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エッセイ:Vol.135 ワインの仕事を三たび考える

 マックス・ヴェーバーの講演を翻刻した有名な学問論と政治論の二著がこのほど新訳され、合本されて講談社学術文庫から出版されました。タイトルは『仕事としての学問/仕事としての政治』で、訳者は野口雅弘さん(成蹊大学教授)。すでに10年以上前に『闘争と文化-マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』(みすず書房)という専門書を書かれています。

 そこで、旧訳でなつかしい『仕事としての学問』に目をとおしました。が、いきなりヴェーバーさんが「ぼくたち国民経済学者」とか「ぼく個人」と、ぼく調で聞き手に語りかける斬新さに驚き、「ハザード」“Hazard”が「サイコロ賭博」と意訳あるいは正訳されていることなどに感心することしきり。章立ても整理工夫され、訳注も示唆にとんでいて、訳者の見識の高さや問題意識も伝わってきます。おかげで、わかりやすいだけでなく、ヴェーバーさんの発言内容がいかに現代につうじるかが心に響いてくるので、おもしろく読みとおすことができました。

 それにしても、なぜ学浅きわたしごときがこの本の紹介をするのでしょうか。軽薄にも、訳書のタイトルを一目見ただけで感じいったからです。学生時代からわたしは、『職業としての学問/政治』と訳されてきた邦題に、日本語として疑問を持っていました。「職業としての」というからには、語感として「学者/政治家」と続かなくてはならないと、素朴に思っていました。だって、稼業なのですからね。 

 ところで、ドイツ語の“Beruf”には、職業という意味だけでなく、神から与えられた「召命」や「天職」という意味があることは、安藤英治さんの授業で聞き知っていました。両書の題はもともと講演の演目であったにもかかわらず、大げさな「職業」という訳語が出まわっていたのは、ことに日本では「学聖ウェーバー」というイメージにふさわしい、その重々しい語感のせいもあるのでしょうか。知的に誠実でかつ勇気のある野口さんは、もちろんドイツ語の意味をふまえながら、魔術からの解放をする必要があると思われて、日常感がありながらも幅がある「仕事」という言葉を選んだのではないでしょうか。

 そこで、ワイン。
 1989年ごろ、インポーターで仕事をはじめていた天性のワイン人、合田泰子にたまたま出会ったわたしは、この人を「仕事として」サポートしようと決意し、日ごろ広告やマーケティングにいそしみながら、ワインを第二の仕事としてひそかに選びました。広告代理店業という、クライアントに対するサポートビジネスに携わっていたので、影のサポート役にはなんのためらいもありませんでした。しかしそれが職業という形になったのは、ル・テロワールという会社を立ち上げた1997年以後のことですが、その前からワインの「共同研究」(重々しい言葉!)と、「ワインの試飲」(軽々しい言葉!)や「選択」(ニュートラルな語感)に関わってきました。

 さて、これまでわたしは本欄のエッセイで、ワインというビジネスあるいは仕事について、二回ばかり書いてきました。「ワインビジネスを考える」(Vol.131)と、「ワインというお仕事」(Vol.123)です。その背後にあったのが、ワインは「職業」ではなくて「仕事」であり、わたしたちの仕事に通底しているなのは一種の職人芸なのだ、という気持でした。新訳の登場を機会に、まだ書き足りないことがあることに気づき、三度目の作業(正直?)にトライしようと思ったのです。
 ―ここまでが、例によって(たぶん本文よりも)長いイントロダクションです。

 人間は、もしかしたら無意識のうちに、〈触媒として機能する〉という側面があることについて、うっかり書き忘れていたことに思い及んだのです。ややこしい言い方をしたのは、化学でいう触媒という言葉の定義のせいもあります。つまり、自分は変化せずにいながら、他の物質の化学変化を起こさせる(手伝いをする)、というユニークな触媒とよばれる作用が、じつは人間にもあるという現象が面白いと思っているのです。
 近頃では、貴金属の一部に、排気ガスの浄化作用があることは、ご承知のとおりです。そんな特殊な金属や、ワイン造りの酵母にしかできない触媒のような作用や機能が、はたして人間にもあるのでしょうか。
 ワインの仕事をしているうちにわたしは、この重大な事実に気がつきました。ひとは、ワインを造るのではなくて、ワインが出来上がるのを手伝っているのだ、というのがそもそもの発想です。(ボーヴォワール流にいえば、なんとなるでしょうか、お考えください)。

 これは料理も同じことで、料理する人間は、名人も家庭人も趣味人もひとしく、料理の作業環境を整え、素材と調味料を準備し、素材を適切な状態や形状に整えなおし、両者を配合する手順と加熱時間とを複雑かつ微妙に組み合わせれば、上手か下手かは別として、料理状になるはずです。そこで、料理人の役割は、触媒であるということができます。

 ワインは、この準備手順が、もっと複雑かつ大規模になり、時間も長期化するとみることができます。その変容する過程において、主人公はブドウの樹とブドウ果であり、主たる変容環境(変化が起きる場所)は、その置かれた特定の自然環境と、醸造所という人為環境であるとしたら、人間はその全体的な変容を好ましい状態へと促すために不可欠な演出家でもあり、触媒役でもあるのです。醸造というプロセスでは、酵母という触媒のプロが仕事をするのを、人間は脇からお手伝いする、いわば第二触媒の役割を果たしていると考えられます。

 栽培と醸造というプロセスは、ワイン造りの基本ステップですが、ワインの目的は飲み楽しまれることにあるとすると、栽培醸造が終わってようやく出生したワインは門出を迎えただけで、「ワイン人生」はこれから始まるのです。「大学が終わってから学問が始まる」(中江兆民の息、丑吉の言)とおなじですね。大ざっぱにいえば、ワインの流通と保管、販売と供給、サーヴィスと飲用という環境や準備作業が中間にあって、ようやく飲み楽しまれるという重大な最終局面を迎えることになるわけです。

 この中間プロセスにおいては、栽培と醸造の第一次環境の役割を自然が果たし、第二次環境において人間が場面造り役を果たすといってもよいでしょう。第一次のステップで〈自然〉が主役であるならば、第二次のステップから終幕までの主役は、人間の〈作為〉なのです。というと、まるで誰かの論文の主題のようですね。

 さて、この長大で長期にわたるプロセスについては、すでに読者のみなさんのほうがよく心得ているはずなので、退屈でしょうから詳説は省きましょう。要は誰が主役で、誰が脇役なのかということ。あくまでワインが主役であり、人間は脇役にすぎないが重要な触媒役を果たしている、という視点を押さえるのが肝心です。出しゃばり過ぎは、嫌われるもと。

ちなみに、「ワインのプロ」という言葉をわたしが初めていただいたのは、ワインのプロではなく学問のプロというか、天才である丸山眞男さんからです。けれども、はたしてわたしはプロという触媒役を充分に務めているかどうか、いまだに疑問です。

 ここで、ワインにおける触媒という役割を、あらためて考えなおすとしましょう。ワインとは、つまり良いワインとは、つねにフラジャイルで、環境からの影響を受けやすいという特徴があります。ひとことでいえば、優れたワインは生きている以上、感受性が高いのです。ワインは、人間や生物とは別の意味で〈生きている〉ことについては、わたしの発想の根源にあることであり、これまで繰り返し述べてきました。別の形ではあれワインは生きている以上、もしかしたらワインには生物よりも複雑で微妙なかたちで〈生体反応〉をする。すなわち、外界とのコミュニケーション能力がある、と経験上わたしは措定せざるをえません。ワインをモノ扱いするひとは、ワインからモノ扱いされ、仕返しされる、と弁証法的な口説を巧みに操るベルト・ブレヒトならば言うでしょう。ワインを粗略に扱うから、逆に逆襲され、報復されるのであって、ワインは「反逆するはわれにあり」と呟いているだけなのかもしれません。

 再説すれば、生きかつ活きているワインが、外界であるあらゆる環境と常にコミュニケーションをしているとしたら、外界そのものよりも、その外界をとり仕切っている人間との関係が、もっとも重要で問題になります。人間の息づかいまでもワインは感じ取るかのように反応し、生きているかのように振る舞うのですから、わたしたち人間は丁重かつ慎重にワインの環境を整え、ワインとともに生きなければなりません。

 とりわけセラーで長時間の作業をする造り手は、醸造という作業過程でもって直接ワインに影響を与えるだけでなく、その人間存在そのものが、呼吸や発汗という肉体の現象と、思考という精神の運動とをつうじて、間接的に知らず知らずのうちに働きかけているのです。とすれば、生成の途上にあるアモルフ(未定形)なワインもまた、感応せざるを得ないのではないでしょうか。育ての親である造り手の癖や人柄が形を変えて、ワインに乗り移るとしても、無理はありません。

 インポーターもその会社や人次第ですが、他の誰よりも誕生後のワインと長く深く接する可能性と機会に恵まれています。ラシーヌでは、ワインへの思い入れの強い仕入れ担当者や在庫管理の担当者は、オフィスのなかに鎮座しているわけではありません。コンテナのデバニングに立ち会い、国内倉庫到着までの温度湿度計測表を丹念にチェックしてワインの「健康状態」を思いやり、入庫をへて得意先への出荷にいたるまでのあいだ、長ければ数年にわたって保管・熟成用の倉庫のなかで、ワインを見守ることになります。ちなみにわたしは、月に一度ラシーヌ専用の保管倉庫に出向いて個別のワイン検品作業をするかたわら、保管されている棚と棚のあいだを歩きまわり、ワインたちの状態に探りを入れながら、心中でワインに語りかけています。

 おっと、それならば、ワインが生きていると感じ取れない人は、どうしたらいいのでしょうか。根本にある生命感覚、つまり生きているという本能的な感覚をとり戻すよう、小手先の工夫ではすまず、自分の生き方を変えるしかありません。もちろん死ぬ必要などなく、「バカは死んでも直らない」かどうかは別として、あくまで人間にもどり、人間をとり戻すよう努めること。ワインに即して言えば、良からぬ、つまり死んだワインを遠ざけ、生きているワインに触れていれば、いつのまにか人間の方もまた、おのずと精気をうけ、生気をとりもどすとしても不自然ではありません。

 では、生きているワインは、どこにあるのか? 探せば、そこにあります。「求めよ、さらば得られん」というではありませんか。見つからないのは、単に探し方がまちがっているのであって、近くにあるのに気づかないだけです。

 死んだワインは死の定義からして生きかえりませんが、仮死状態にあるワインは、ある程度まで復活するはずです。通常の金属やガラス製の栓は、たとえていえば、ワインの呼吸を止めてしまうようなものですが、死なせはせずに仮死状態におくだけであって、ワインはミイラにはなっていません。諦めずに、蘇生術を施しましょう。

 ここで健全なコルクの役割があることを思い出し、ビン口に健全なコルクで栓をしなおし、心臓マッサージのように無理はせず、できるだけ軽快なリズムでコルクの上からやさしいショックを与えれば、ワインは「眠れる森の美女」のように、生きている反応ともいうべき生体リズムをとり戻すでしょう。「美しいワインは美しく、それほどでないワインはそれなりに」と樹木希林さんもどきの念仏を唱えてもいいでしょう。

 もちろん、生きているワインにも、栓を開けるという最終局面を整え、充分に生きるように環境を調整してあげなくては、なりません。それが、環境設定という仕事の役割であることは、すでにご存じのはずです。

 …と、以上で補足をやめにします。

 でも最後に設問すれば、生きているワインを殺すのは誰か? 身内に犯人がいることが多いのが、事件や推理小説のつねだとすれば、ワインの身内にワイン殺しの犯人はいわしないか。インポーターでないことを祈るのみですが、もっとも犯人である可能性が高いのが、じつはワインの「後半生活」を司るインポーターなのですから。

 社内外にいる同職同僚の諸君諸嬢は、お互いそのような自覚をもって、インポーターという仕事をしようではありませんか。でないとすると、あなたがたは、あるいは自分たちは、ワイン殺しの汚名をおび、文化財蹂躙の罪を背に担うことになりますぞ。ワインとワインを取りまくものは文化であり、人類が実現した崇高な達成作業のひとつである(または、ありうる)という確信をもって、ワインとともに生きたいものです。

 

 

 
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