、そんな客観的かつ絶対評価だけにおもねり、自身の判断基準も無しに販売を繰り返すのならば我々の存在意義とは何であろう?

 またその逆も問題であると言わざるを得ない。
 商人で有る以上は、顧客に満足して貰わなければビジネスとして成り立たない。自分の好きなものをお客様にも楽しんでもらいたい!
 その気持ちがなければわざわざ自分でビジネスを立ち上げないだろうし、顧客を引きつけるのは難しい。
 ただ、「自分が好きな」という相対的かつ主観的な基準が果たして訴求するものなのか否かは冷静に考えなければならない。

 

 と、ここまで面倒くさいことをつらつらと書き記してきたのは、最近感じている以下のことを述べたかったからで有る。

 多様性は免罪符にあらず。
 目新しさ、斬新さ≠クォリティであるのは、今までの論述を読んでいただけたなら理解していただけると思う。

どのようにオリジナリティに溢れる組み合わせを提案しようとも、そこには品質の保証はない。なぜなら「目新しさ、斬新さ」とは客観的かつ相対的な基準であって、クォリティ=「素晴らしい」、「美味しい」と規定した場合、主観的かつ相対的な基準で有るのだから。

顧客が求めているのは基本的にその主観的な満足度であり、「斬新さ」などの客観的な価値は付加価値でしか無い、と言わざるを得ない。要するに先ずは「美味しい」こその上に「斬新さ」などのフレーバーがあれば顧客は満足するもので有る。       

 もし、「美味しくない」ならば、そう言った付加価値とは一体何であろうか? 

 「斬新」で有るからお客様が喜ぶ、「目新しい」からなかなか理解してもらえない…。

 順序が逆なので有る。プロで有る以上、我々に求められるものはクォリティを保ったサーヴィス(商材)の提供であるべきだ。

 お客様が喜ぶから「目新しい」ものを提供する。「売れる」からクォリティには目を瞑る。

 そう言った姿勢のどこにプロフェッショナリズムと矜恃が有るのだろう。
 多様性を言い訳に、免罪符にしてはならない。多様性は付加価値でしか無い。

 

 確かに商売で有る以上、「売れる」ものを販売しなければならないし、別に其れが悪いと言っているのでは無い。其れを意識してその価値基準をコントロールして自分で消化出来ているのか? ということで有る。
 さもなくば、自己の判断基準を持たずに他者の基準に操作されていくだけになってしまう。
 冷静に、冷徹に。自身の軸をしっかりと見定めなければ、今後の「多様性」に富んだ時代の荒波を乗り切って行けないであろう。
 何故なら自己の無い多様性など他者の価値観による蹂躙でしか無いのだから。

 

~プロフィール~

建部 洋平(たてべ ようへい) 
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー

 
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