エッセイ:Vol.140 大坊勝次さんからコーヒーを学ぶ
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最終更新日:2019/03/01
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
コーヒーとワインには、共通点がある。まず、樹木から採れる果実が原料であること。次は、かたやタネを用い、かたや果肉を用いるという違いはあるが、淹れ方や造り方しだいで、美味しくもなればまずくもなるという、最終製品の品質が人間の腕前にかかっていること。そして最後は、むろん上出来の場合だが、その液体が放つ妖しい魅力が、飲み手を捉えて離さなくなるという、強い固着性(こだわり)と習慣性があること。
だから、つい最近も『Coffee and Wine: Two Worlds Compared』(Morten Scholer著、未訳)という書物が登場したりするわけなのだ。その波に乗ったわけではないが、私もまた、この二種類の液体に魅せられたあげく、ジョージ・オーウェルに倣って、「一杯のおいしいコーヒーの淹れ方」なる雑文を書いてしまった。ただ、私は学生時代から大のコーヒー党ではあったものの、コーヒーについてまだ経験が浅く、ほぼ毎日のようにドリップ式で淹れるようになったのは、ワインの商いに就いてからだから、たった20年余りに過ぎない。まして、コーヒーミルで豆を挽きだしてからは、まだ一年にも満たない、というありさまなのである。
ドリッパーは(ネルが好ましいことはわかっているのに、手間を惜しんで)円錐型プラスティックでごまかし、焙煎も(上手な焙煎家から分けてもらっているとはいえ)出来合いを求めるという段階だから、大きなことは言えない。したがって、先人の歩んできた道を、遅まきながら拳々服膺しながら、ステップアップにこれ努めているという次第。参考になるのは、名人たちの実践談だ。
私にとってその筆頭にくるのは、『大坊珈琲店』(誠文堂新光社、2014)。著者は、「南青山に、38年間自家焙煎とネルドリップというスタイルを変えずに、コーヒーを作りつづけた喫茶店『大坊珈琲店』があった」(同書、帯より引用)という、いまや過去形でしか言えないお店を営んできた大坊勝次さん。お店の静謐な雰囲気と、趣味の良いジャズをLPレコードで流しつづけてきた振る舞いは、写真からも十分にうかがうことができる。また、大坊さんの口調は、『コーヒーの人』(フィルムアート社、2015)から、聞こえてくる。
前著で、大坊さんはうれしいことに、コーヒーのもつ味の表情について触れている。すなわち、「味の表情ということは最も大切なことで、明るい表情や暗い表情は勿論、軽い味、重い味、笑顔、粘着質やすっきり感、静かさ、気品のあるきれいな味‥‥等々、多彩です。」とさりげなく書かれているではないか。ワインの表情について書きあぐね、ダーウィンの『人及び動物の表情について』などをまさぐっていた私にとって、この表現のしかたはまさしく同好の士によるものであると言っても、過言ではない。大坊さんはまた、活け花についても「だんだん小さくなっていく時、その時々の表情は、一瞬であるがゆえに尊いもののように見えます」と述べ、大坊さんにとってコーヒーと花が浮かべる表情はキーワードであることがわかる。
だが今回、私が注目したいのは、大坊さんがコーヒー豆の選び方にひと手間をかけていたこと。『コーヒーの人』によると、午前9時に開店した大坊珈琲店では、朝7時からまず12時までは焙煎をし、午後はハンドピック、つまり焙煎した豆の選別をしたあと、テイスティングに移る。テイスティングした結果により、その日のうちにブレンドをしてしまう。これらの一連の作業を、営業の傍らおこなっていたから、多忙な店主は客とゆっくり話すというような時間はなかったとのこと。ここで注目すべきは、どうやら氏は、丹念にハンドピックをしていたらしいのだ。
ちなみに、自家焙煎かつネルドリップ式を採用している福岡のコーヒー店「花咲」では、数粒の「不良品」を外してはコーヒーミルに入れ、いわばコーヒー粉でミル内の通路をワインのように「リンス」している。
そこで思いついたのは、このハンドピックを丹念にすれば、澄んだ味わいと香りが満喫できるのではないか、ということ。思いついたら即実行、が私の主義だから、さっそく試みることにした。さて、ここでO-リング・テストの出番となる。この方式で焙煎した豆を厳密に一粒ごとにチェックし、合格した豆だけをドリップに使おうという段取りである。なんということはない、特別なワインのボトリング用に、完璧なコルクを選ぶのと同じ手筈であり、現に私たちはこの方式でさるワイナリーの日本用スペシャル・キュヴェを造ってもらっているから、すでにお馴染みである。
かくして、ラシーヌ式のスペシャル・ハンドピックが実現して、味わいは納得のいく水準となったが、問題は手間と費用。上手な焙煎家の手になる豆を用い、そのうち数10%が不良品として廃棄されることは、これまでのささやかな実験によると確実。ゆえに、コーヒー一杯のお値段は恐ろしく高くつき、とうてい普通のコーヒー店では商売として成り立つまい。時間に余裕があるとき、秘かに密儀にひたり、同好の士と楽しむほか、あるまい。
なお、余計ながら『コーヒーの人』で紹介されている、田中勝幸さん営むところのベア・ポンド・エスプレッソBEAR POND ESPRESSO (下北沢)を訪れ、氏いうところの「セクシーな味わい」をぜひとも実感していただきたい。官能的なのは、ワインだけでなくて、コーヒーにもあることに気づけば、あなたのワインの世界がいっそう質的に拡がろうというもの。むろん、同姓同音異字のワイン評論家と混同してはならないこと、いうまでもない。(了)
(注)拙文を書き終えて配信した直後に、最新のコーヒー事情を網羅した雑誌特集号に出会いました。『BRUTUS』 2019年2/1号です。副題の「おいしいコーヒーの教科書」であるかどうかは別としても、感性に裏打ちされたリサーチが行き届いていますので、古典的なコーヒーブックとともに一読の価値ありと思います。