エッセイ:Vol.137 熟成途上 En Vieillissement(アン・ヴィエュイスマン) あるいは、三題噺―アイディア・ワイン・人
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最終更新日:2018/12/19
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
はじめに
前回はダラダラと長くなりすぎたことを反省し、要点だけを記すことにしよう。
今回取り上げるテーマは熟成だが、なにの熟成を論じるのか。食品ならば、発酵に伴う熟成の典型は《ワイン》。それとは別次元で、比喩としての熟成ならば、《アイディア》も絶好のテーマ。だが、問題はいつも《人間》だが、人は熟成するか? まあ、熟成肉じゃ、あるまいし、と冗談をいってごまかすわけにはいかない。
そこで発酵から順にたどるとすれば、人は腸内発酵することはあっても、体内でアルコール発酵をすることはまずなかろうし、ましてそのアルコールで酔うことは難しかろう。
だが、熟成までゆかずとも、熟の段階ならば、ときに熟議熟考する人間は、熟食もすれば熟睡熟酔もし、日本人は大の熟語好き。渡る世間には未熟者も円熟者もおり、ワインを熟知している愛好家も片隅にいれば、なにごとにつけ習熟や成熟が苦手な者もいるという具合。で、人は熟には縁が深いと結論してもよいでしょう。そこで、加藤周一にならって三題噺をするとしましょうか。でも、オチはありませんよ。
本論
Ⅰ.発酵と熟成
①アイディアのブラッシュアップと成長
ワインにもアイディアにも、発酵と熟成が必要なことは、ご承知のとおり。正確には、どちらも発酵のあと、必要最小限の熟成期間が不可欠である。熟成を経ない生のアイディアは、深みと個性に欠けた、単なる思いつきの域を脱せず、せいぜいのところ生煮え情報にとどまる。言ってみれば、アイディアに影をつけて、立体性と奥行きを出させ、しかもアイディアに個性的な表情を持たせるのが、熟成の役どころになる。
そこで、時間が登場する。なぜ熟成には、ある程度の期間が必要なのだろうか。アイディアのタネが頭の中に着床し、いわば受胎が始まったあと誕生するまでに、アイディアたるもの、自立して外界の荒波や試練に耐え、生き延びられるだけの体力と機能をつけることが必要。そのため、事前の内部成長を慎重に促す用意をするのが、時間の役割ということになる。この精神作用、高級な言い方をすれば、自己内対話ということになる。
母胎の中で、胎児が種の発生をたどりながら変容していく過程を経るように、アイディアもまた、発想の動機を振り返るだけでなく、発想以前の歴史的な姿を再現させながら、さまざまな消長と修正を施されたのち、一人前になる(はずである)。が、ここでアイディアを論じつくす訳にはいかない。
②ワイン
発酵をおえたワインの場合、引きつづき樽―望ましくは―などの容器内でベーシックな熟成段階を終え、次いでボトリング後にビン熟成するという二段階熟成をたどる。ビン熟成もまた、ワイナリー内セラーでの熟成後に出荷され、さまざまな流通段階のセラーと、最終購入者(レストラン/ワインバーや、消費者)のセラーでの、追加熟成(いわゆる追熟)をたどる。にしても、その必要ないし望ましい期間は、生産者から最終購入/飲用者にいたるまでの関与者によって、見方はさまざまであり、ボトル差も加わったあげく、数年から数十年と息が長い。さてこの続きは、第Ⅱ章で。
③人間の発酵(?)と熟成
ワインでの熟成にあたる英語は、ふつう“aging”(エイジング)だが、そこで、アイディアとワインだけでなく、人間にもまた、というより本来agingという発展現象があることに思い当たる。ただし人間のばあいエイジングは、老化とか加齢という、ニュートラルないしややネガティヴに響きがちな訳語が用いられ、あまり熟成とは言わないのは、なぜだろうか。人間をモノ扱いして、ワインや醤油などの発酵食品にみられる発酵・熟成現象と結びつけたくないという、暗黙の機制がはたらくからかもしれない。それにしても、近年の造語である「熟年」とは、含意が年齢・状態・期待・おぼめかし(和らげられた表現)などにまたがる、読み手の想像を当てにした、気味の悪い言葉である。まして、熟女、熟男など…。
おなじエイジング作用でも、老化や加齢は、肉体現象としては否定しようがない、人生の必然的な事実(“fact of life”)として受け止めるしかあるまい。だが、エイジングの精神現象面となると、老熟というより老害として、ボケや認知障害につながるネガティヴな現象や段階として、避けて通るわけにはいかない。
けれども、「円熟」という境地となると、日本の文化では歴史的に、人生の老境を飾る理想的な極致であるかのように扱われるのは、好きではないが面白い。円熟が、適度なボケの別名でないことを祈るしかない。
熟成の果て―成長と衰退
アイディア・ワイン・人生という三つの異なるものについて、それぞれにエイジング(熟成あるいは加齢)のプロセスあるいはステージ(段階)があるとしよう。それを経時変化でとらえようとするとき、いわゆる成長曲線が当てはめられる。
成長曲線とは植物など、がんらい生命体の成長や変化の様子を二次元でとらえ、横軸に時間を据えて追跡し図示する試みであって、描かれた曲線はライフサイクルないしライフステージと呼ばれる。
生命あるものはしょせん死を免れない。成長が頂点を迎えたあと、徐々に衰退期に移行し、終末はゼロ点に落ち着く運命だから、このカーヴは正確には成長=衰退曲線と呼ぶべきであろう(ライフサイクル図には、衰退・終末期があからさまに記されていないことが多いから、注意すべきだ)。このライフサイクルという考え方は、マーケティングでは商品について当てはめられ、「プロダクト・ライフサイクル」と呼ばれることは、ご承知のとおり。
ワインは―わたしの説では、少なくとも第二の―生命を備えるとともに、資本主義社会では生産者が消費市場に送り出す、価値を体現する商品でもあるから、《二重の意味でライフサイクルがある》といってよかろう。現にワイン界で頭脳明晰をもって鳴るジャンシス ロビンソン女史に、意欲作“Vintage Timecharts”(1989, 未訳)という、ワインを産地やタイプ別など約50種類に分けて、それぞれにさまざまな成長曲線を当てはめた、力作(あるいは力技)がある。
それにしても、ワインのもつ二重のライフサイクルは、産地とワインのタイプだけでなく、造り手自身と製造技法によって品質と寿命が激変するから、一義的にカーヴを確定することは難しい。マット・クレイマーは『ワインがわかる』(塚原・阿部共訳、白水社)のなかで、ワインは人間と同じで、ピークがあるという考え方には馴染まない、という鋭い批判の矢を放っていたことを、ここで想起するのが知的というものであろう。
参考:「熟」の語義について
日本語では、「熟」という言葉がキーワードらしいと見当がつく。そこで、その漢字の意味を探る手立てとして、白川静博士による『字通』(平凡社・刊)を開いてみよう。
同書「熟」の項目(p.757)によれば、古くは「孰」(ジュク)を用い、烹飪(ホウジン。煮炊き)のことだけでなく、すべて醇熟(ジュンジュク。だが、当該項目に説明文ナシ)するさまをいう、とのこと。つまり同辞典で、白川博士は醇熟という言葉を多用しているにもかかわらず、醇熟という言葉そのものの説明がないのです。(例:【醇】1こいさけ、醇熟したさけ、まじりけがない。以下略。)
そこで、手元にある『新選版 日本国語大辞典』(3冊本のうち巻2)を見よう。【熟】は「熟した柿をいう女房詞」だそうだが(p.505)、「ジュンジュク」という同じ発音では、「純熟・淳熟」があるだけ。その意味としては、「①よくなれ親しむこと。②時機などが十分に熟すること。事がととのうこと。③慣れること、熟練すること」とのこと。とすれば醇熟とは、テクスチュアがよく馴染んださまを指すと推測される。
Ⅱ.ヴィエイュスマンするという志について
銀の塔は金の塔
熟成したワインをよいコンディションで楽しもうという、ほんものの贅沢をしたいのなら、訪ねるべきはパリの「ラ・トゥール・ダルジャン」だろう。この老舗レストランは、要求水準の高いワイン愛好家にとっては天国のようなところである。選り抜きのワインが分厚いワインリストにずらり肩を並べて、うるさ型の飲み手を手ぐすね引いて待ち受けている。
この重厚で行き届いたワインリストを隅々まで目をとおして、好みのワインの好みのヴィンテッジを選ぶという作業あるいは楽しみは、言うは易く行うは難い。あまりに大部なため持ち重りがするからだけではない。目次と配列内容、掲載されている生産者名などを熟知していないかぎり、探すのに時間がかかりすぎ、ワインを選んで食事をいただく時間が無くなってしまうという、嬉しい欠陥があるのだ。
それを回避するための簡便法は、レストランに入る前にワインを選んでおくのでないとすれば、フロアーに控える経験豊かなソムリエに相談するしかない。わたしがお勧めする方法は、あらかじめ当日に楽しみたい一本目のワインを心づもりで選んでおき、ワインリストはそのあとで(食事しながら?)ゆっくり目をとおして、二本目を探せばよい。いずれ後日に来店するとき用に知識を蓄えておくことにもなるわけで、ともかく読むためのワインリストにしてしまえばよい。
しかし、この由緒ある店では、名より実を選ぶ方針をとるのも賢明。マイナー・アペラシオンから、飛び切り上手な造り手とそのワインを選ぶことができれば、間違いなく大枚をはたかずして、熟成した素晴らしいワインを楽しむことができる。
でも、これは「努力しないで出世する方法」というミュージカル映画が示すように、別の仕方に通じていなくてはいけないということでもあるから、誰にでもできる裏ワザではない。
塔内の秘密は?
その分厚いワインリストを見ていて気づくことがある。扱われている生産者の新しいヴィンテッジについて、“en vieillissement”(アン・ヴィエュイスマン)という表示が多く並んでいるのです。つまり、この生産者のこの年のワインは、レストランに無いのではなくて、地下セラーに揃えておいて、ゆっくり寝かせている最中なのです。
単なる「熟成途上」という控えめな表現の裏には、誇り高きレストランの心意気が感じられるではありませんか。要するに、「もちろん取り揃えているけれども、このワイン、まだ十分に実力を発揮していないから、お客様に出す訳にはいかない」という、やや苦渋に満ちながらも、自負心の表れなのです。
まだ売れないなどというのは、あからさまで下品だから、禁句なのでしょう。「楽しむにはまだ早いから、飲みごろを見計らって、また今度いらっしゃい。それまでに、他のワインを代わりにお楽しみください」というメッセージなのであります。
そういえば、早飲みをするのは「嬰児殺し」という表現があるくらい。「熟成期間不足でまだ充分に実力を発揮していないワインは、ワインではない」という見方や言い方もできるでしょう。
飲みごろを選ぶのが文明人のルールなのだ、というわけです。
売り急がない!
「売り急ぎは、飲み急ぎ」だとしたら、売り手に責任があるように見えるし、買った人は、流通業者であれ消費者であれ、とかく逸り立つ飲み心は抑えにくいもの。とすると、売り急ぐべからず、飲み急ぐべからず、という精神論を双方で確認するしかあるまい。
いずれにせよ、ラシーヌでは「銀の塔流」に賛成です。誤解されかねない状態や段階にあるらしくて、なぜか快ならざる臭いを放っているヴァン・ナチュレールについては、年月をかけて変身を待つことは、これまでも実行してきたことです。けれども、実力が備わっているのに時間不足のせいで力を発揮できていないときや、より奥深い味わいが将来に期待できるので、いま売り出すと時間をおかずに早飲みされてしまう惧れがあるワインがあります。そのばあい、あえて全体または一部の出荷を止め、寝かせるべきだという議論に反対は少ないでしょう。入荷済みワインのうち、特定の生産者・キュヴェ・ヴィンテッジについては、やせ我慢をして売り急がないという方針を、できればとりたいものです。
問題は、誰がその期間の保管料や借入利子の負担をするか。だれにそれができる余裕があるかではなく、どのようにそのワインを楽しんでもらいたいのか、です。が、ただでさえ販売価格に、すこぶる要したコストを反映できにくいのが、一部インポーターについては常態であるとすれば、これ以上の無理をするのは考えものではないか、というのも正論です。
かといって、前払い制のみで予約注文を受け入れることは、在庫させてあるワインがひも付きになり、ワインを担保に入れているみたいで、気持ちが悪くなくもない。
いずれにしても、全量を一気に解禁するのではなくて、少なくとも複数回にわけてリリースし、残しておくワインについては“en vieillissement”「熟成途上」という優雅な表示をしたいものです。“En vieillissement”ワイン同好会でも作り、「幸福なる少数者」だけが集い、熟成風味をゆくりなく飲み楽しむ会を考えなくてはいけませんね。あるいは「早飲み反対同盟」でしょうか。ご意見を承りたいものです。(了)
(附注)不本意ながら、またしても長くなってしまいましたが、お許しあれ。(T)