ドイツワイン通信Vol.95
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北嶋 裕の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
私のロングバケーション
早朝、激しく降る雨音で目が覚めた。轟々と滝のような音に包まれて起き上がり、夜風を入れるために開けてあった窓をあわてて閉めた。そしてふとんの上に座り込み、しばらく物思いにふけった。8月も最後の週に入り、一雨ごとに気温が下がり、秋が近づいている。季節は、否、時間は、着実に進んでいる。
昨年8月から22年ぶりに会社勤めを再開して、はや一年が過ぎた。ラシーヌでは各自が適宜夏休みをとるので、一斉休暇はない。私は週末に2日間を続けて4連休取得する。それを短いと感じるのは贅沢かもしれない。一方、ドイツやイタリアの生産者にメールすると、時々自動返信で休暇中の旨返ってくることがある。不在期間の長さはまちまちだが、多くは2週間から一カ月間だ。休暇中であってもメールには目は通しているらしく、本人から返事が来たり、同僚から返信があったりすることもある。そのくらいの長期休暇が普通にとれるヨーロッパの働き方は、やはり羨ましい。
もっとも、ラシーヌで働きはじめるまでは、一年365日が夏休みのようなものだったと言えるかもしれない。2011年9月に留学先のドイツから帰国してから8年間は、フリーのワインライターとして細々と仕事をしていた。時間は比較的潤沢にあったが、締め切りは毎月やってきたし、その直前のプレッシャーは、朝4時すぎに目が覚めて仕事をはじめないではいられないほどだった。
13年間の夏休み
13年間、私はモーゼル河畔の古都トリーアに留学していた。大学の夏休みは長い。6月下旬に授業が終わると、7月から9月までの3カ月間は、まるまる夏休みだった。今から思えば夢のような話である。とはいえ、遊び呆けていたわけではない。博士論文を書き進めて、一節出来上がるたびに教授に提出するのだが、その間隔が空きすぎないように2カ月に一度は、何かしら進捗を報告しなければならなかった。
だから生活パターンは、夏休みに入っても授業期間中とあまり変わらなかった。朝10時には図書館の定位置に席を確保して、昼12時に学食に行き、キャンパスを少し散歩してから午後1時に図書館で作業を再開。午後3時ころにカフェテリアでコーヒー休憩をはさんで作業を続け、午後6時すぎに旧市街で夕食の食材を買った。大聖堂の近くの中央広場の真ん中には六角形をしたカウンターがあり、数日ごとに近郊の生産者が入れ替わり立ち代わり、ワインをグラス売りしている。一日の終わりにそこに立ち寄り、時々隣人やカウンターの中の人と会話するのが日常の楽しみだった。そしてグラスを重ねるほどに、日々のストレスや様々な心配事は遠のいていった。
考えてみれば、13年間の留学期間全体が、私の人生の中の夏休みだったのかもしれない。13年間のロングバケーション。一生分の夏休みを、私はすでに使い切っているのだ。その上にさらに夏休みを欲しいと思うのは、おこがましいと言われても仕方がないか。
夏の愉しみ
一年を通じてあまり変化のない、平穏な日々の中で時々刺激となったのは、夏になると毎週末どこかで開催されるワイン村の夏祭りや、醸造所や醸造所団体が主催する試飲会だった。夏祭りでは醸造所が酒蔵や庭先にテーブルとイスを並べ、臨時の居酒屋を開設することが多い。普段は立ち入ることのできない酒蔵の、ひんやりとした空気に漂う独特の匂い。祭りのあった村から駅まで続くブドウ畑のあぜ道を、心地よいワインの酔いとともに歩いた夕暮れ。祭りにあわせて開催された、生産者の解説つきの試飲イベントが長引き、帰りのバスがなくなって家まで2時間近く歩いた深夜の街道。どれもが懐かしい。
留学中、お金はなかったが時間はあった。贅沢はできなかったが、地元のワインを楽しむには不自由しなかった。ドイツは学費が安く、私がいたころは半年、つまり一学期で5万円しなかったと思う。DAADドイツ学術交流会の奨学金には年齢制限があって、三十路だった私は応募できなかった。だから両親からの仕送りが頼みの綱だった。日本語の非常勤講師や助手、通訳・翻訳の収入も時々入ったが、それは真夏の雪のように、あっという間に消えていった。
ただ、一介のワイン好きの貧乏学生にも、生産者達や醸造所団体は快く門戸を開いてくれた。毎年8月最後の月・火(今は一日増えて日曜日から)に開催される、VDP.ドイツプレディカーツヴァイン生産者連盟のグローセス・ゲヴェクス新酒試飲会も、時々ヴィノテーク誌に寄稿しているというだけで席を用意してくれた。周囲に座っていたのはゴー・ミヨ・ドイツワインガイド編集主幹だったアーミン・ディールやジョエル・ペイン、業界向け専門誌Weinwisserのシュテファン・ラインハルトといったワインジャーナリストや、ブレーメンのラーツケラーのソムリエなど、プロ中のプロ達だった。最初に参加したのは2006年だったと思う。あのころ、ヴィースバーデンのクアハウスにある試飲会場は、後ろの方のテーブルが1列か2列くらい空いていた。グローセス・ゲヴェクスの評価が定着した今では、新たに席を獲得するのは容易ではなく、相当な人数のウエイティングリストに並ばなければならないと聞く。二日間にわたって最上のドイツの辛口と向き合う日々は、私の夏休みのハイライトだった。
ドイツへ続く道の発端
ドイツに住みたいという夢は、21歳で初めてこの国を訪れた時からずっと持ち続けていた。ドイツワインを人生の中心に据えようと思ったのは、新卒で就職した情報機器製造会社に勤めて確か6年目のことだった。そのころ、『新ドイツワイン』の著者、伊藤眞人氏に手紙を書いた。しばらくして返事をいただき、一度会おう、ということになった。赤坂見附の伊藤氏の勤務先だったビルの一室で、何を話したのかは覚えていない。ガイゼンハイム大学に留学したい、ついてはお力添えを、ということを頼んだのかもしれない。ただ、私が「ドイツ語は学部の時に少しやった程度で、日常会話は無理です」と言うと、伊藤氏は「それじゃだめだな。造り手には英語が出来ない人も多いから」と言ったことは鮮明に覚えている。そして別れ際に、出版されたばかりのゴー・ミヨ・ドイツワインガイド1994を手渡してくれた。あの出会いが人生の転機の一つとなった。
それから間もなく、私はいわゆる駅前留学をはじめた。週に何回か横浜駅の近くのビルで、ドイツ人の先生一人に生徒2人くらいで会話の練習をした。そして醸造ではなく、もともと勉強していたヨーロッパ中世史で、ワインをテーマに取り組むことにした(研究内容については本エッセイVol. 69参照http://racines.co.jp/?p=10042)。こうして人生の方向は定まり、両親をはじめ周囲の理解を得て、ドイツ留学へと結実していった。
夏休みの終わり
帰国してから7年目にラシーヌに就職して、長い夏休みが終わった。まとまった休暇のことを考えると、やはり大学に職を得ることを目指すべきだったかと思わないでもない。ただ、文系学部不要論が公然と主張される近年、私よりはるかに優秀で若い歴史学研究者が大勢いることを考えると、現実問題として就職できる可能性は限りなくゼロに近いと思う。たとえ夏休みは長くても、論文執筆のプレッシャーや研究者同士の競争も、おそらく大変なものだろう。
今でもドイツの夏休みをどうしようもないほど切なく、懐かしく思い出す時がある。身動きがとれないほどに押し込まれた通勤電車の中で、苦痛が去るのをじっと耐えている時。書類作成でミスを繰り返して、覚えの悪い五十路の脳の老化を思い知る時。そんな時、脳裏に浮かぶのは、青く澄んで限りなく遠くまで続く、夏のドイツの大きな空である。いつかまた夏休みをとって、私の第二の故郷トリーアでゆっくりと過ごしたい。出来れば1カ月は滞在したいところだが…無理だろうか。
(以上)
北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。
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