ドイツワイン通信Vol.93
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北嶋 裕の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
持つ者と持たざる者
今年の夏至は6月22日だった。一年で一番昼の長い日である。年末の冬至の頃、これから少しずつ明るくなっていく世界に思いを馳せた。その明るさがまさに今頂点に達している。
ドイツのモーゼルでは先週末、「ミトス・モーゼル」と称するワインイベントが開催された(http://www.mythos-mosel.de/)。モーゼル川中流域に位置する30の醸造所が訪問者に門戸を開き、それぞれモーゼルの外の地区からゲスト生産者を迎え、あわせて120の生産者がユルツィヒからブリーデルまでの約20kmの村々に集結したという。
今年で5回目を迎えたミトス・モーゼルは毎年精霊降誕祭の次の週末に開催される。「ミトス」Mythosの語は一般に神話と訳されるが、本来は口頭による「語り」を意味する。おそらく、ローマ時代から約2000年にわたって連綿と続く、ブドウ栽培とワイン造りの伝統を想起させることを狙ってのネーミングだろう。そして精霊降誕祭はイエス・キリストが十字架に掛けられ、三日後に復活した日曜日から数えて49日後の日曜日にあたる。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は精霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2.1-4)。
ミトス・モーゼルには資格などの制限はなく、入場券(二日通しで55Euro)を購入すればだれでも試飲と対話に参加できる。世界各地から訪れた人々は、急斜面のブドウ畑に囲まれて生産者と語り、精霊ならぬモーゼルワインに満たされて故郷へと戻り、体験を語るのだろう。私も来年あたり、休暇をとって出かけようかと考えている。
・ファン・フォルクセンの新醸造施設の落成
夏至を過ぎて間もない7月6日(土)には、ファン・フォルクセン醸造所の新施設落成パーティが盛大に開催される。世界各国から1300名のゲストを迎え、有名レストランのシェフ達が料理に腕を振るうそうだ。夜11時過ぎまで陽の光が残る初夏の宵のひとときは、幸運な参加者たちにとって忘れがたい思い出となるに違いない。
1999年末に現オーナーのローマン・ニエヴォドニツァンスキーが、19世紀から続く醸造所と葡萄畑を購入してはや20年になる。この20年間に一介のワイン好きの若者だったローマンが、破産して売りに出ていた醸造所をザールはもとよりドイツを代表する醸造所の一つにまで復興させたことは、掛け値なしに瞠目に値する。
彼が醸造所を購入する前年の1998年は、供給過剰で樽売り価格がリットルあたり数十円の安値となり、生産者達の間には悲観的な空気が蔓延していた。醸造学校に通ったこともないローマンがワイン造りを始めたと聞いた地元の人々の、だれもが彼の失敗を確信していたと言っても過言ではない。「醸造所の経営は、あんな金持ちのドラ息子でも出来るような甘いものではない、いまに吠え面かいて実家の有名ビール会社に泣きつくに決まっているさ」「息子の道楽につきあって大金を出す親も親だ」と、さんざんな言われようだった。
その評判は当然ローマンの耳にも入っていただろうが一切気にせず、ザールのグラン・クリュの真価を確信して収量を抑えて完熟を待ち、添加物を一切用いずに野生酵母で醸造したワイン造りを行った。それは100年前に世界的な名声を誇った、ザールのリースリングの伝統的な手法に立ち返ることだった。
最初の3年くらいは「あの若造が倒産せずに続けていられるのは裕福な実家のせいだ」という陰口も聞かれたが、やがて鳴りを潜めた。イタリアやアメリカで専門誌に取り上げられると、今度はドイツ国内でも評判になった。毎年8月最後の週末に開催される新酒試飲会は招待状が必要になり(たとえ招待状が無くても入場料を払えば入ることは出来る。確か35Euroだったと思う。やや高額なのは通りすがりの観光客にはご遠慮願うためで、醸造所まで足を運んだ愛好家を無碍に追い返したりはしない)、トップクラスの生産者だけが加盟を許されるVDP.ドイツプレディカーツヴァイン醸造所連盟にも戻ることが出来た。
現在、ザールはもとよりドイツ各地で若手醸造家達が活躍し、1999年当時とは打って変わって楽観的な空気が広がっている。ドイツワインのルネッサンスにも例えられている現在のような状況に至るには、ローマンが20年間にわたり絶え間なく続けてきたエネルギッシュな活動が貢献していることは間違いない。
去る4月下旬にファン・フォルクセン醸造所を訪れた際も、彼は相変わらず快活で若々しかった。私と同じように20歳年を取ったはずなのだが、齢50を過ぎて人生に疲れを感じている私とは対照的に、10歳あまり年下のローマンは一分一秒を惜しんで走り回り、情熱的に早口で語り、時にユーモラスで、相変わらず親切だった。ただ、目元から頬にかけて刻まれた深い皺が、これまでの道のりが決して安楽なものではなかったことを物語っていた。例えば2015年頃から取り組んでいる、忘れられた銘醸畑オックフェナー・ガイスベルクの復興プロジェクトでも、50人以上の地権者達一人一人と根気よく交渉を続け、ようやく植樹にこぎつけた。そして間もなく落成を迎える新醸造施設建設という一大プロジェクトの采配もまた、用地の選定・買収や資金調達など相当な労力を必要としたはずだ。
ザール川を見下ろす斜面の上に聳える新しい醸造施設の完成は、ファン・フォルクセンの歴史の新たな章の始まりとなるだろう。ローマンとザール、ひいてはドイツワインの未来に期待したい。
・バーデンの持たざる者
一方、ファン・フォルクセンの次に訪れたバーデンのエンデルレ・ウント・モル醸造所は、ローマンと彼のチームが成し遂げた急速な成長とは対照的に、設備投資の必要に迫られながらも思うにまかせずにいた。
アルザスのシュトラースブルクの南東約60km、シュヴァルツヴァルトの山裾にあるミュンヒヴァイアーのブドウ畑約0.6haと農機具置き場だった倉庫で、スヴェン・エンデルレとフロリアン・モルの二人はワイン造りを始めた。2007年のことだ。
現在約5haのブドウ畑でピノ・ノワール、ヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダー、オクセロワ、ミュラー・トゥルガウを栽培している。ワインの評価はドイツ国内はもとより北米をはじめとする輸出先40カ国でも高く、顧客への割り当てで全量売り切れていて、発注しても希望する本数通りに買えることはほぼないと言ってよい(エンデルレ・ウント・モルについての参考情報:https://www.wineterroirs.com/2013/09/enderle_moll_munchweier_baden-wurttemberg.html)。
だが、その醸造施設はとても質素だ。「昔はブルゴーニュのデュジャックから古樽を買うことが出来たのだが、近年は南仏に設立した醸造所にまわすようになって手に入らなくなってしまった。今は樽はまともに使えさえすればよく、出所はえり好みしていない。色々なメーカーの古樽を使っている」と、醸造を担当するスヴェンは言う。ファン・フォルクセンが自家所有する森から切り出した木材を、オーストリア随一の樽生産者ストッキンガー社に委託して製造させているのとは相当な違いだ。
設立から3年目の2010年には早くも手狭になり、車で5分ほどの山の中にもう一つ倉庫を借りてそちらでも発酵と熟成を行っているのだが、「二つの倉庫を行ったり来たりしながらの作業は非効率的だし、必要な機材をうっかり忘れて別の倉庫に取りに戻ったりするたびに、一つの醸造施設で全部をこなせたらどんなに楽なことだろうと思わずにはいられない」と、スヴェンはため息をついた。さらにどちらの倉庫も湿度の低い地上にあり、樽からの蒸発量が地下セラーに比べると大きく、その損失もばかにならないという。親から醸造所を継いだ友人たちが立派な醸造施設でワインを造っているのを見るたびに、やはり継ぐものがあるのとないのとでは相当に違うのだと思い知らされるそうだ。
跡継ぎがいなくて廃業した醸造所が近郊にありそうなものだが、バーデンは醸造協同組合にブドウを納めて醸造はしない農家が多く、これは、という物件は滅多に出ないという。そしてスヴェンは、生まれ故郷のミュンヒヴァイアー以外に醸造所を建てるつもりは全くない。そもそもワイン造りを始めた動機は、幼いころからの遊び場だった故郷のブドウ畑の中に、放置されて荒れるに任される区画が広がりつつあったことに耐えられなかったからだという。
醸造所を立ち上げる2年前の2005年、ブルゴーニュでの研修を終えたスヴェンはミュンヒヴァイアーの醸造協同組合の責任者に就任するはずだった。そしてバーデン最大の醸造協同組合にブドウを納めるのを止めて高品質なワインを醸造し、ミュンヒヴァイアーを優れたワイン産地としてアピールしてブドウ畑の再興を促そうという情熱に燃えていた。だが、結局それは実現しなかった。ブドウの納入量が減ることを嫌った大手醸造協同組合が、人選に圧力をかけたのかもしれないとスヴェンは推測している。
「醸造所を立ち上げる時なら、銀行も資金を提供してくれたかもしれない。返済に追われて苦労することになったかもしれないけれど、最初からちゃんと設備投資をしていれば、今これほど苦労しなくても済んだのではないかと思うことがある。でも今はもう遅い。俺たちには担保にできるものがないんだ。それにこの外見だろ」と、スヴェンはヒッピーかメルヒェンに出てくる魔法使いのように長く伸びた髭をしごいて笑った。「それにフロリアンは今50歳、俺は40歳になる。俺はまだ借金を背負ってでもなんとかしたいと思っているが、相棒は今のままでいい、十分うまくやっていると思う、と言うんだ」。
私には私と同世代のフロリアンの気持ちがなんとなくわかった。一方で10年前、40代だったころの自分なら、たぶんスヴェンと同じことを考えただろう。若さとは、未来への希望と勇気なのだ。
後日帰国してからこのことを話すと、「私たちを含む世界中の顧客であるインポーターが、今後長期間にわたってワインを購入します、という手紙を銀行あてに書いて保証人になればばどうかしら」と、合田さんは言った。そのことを伝えると、感謝の言葉とともに今後もしかしたらお願いするかもしれない、というメッセージがフロリアンからあった。
今の粗末と言ってもいい環境でもバーデンで最上のピノ・ノワールの一つと言えるワインが出来るなら、設備の整った醸造施設を得ることが出来れば、一体どれほど素晴らしいワインが出来ることだろう。コルクに「痛みなくして得るものなしRien sans peine」とフランス語のモットーを焼き印している、彼らの努力が報われる日がくることを祈っている。
(以上)
北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。