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エッセイ:Vol.134 書斎を遠く離れて あるいは ワインの夢、夢のワイン

 いまエトナで、フィールドワーク中。これからローマとアブルッツォに向かう予定‥‥というわけで、書斎派でブキッシュなわたしは書庫を離れ、本という人類の叡智の塊が身辺にない。いわば身ぐるみ剥がれたも同然で、手元にあるのは、わずかにC.G.ユングの自伝と、アントニー・ストーのユング論やユング抜粋集『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学』(創元社、山中康裕・監修、菅野信夫ほか訳、1997)くらい。まあ、このくらいあれば、よしとするしかないだろう。

 ユングのおかげと言うべきか、めったにない豪勢な夢を見、夢の世界を満喫することができたが、あいにく夢を記録する習慣がないので、その内容は覚えておらず、お伝えできない。ともかく、上出来の映画を上まわる面白さだった。ただ、残念ながら、そこにワインが登場しなかったことは確かなので、夢のワインを語るわけにはゆかない。

 なぜ夢にワインが現れなかったのだろうか。日ごろ品質・状態に問題がないワインばかり選んで、怪しげなものにはいっさい手を出さず、しかも環境設定してつねにワインの実力を発揮させているから、ワインに欲求不満が積もっていなかったのかもしれない。が、自画自賛は、進歩の敵というもの。だからこそ、こうして世界を巡っている、と言いわけをするのもおかしな話ではあるが。

 しかし、ワインの夢は現れなくても、夢のワインはあってもよいはず。そこで思い出したのが、プロトワインという造語(塚原 正章のエッセイVol.127 http://racines.co.jp/?p=10358)。かつて田中 克幸さんから雑誌記事のためにインタヴューを受けたおり、苦しまぎれに発した言葉である。ユング流にいえば、ワインの「元型(アーキタイプ)」かもしれないが、そのように大げさで神話的な意味合いはなく、各造り手がボトルに閉じこめたワインが本来、可能性として持ち、あるいは託された味わいのことである。

 「可能性としての味わい」という発想は、わたしの「テロワール」の定義に共通する。つまり、なにかの外部要因や環境から、味わいが一義的に規定されるわけではなく、自然や造り手による運命的な決定論から自由になる、という解釈者優位の視点を導入し、強調したかったのだ。

 ここで、造り手が自作したワインが、造り手のセラーでその意図が充分に実現され、味わいを発揮しているわけではないことは、すでにご承知のとおり。いったんボトルに閉じこめられ、造り手の手を離れたワインという液体の状態を、活かすも殺すも、インポーターや流通業、レストランやワインバー、最終的には、飲み手にかかっているのです。

 たとえていえば、飲み手のもとに達する前に、回復不可能な痛手を負ってしまったワインは、いかに飲み手が知恵をふるっても、後の祭り。いくら可能性を発揮させようとしても、無残な状態に陥られてしまったワインは、時間という名医の助けを借りてすら、実力が出しにくいのです。

 それでも、ワインにまだ残されている可能性を引き出すには、諦めてはいけない。だって、実感的にいえば、少なからずいたんだワインの方が、健全極まるワインの数を上まわっているかもしれないのだから。だとすれば、ユング流にいえば、痛めつけられて歪められた経験をもつワインは、その体験がシコリやトラウマになっているから、身体的にも精神的にも回復させてあげるには、単純な技術やスキルだけでなく、洞察力がいるのですね。

 人間を見抜くのも難しいけれども、物言わぬワインは、もっと厄介なのです。歪められたワインの過去を洞察し、活かす方法を身につけるためには、ワイン通であるまえに、人間通になっていなくてはならない、というのが今回の処方箋です。

 
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