エッセイ:Vol.144 「ワインは芸術品か?」 “IS WINE ART?”
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定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
久しぶりに、ワイン雑誌を手にとってみた。“The World of Fine Wine”、略称『ファイン・ワイン』である―といっても、わたしが仮に付けただけの略称だから、通用しないかもしれないが、編集陣自身では“WFW”と呼んでいることは、編集同人らの文章からして確かであろう。いずれにしろ、唯一、わたしが定期購読し、偏愛している海外出版物である(ついでに言えば、邦語雑誌では、『FACTA』だけが、わが定期購読の対象であるが、そんなことはどうでもよい)。
が、本誌とて必ずしも愛読しているわけではなく、ツンドク(というよりTSUNNDOKU、いまや英語になった!)の大家たるもの、通読などしたことも考えたこともない。それにしても(というのは変な繋辞だけれど)現在のイギリスを中心とした世界の実力ある書き手や、名だたるワインライターが参加する、ぜいたくな執筆者の陣容と書きっぷりからして、その水準の高さと質が、ほぼ(ほぼではなく)推して知ることができるのだ。
最近郵送されてきたその最新号(Issue 64 2019)のp.100/101を開いて、思わず笑いが浮かんだ。出会ったのはwたしにとって懐かしい、一枚の落ち着いた色調の画で、肖像画家ジェームズ・ガンの作とわかる。懐かしいゆえんは、学生時代に読んだチェスタトンの評伝(未訳)に、その絵の白黒写真が載せてあったからだ。
さて、その肖像画には、一見しただけで一筋縄ではゆかない頑固そうな三人組の紳士がつどい、小さなテーブルを囲む。堂々たる体躯をしたかのチェスタトンが左側に座り、ペーパーシート(たぶん、クラブの備え付け品)に書きつけているGKの文章を、二人の仲間がともに考えながら眺めている。画題は「カンヴァーセーション・ピース」だが、家族の肖像ではなくて、親しい間柄の文人三名が、じつはバラッドでもこしらえている風情である。男友達とは、20世紀の前半をある意味で代表するイギリスの奇人文士3人組―G.K.チェスタトン、ヒレア・ベロック、モーリス・ベアリングーで、クラブ(たぶん、セインツベリー・クラブ)の片隅をしめて、バラッドとおぼしきものをでもひねり出している。なにしろこの三人組、いずれ劣らぬバラッドの名手なのだから。
この親近感がある一文は、シェリーの大家ジュリアン・ジェフが寄せたエッセイで、タイトルは“The Three Balladeers”(三人のバラッド作者)。むろんのことジュリアンは、ベロックがダフ・クーパー(『タレイラン伝』の著者・外交官)に寄せた『ヒロイック詩体によるワイン讃歌』の一節をあげることを忘れない。なお、この作ベロックにはブルゴーニュワインを論じた古典があるが、博学な文芸評論家・篠田一士による紹介『世界文学「食」紀行』があることを、付け加えておこう。
いまは「ワインライター・サークル」の議長を務める長老ジュリアン・ジェフの一文を斜め読みしながら、かつてシリル・レイが編んだ贅沢な12巻本のワイン・エッセイ・シリーズ“The Compleat Imbiber”を思い出したしだい。
だが、今回触れたかったのは、「ワインは芸術作品か?」“IS WINE ART?”という、エリン・マッコイ女史のエッセイである。タイトルと狙いどころは良いがこのエッセイ、ワインが芸術作品であるかを論じるには作者が力不足である。というのは、芸術とは何かという定見がこのエッセイストにはなくて、哲学少々と、ワインライター諸氏の相反する説を引用するにとどまっているから、見ていて可哀そうになるくらい。自分の腕で料理できる事柄を選び、余裕をもってエッセイに取り組むくらいでないと、奥行きと興趣のある文章にはならないのだ。
それを裏打ちするようなエッセイが、ヒュー・ジョンソンによる“IF WINE IS AN ART, IT’S GOING TO CHANGE“(ワインが芸術ならば、自己変革の道をとるべし)で、ワイン造りの革命と進化を、斜に構えながら、短い文章ではあるが、例の名文でもって要点を論じはじめる。
その冒頭でヒューは、「ワイン造りが芸術であるとしたら、芸術家はだれか?」といきなり設問する。芸術家=造り手とは、グランクリュを擁護する古典的な伝統主義者なのか、それとも、芸術とは破壊力であると(岡本太郎風に)定義し、芸術をもって世界の再考を迫ろうとする、ワインメーカーであるのか、と迫る。
「なにによらずビオ」とか、復古的な方法やオレンジワイン、古代の容器などを良しとするといった類の当今の風潮は、まさしくこういう設問の妥当であることを示す、とヒューは自画自賛する。各世代が自分の時代向きに世界を再発明するのならば、ワインの長い歴史の中に革命がもっとあってもよいはずではないか、とするヒューは、ビオ/オレンジワイン一派の「ワイン革命」に皮肉を飛ばす。世代的な変化がこの程度におさまり、伝統が教育に置き換わるくらいならば、それは革命ではなくて進化どまりではないのか、と。
新世界―アメリカや、オーストラリア/NZなどでみられた発見や創意こそ、別の種類の革命であって、旧世界における新思考など、新世界の反映にも等しいは、ゲーム・チェンジにすぎない。
ここで絵画界の比喩を持ち出すヒューは、サロン展を否定した印象派や、具象派を追った抽象派による芸術革命の意義が、当今のワイン革命騒ぎにはあるのか、と問いつめる。でもまあ、ワインが必要な我々すべてにとって、しょせんワインは飲食品にすぎないからね、とヒューは冗談交じりに言って矛を収める。
ここらへんでヒューの論理展開はややエネルギー不足になり、オレンジワインのかわりにオレンジ製の発酵酒をもちだしてからかうというしまつだから、以後の議論の筋をたどるのはやめよう。
その締めは、出発点にもどって、「たぶんワイン造りは、たんなる技術(あるいは民衆芸術、クラフト)どまりであって、芸術家(アーティスト)がそれを芸術作品(アート)にするのを待ち望んでいるのだ」という結論。これは大山鳴動、鼠一匹にひとしいのではないか。第二のヒュー・ジョンソン、現れよという時代の声が聞こえなくもない。(了)