『ラシーヌ便り』no. 159 「ヴァンナチュールの先駆者で守護神、勝山晋作さんの想い出」
公開日:
:
最終更新日:2019/03/01
定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー
1月4日、勝山晋作さんが、亡くなられました。「悲しい、辛い 」という実感はないのに、全身の重い日が続き、すぐに涙がこぼれてしまいます。勝山さんは、これからも私のワイン人生の中に生き続けると感じています。
ヴァンナチュールの先駆者で守護神、勝山晋作さんの想い出
昨年12月13日の夜明け、夢を見ました。
「よっ! 元気?」と、懐かしい声。見渡せば、祥瑞のカウンターでワインを楽しんでいる、勝山さんの姿が。秘かに病を伝えられていた同志、勝山さんからの呼びかけなので、思わず大きな声で「嬉しい、勝山さん!」って応えました。
同い年の縁もあり、昨年4月に私の誕生日を祝っていただいたのが、最後になりました。久しぶりにお話しできるのが嬉しく、私は自分のことばかり話していました。あのとき勝山さんは、きっといろいろなことを話しておきたかったのだと、今になって悔やまれます。
勝山さんに初めてお目にかかったのは、1991年。ナショナル麻布スーパーを退職された後任されていた、大橋企画の事務所のある代々木上原を訪ねました。アルマセニスタ・シェリーの営業にいったのですが、マルセル・ラピエールを輸入したことを初めて伺いました。その後、勝山さんはインポーターの仕事からは手を引かれましたが、間違いなく日本のヴァンナチュール(以下、VNと略)の第一歩は、勝山さんからでした。ついに1993年、後にVNの始祖でメッカとなるビストロ/ワインバー祥瑞が誕生。96、7年あたりから3~4社のインポーターによるVNの本格的輸入が始まりました。
「イヤー、合田さん、いいの入れたねー」って、いつも試飲会で励ましてくださいました。ル・テロワール、ついでラシーヌを立ち上げてからも、勝山さんの姿勢はかわらず、ジョージアものを仕入れたときなど、「待たないとなー」とうなずきながら、じっくり付き合ってくださいました。
むろんVN以外のワインにも造詣が深く、「こういう凄さがわからないとね。レヴェルが違うなー」と、目に見えない努力を認めていただきました。
VNが話題を呼びはじめてから勝山さんはあたかも伝道師然、毎月のようにさまざまな雑誌に登場し、例の独特な調子―勝山ブシ―でうなるように、その魅力を縦横に語りました。祥瑞でも、祥瑞以外の新しくオープンしていくお店でも、若い料理人やワイン愛好家のあいだにパッションを吹き込みながら、VNを広めていきました。手探りで歩き始めた私たちインポーターに、勇気を与え続けてくれたのです。
VNが根づくまでのいちばん困難な時期、勝山さんが先頭に立って、人一倍手間がかかるVNの生産者・インポーター・酒販店・ワインバーの苦労を理解し、応援してくださいました。おかげで、世界に先立って日本のVNマーケットが確立し、私たちは仕入れを続け、生産者も日本市場を当てにしながらワイン造りを続けられる、勇気を与えられてきました。日本は、世界にも例がないVN大国に育ち上がったのです。
2001年、すでにVNは日本で大きなうねりになっていました。ある対談で、《ル・クロ・デュ・チュ=ブッフ》シュヴェルニ・ルージュ ラ・グラヴォット1999を飲んで思わず出た言葉が「これっ、下町のロマネ・コンティだね! ウマイよー!」 以後「下町のロマネ・コンティ」という言葉は大ヒット、多くの人をVNに惹きつける標語になりました。勝山さんを囲む、若い世代を含めたワインバーの方々との勉強会が、やがてインポーターを巻きこんだFestivinへと発展していった経緯は、みなさまご存じのとおりです。
つい先日、ロワールに行って樽試飲する際、勝山さんが近くにおられるように感じました。
本当にありがとうございました。勝山晋作さん、どうぞ安らかにおやすみください。
「君の知らせてくれたニュースはとっても悲しい出来事だ。君も知っているように、我々は勝山さんのことを、ビオワインのパイオニアとして評価している。彼の見聞、開かれたこころ、能力、いたずらっ子のように絶えることの無い笑顔、音楽への情熱。彼の全てが我々には嬉しく、友人や一緒に働く者たちのよき模範であった。彼が4年前にくれた特別な剪定ばさみを、僕は今でもつかっているよ。全然壊れる気配がない。我々が勝山さんのイメージとして抱いているファイン・ビオワインのサムライのようだ。心より Mark Angeli」