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Sac a vinのひとり言 其の三十一「メモリー、容量的な意味で」

とある日
 知り合い 「◯◯ってお店は良かったよー」
 私    「へえ、何が特に良かった? いいペアリングは有った?」
 知り合い 「一杯出てきたからよく覚えてないやー。楽しかったのは覚えてる」

また別の日
 お客様  「最近食べ歩きしていると、頭使うから疲れますよ」
 私    「頭を使う?難解ということですか?」
 お客様  「それもあるけどいろんな食材、調理法、飲み物が出てきて情報が多くて…」

 多皿構成、シェフのお任せ一本、新しい調理法や食材。
 グローバル化に伴い人や物資、情報の循環が四半世紀前では考えられない速度で行われ、それに伴う進化はや変化は、最早1ヶ月先と言えども見通しをつけるのは難しい状況である。料理とワインの世界においても同様で、日々新しい報告や発見が雨後の筍のようにニョキニョキと市場に出現してくる。それらを全て把握するというのは労力的に見ても、効率的に見ても不可能であると言わざるを得ない。ある意味では情報の収集力以上に精査する能力、リテラシーがこれから重要になってくると言えよう。
 話が横道に逸れた。
 そのような状況下において、それぞれの店舗は自身が見つけてきた〝発見″を顧客に提供し、来店の頻度を上げるために随時発掘、吟味してまた別の〝発見″を提供していく。SNSなどの情報共有メディアで即座に発信される今においては他店と同じ、一度使用したなどの所謂ネタ被りはネガティブなイメージが強い。他と被らずに又以前の繰り返しにならない様に… プロフェッショナルとして新たな発見との出会いは喜びであるし、日々行われるアップデートは義務であり矜持である。しかし非常に、いや異常に情報の伝播が高速化した現在において、全くネタ被りしないと言うのは最早至難の業であり、成し遂げたとしても継続していくのは相当な人的、資金的、時間的なリソースを費やさなければならない。そう言ったものを持たざる者は選択を迫られる。
 プロフェッショナルとして〝クオリティ″を選ぶか〝目新しさ″を選ぶか。どちらを選ぶべきかについては経営的な判断やお客様の嗜好傾向、店舗のスタンスなどによって決定されるべきであり、私はその解を提示するつもりは寸毫も無い。

 ここまではサーヴィス業に携わる者であれば日常的に話す内容であり、目新しくもなんとも無い。バランスをうまく取りながら業務に臨むと言うのが現実的なスタンスと言える。みんな何とかして折り合いをつけてお客様の要望に応え続けているのであろうが、ここで最初の会話に立ち戻りたい。 なんとかして見つけ出した〝発見″、ネタ被りしない様日々更新し続けている〝発見″。 しかし、肝心の顧客の反応は「よく覚えていない」「疲れる」などである。
 「よく覚えていない」… お客様に満足してもらえばそれで問題ない。確かにその通りであるし私もそう考えるが、だったらネタ被りなどはあまり影響はないのではないか?
 「疲れる」… リピートしていただく為に随時アップデートを繰り返したとしてもそれが原因で疲れると言うネガティブな感情をひきおこしてしまったら本末転倒では無いか?
 顧客の満足度を上げるための努力が響かない。それ自体は我々の業界では日常茶飯事なのでたいした問題ではないのだが、無駄骨を折るのに時間を費やすほど皆々様は暇ではない。リソースには限りがあるのだから効率的にマネージメントしなければならない。お客様により喜んで頂く為に先述した反応を引き起こす原因を検証していきたい。

 何故、「よく覚えていない」、「疲れる」などの感想を抱かせるに至ったか? 結論から先に述べると「情報の過剰供給」が原因である。
 少し時計の針を戻してみよう。ネットの普及により情報の共有が進むまで、ガストロノミーやワインの世界においては情報を発信するメディアは限られ、供給されるサーヴィスや選択肢は現在ほど多岐多様に渡らなかった。一部の富裕層や同業者を除けばレストランに訪れる事は一大イベントであり、ある意味で観光などと同じ括りであった。ワインも同様である。 そうなると大多数の顧客の目的は¨発見¨ではなく〝確認″で有り、ニーズは現在とはかなり性格の違うものであったと考えられる。パリに観光に行く人の大多数がエッフェル塔を見に行くのと同じと言えばわかりやすいであろうか? レストランやワインに話を戻すと、プライオリティーが〝確認″にあると、必然的に顧客はその店の「スペシャリテ」を楽しみ、ワインであったら格付けやガイドブックで讃えられているものを注文した。
 往時に全く〝発見″が無かったわけではないが、顧客が優先したのは〝確認″、言い換えれば安心感であった。(此処には他者が経験したものを同じ形で履行する形で集団に属する形の所属欲求、他者が未だ履行していないものを先んじる承認欲求なども絡んでいるが、そちらまで議論を広げると収集がつかなくなるので今回は割愛することとする)。
 現代でも、知り合いが皆行ったことがある店に行っていなかった時の不安感、訪問が叶いスペシャリテを摂取した時の安心感を想像してもらえればわかりやすいと思う。〝確認″作業であるならば提供されたものを享受するだけで良く、大体の場合は事前に情報の下地は出来上がっており頭のリソースは割かなくても良いため、理解することに疲れる様な事態は起きづらいと考えられる。わかりやすく言えば、あんまり頭を使わなくても楽しめる。加えてメニューの構成が現在ほど多岐多様に渡らず、構成要素も少ないため「疲れなかった」のである。少ない分覚えやすいので記憶には残りやすいと言うことも付け加えておこう。証左としては、過去の名店を語る時に必ずと言って良いほどそのスペシャリテとそれらに合わせたワインの素晴らしさを語る人々がいる事を頭に浮かべて頂ければ十分だと考える。
 時計の針を現在に戻そう。
 飲食店の数が増えてジャンル的にも価格的にも選択肢が広がり、レストランに訪れるという行為が非日常的な行為から日常の一コマへと変質した。情報の共有の劇的な進歩も相まって情報と価値の消費のスピードが急速に上がってしまった結果、前述した〝確認″と言う作業が一気に陳腐化する事態に陥ることとなり、それに変わる代替案が求められる様になった。 そこから先の流れは古今東西変わらずスノビズムとミーハー的な歓心を満たすためのキャッチーなものサプライズのあるもの、要するに〝発見″のあるものである。此処で言う〝発見″はDiscoveryではなくSurprise 的なニュアンスなものであり必ずしも革新や発展などの属性を内包するものでは無い場合が往々に見受けられる。
 その様な状況が先鋭化していくと、クオリティは提供されるサーヴィスの中での地位が下がり、「どれだけ珍しく人がやっていない事か否か?」 という方法論が最重視される様になり、現代アートの様に説明ありきの表現に陥る事態になりかねない。その結果一皿一皿、ワインの一杯に関しての説明が以前とは比較にならないほど膨大になり、前述した様に料理の皿数は増えてワインも追従した。その結果、顧客があまりの情報過多に「よく覚えていない」し「疲れる」 のである。

 私は決して現在の飲食店のクオリティが下がったとは捉えていないし、様々なスタイルの店舗が増えた事による多様化はむしろ歓迎している。ただこの様な現在の状況と進化は果たして顧客に寄り添ったものなのか? メディアとしては色々取り上げる情報量が多い、ネタが多い事に越したことはないと思うのだが、群体としての人間というものの性能が高々数十年で劇的に躍進するわけもなく、正直なところ大多数の人々が現在の変化に対応しきれていないパンク状態、メモリー不足になっているのではないかと私は推測する。プロフェッショナルとしては現在の状況の観察は非常に興味深く、様々な現場に立つことの多い私としては有用なデータが日々蓄積されていっているのを日々実感している。実際どの様に対処しているかについては、又日を改めて語らせていただこう。

 

~プロフィール~

建部 洋平(たてべ ようへい) 
北海道出身で1983年生まれ。調理士の専門教育をへて、国内で各種料理に携わる。
ブルゴーニュで調理師の研修中、ワインに魅せられてソムリエに転身。
ボーヌのソムリエコース(BP)を2010年に修了、パリ6区の「Relais Louis XIII」にて
シェフ・ソムリエを勤める。現在フリー

 
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