エッセイ:Vol.145 「無駄の礼讃、あるいは疑似(シユードー)論理(ロジック)について」
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最終更新日:2019/09/03
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
デシデリウス・エラスムスの『痴愚神礼讃』は、すでに渡辺一夫による名訳が岩波文庫に収められている。が、数年前のこと、すぐれた訳詩集で名高い沓掛良彦による、ラテン語原典からの訳業が中公文庫に収められた。また時をおかずに同氏が編んだエラスムスの評伝も岩波書店から刊行され、エラスムスを敬愛する読書人は思いもよらぬ現代の恩典に浴している。
痴愚の女神が、《世界はいかに痴愚に浴し、まみれているか》を自慢する、というこの反語的で皮肉な『礼讃』は、学生時代からのわが愛読書であった。
この痴愚を、無駄に置き換えてみたらどうだろうか。いわく、無駄の礼讃である。
大東亜戦争末期、「撃ちてし止まん」の大日本帝国では、「贅沢は敵だ」とか「欲しがりません、勝つまでは」、「パーマネントはやめましょう」といった、負け惜しみめいた官製スローガンが庶民生活を圧していた。
だが、戦後の経済成長期をへた日本では、ウサギ小屋でのささやかな一点豪華主義から転じて、「贅沢は素敵だ」となり、欲望賛美の風潮が高まった。がこの勢いは長続きせず、『清貧の思想』がふたたび持てはやされた後、低成長と収入低下が現代の常識と化し、未来のない暗黒の監視社会がいつのまにか実現されている。
いまや、「無駄は敵」という思想が、ふたたび勢いづき、公的に認知されかねないありさまである。「もったいない」があたかも時代の価値観であるかのように、大きな顔をしている。ワインも、ぜいたくと見なされかねず、高級ワインの愛好家はあまり目立たないところで、ひっそりと楽しんでいるのかもしれない。シャンパーニュは、かつて社会思想家ヴェブレンから、「見せびらかしの消費」conspicuous consumptionという破格の扱いを受けていたことを思い出す。シャンパーニュの栓を抜く時の元気な音も控えめになり、現代では無音が上品とされて好まれというふうにさま変わりしている。
こういう風潮に対して、「無駄―結構じゃないか」と反旗をひるがえす者も、片隅にいる。「だって、人生はしょせん無駄じゃないか」というわけ。そういえば、賢人メイナード・ケインズもかつて、「人生に勝者なし。みな、死んでこの世から立ち去るのだから」といったと伝えられる。人生の真実を突く、その言や、佳し。その視点からすれば、転変つきない人生もまた、無駄なのかもしれない。
そう割り切れば、およそ企業間や個人間に横溢する競争さわぎ、所得や名誉、地位や権力、政争などあらゆる価値の争奪戦など、浅ましいかぎりである。