エッセイ:Vol.143 ワインの可能性と現実 ―その落差を埋めるには?―
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ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
はじめに―ワインへの想い
ワインを、いっさいの固定観念や思い込み、作為や幻想から解放し、ありのままの姿で見たい。
ワインに潜むさまざまな可能性を妨げている阻害要因を突きとめ、可能なかぎり取り除きたい。
ワインの品質と味わいを妨げることがない環境があれば、ワインの持ち味は自ずと発揮されるはず。
だが、ワインが飲用試飲に供される空間はまた、人間の感じ方とワインの味わいを左右する。
とすれば、ワインと人間の双方にとって、好ましく快適な状況を設けることが必要にして不可欠。
そういう二重の好適な状況を作りだすことは可能であり、その方法を「環境設定」と呼びたい。
環境設定をするための具体的な手法については、かつて詳説したので、ここに繰り返さない。
品質が高くてコンディションが良い、自然体のワインを、私たちも自然体でもって味わいたい。
ワインの可能性が全容を現し、内なる魅力が輝き出せば、あでやかなヴィーナス誕生となる。
整理の視点、いくつか
そこで、以上に見たワインとその置かれた状況、問題と解法の視点を、散文的に述べなおそう。
[テーゼ1]
すぐれたワインは、――その品質と構造が、まちがった輸送や不適切な保管方法などによって、致命的に破壊されていないかぎり――本来、ボトルのなかにゆたかな味わいを可能性として秘めている。
[テーゼ2]
ワインに本来そなわっている味わいの要素は、通常のばあい、ボトルからグラスに注がれた液体の中に出そろってはいないから、ワインのもつ可能性の全容を味わい尽くすことはできない。
[中間テーゼ:ヘーゲル的変奏]
ボトルの中でワインは《可能性》の姿をしているが、グラス内に注がれたワインは、可能性の一部を体現しているにすぎない。ヘーゲル流に言えば、「ボトル内でのワインは本質をたたえている可能態であるが、グラス内のワインは現象態である。」
[テーゼ3]
ワインと人間は、ワインを飲用する場面において、おなじ空間と時間という物理的な制約条件を共有している。
る。
[テーゼ4]
あらゆる状況や制約条件は、固定したものではなく、修正変更が可能であるとみなすべきである。
[テーゼ5]
ワインの持つ可能性を損なわないことは、インポーターに与えられた使命または目標である。
[テーゼ6]
現実に存在する問題はすべて応用問題であり、ワインにかかわる事象もまた応用問題である。
コメント,無くもがなの
テーゼ1と2とのあいだには大きな落差がある。なぜだろうか?実際に飲まれるワインは、
a) 現実にはつねに時間と空間という、特定の物理的な制約条件のなかに置かれており、ワインの味わいもまた、おなじ物理的な制約条件の影響下におかれている。(テーゼ3)
なお、ここでワインが現実に置かれている条件や状況をワインの環境と呼び、環境条件を整えることを環境設定と呼ぼう。
b) また、ワインを入れる容器のヴァリエーション―素材や形状、サイズや重量、審美性とともに、容器への注ぎ方/持ち方/飲み方といったもろもろの手続き“procedure”も、味わいと無関係ではない。
だからしてグラス内のワインは、ワインが有するさまざまな可能性のなかの、ごく一部分を――正しく、または、歪めて――体現しているにすぎないし、味わいとは人間の感覚受容器に受け止められた一側面の反応にすぎない。
いずれにせよ、現実にグラスのなかに移され、目の前に置かれたワインの味わいは、すくなくともワインの持つ可能性の一部あるいは局面が、受け止められて表現されたものである。だから、グラスに注がれたワインを飲んだだけで、「この造り手の、このキュヴェは、こういう味わいがする」と、早とちりすることは、禁物である。
「ここで出された、このグラスに注がれたこのワインは、いまのわたしには、こういう味がするし、時間とともにこう変わっていく」というふうに、つねに個別状況をふまえた認識と判断をすることが、ワインテイスターの心構えでなくてはならない。
が、さてワインは、音楽とおなじように、その味わいや悦びは感覚の世界に属する。だから感覚的な反応を、言葉という次元の違う別世界の知的な言語記号に移そうとしたら、主観的な認識尺度を用いて、意識的に再構成する、という翻訳作業をしなければならない。
なお、ワインの持つ可能性を損なわないことが、インポーターの使命であること[テーゼ5]は、いまさら言うまでもなく、いくら強調しても強調しすぎることはない。けれども、言葉と行動とは別の世界に属すから、それを一致させ、言葉に現実を近づける限りない努力をしないとすれば、口先インポーターと呼ばれても仕方がない。
「品質の維持管理に努めています」というのと、それを実行し実現することとは別である。とすれば問題は、言葉と現実とのあいだに差あるいは距離がないかどうか。差があることを前提としなければ、言葉が虚像を形づくり、結果的に幻想がそのまま最終消費者のあいだに定着しかねない。
なお、世界に広がって存在するワイン生産者も、事情通のワインライター/ブロギストたちも、日本語に不案内ならば、この国のワイン界に流通している怪しげな言説に気づかず、訂正することもかなわない。
けれども、実際にそのはずのワインを試飲してみれば、味わいが歪んで無残に破壊され、もともとそなえられていた可能性がゆがむどころか、見当たらないというケースが少なからずあることは、現地で経験を積んだテイスターならば身にしみてわかっているはずである。
とかくワイン評論家は、言葉でもって現実を言いつくろって美化し、あるいは現状を自分を含めた誰かに都合のよいように解釈整理して歪めるが、責任だけはとろうとしない。が、いくら言葉を(認識概念としてではなく)操作概念や操作手段として使おうと、言葉だけで世界は変わるものではない。言葉をバカにして使う者は、言葉と現実世界からバカにされ、言葉の中で埋もれ死ぬしかあるまい。
[参考]
ワインの認識法としての“situational thinking”について
《個別の状況と環境のなかでワインの味わいは大きく変るが、逆に環境そのものの最適化を図ることによって、ワインの持ち味をいっそう発揮させることができる》といった環境設定の手法は、大げさに言えば、“situational thinking”(状況的思考)の産物である。が、この思考法は、丸山眞男さんと永井陽之助さんから学んで、ワインの世界に応用したにすぎない。
そこで、丸山さんの考え方を、『文明論之概略を読む』から見てみよう。福沢諭吉こそ状況的思考のチャンピオンであるとされる。が、福沢の丸山的解釈によれば、機会主義オポチュニズムの対極にあるとされる状況的思考こそ、近代日本に最も欠けていた思考様式であり、状況を離れて価値決定はなしえないとされる。
本来の状況的思考とは、出来事やものごとを、利害関係や出来合いの説明軸などから離れて、時代と場所という状況の中で、状況の意味あいを考えることをつうじて、大義実現の可能性を探るような思考と行動様式らしい。とすれば、うっかりワインについて、うかつには使うわけにはいかない。
そういえばワインについて、わたしは本から学んだことはあっても誰かから教わったという記憶がなく、ワインはつねに応用問題であるというのが、大げさに言えばわたしがワインという対象に向かうときの構えアティチュードである。
《応用問題を組み合わせたように入り組んでいる現実世界は、上手な解かれ方を待っている》といった方がよりスマートかもしれない。まあ、ゴルディアスの結び目を一刀両断するのは、アレクサンドロス大王のやり方かもしれないが、常人のほぐし方や解き方ではあるまい。世界の中から興味深い具体的な問題を取りだし、手探りで解法を編み出そうと思案するのは、塩豆を噛みながらフェイクまみれの世相を談じるのはともかく、ワインを片手に幻想にふけったり大声で喚きあったりするより、無害かつ有益かもしれない。ワイン界は欲にまみれ、悪臭を放つ気配なきにしも非ずだが、あちこちに感心な志の兆しが見え隠れするワンダーランドでもあるから、誰しも諦めるのはまだ早い。
ワインと自分たち人間の可能性を信じつつ、独り、あるいは同志とともに荒野を歩む気概をもちたいものである。
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