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エッセイ:Vol.131 ワインビジネスを考える

 この春、ワインについて考えていることを、自由に述べる機会が、合田と塚原のふたりに与えられた。そこで、わたしたちが選んだ総合テーマは、「ラシーヌ流ワインビジネス」であり、初回は「インポーターの役割」と題する、原論的な役割規定を試みた。
 ラシーヌ流であろうとなかろうと、インポーターの基本的な役割にまで、わたしたちの力量でたどり着けるかどうかはわからない。が、あえてそのような疑問にはこだわらず、わたしたちがつね日ごろ仕事をするさい、念頭に置いていることがあるとしたら、それはなんだろうかと自問自答することにした。

実際のところラシーヌでは、行動の準則めいたものはあるにしても、《原則》というほど大層な原則やルールはないし、《企業哲学》というほど高尚な理念を念仏のように唱えているわけでもない。
 ある人―ラシーヌ出身者―が、うまいことを言っている。「ラシーヌの常識は、外の世界の常識ではない」と。ラシーヌ流とでも呼ぶべき《暗黙の準則や心的態度》、あるいは単なる《ローカル・ルール》があるとしたら、それは別の企業やワインワールドでは常識どころか《非常識》にちかいらしい。とすれば、心せねばならぬことであり、他人に押し付けてはなるまい。

 ラシーヌの社員には、ささやかであろうと自分で考えだしたアイディアや工夫を、仕事のなかで実現するよう努める、という積極的な《思考の冒険》が期待されていることはじじつである。だが、これはいささか高度な要求らしい。だれしも手を抜きたがるものであって、できれば考えずにすませたいという《思考の省略》におちいりがちなのだが、これは余談。

 考えてみれば、《手抜きをしない》ことに努めるのが、ラシーヌ流かもしれない。ワインの造り手と飲み手をつなぐ、という触媒作業がインポーターの役割であるとしたら、インポーターには造り手との共通点―あるいは共感作用―がなくてはならない。それを、職人芸と呼ぶことができるのではなかろうか。わたしたちのワインビジネスもまた、一種の職人芸であることを目指している。扱っているワイナリーのほとんどが、手仕事の延長線上にある職人芸の上になりたっており、ときには超職人芸としか言いようがない仕事ぶりなのだから。これは、ナチュラルワインであろうと、クラシックワインであろうと、ワインで良い仕事をするばあいの第一要素なのではなかろうか。

 ひるがえって、ラシーヌは別として、わたし自身を探ってみるとしよう。わたしに個人的な行動原理があるとすれば、そのひとつは《人間の言葉行動のあいだの落差》に注意すること。ややこしい表現だが、要するに《事実はなにか》を、人や組織から発せられる言葉や情報に惑わされることなく、実際の行動を直視して、その観察結果に基づいて判断する、という方式である。人間だれしも言葉を飾って事実を美化したり、韜晦したりするものだから、広告めいた言説そのまま信じることは羽仁五郎流にいえば「バカでなければお人好しである」ことになる。

 これは一種の人間(社会)観察の方法なのだが、言葉と行動とのあいだにギャップがあるとしたら、その原因や動機をつきとめようとする態度である。これは、フランス文学史で17~18世紀に数多く登場した、《モラリスト》という人間観察家の流儀にほかならない。ちなみに、その雄であった皮肉きわまるラ・ロシュフコー侯爵は、「人間は、太陽も死をも直視できない」という言葉を、その『箴言と省察』のモットーに掲げている。

 かえりみれば、学生時代にわたしは社会科学と社会思想の一端にふれ、さいわい古今の碩学から直接間接に学ぶ機会があった。そこで触発されたのは、青くさい表現をすれば、マックス・ヴェーバーいうところの《客観的な認識》はどのようにして可能なのか、という問題であった。平たくいえば、《事実に到達する》にはどうしたらよいか、ということ。真理や真実という深遠なことがら、あるいはドイツ的な観念や観念論など、しょせんわたしの手に余るし、好みではない。そこで、認識論と存在論をひっくるめた幼稚な発想をプラグマティックと称し、ひたすら《事実に辿りつく》ことを目指したものである。

 がんらい、骨がらみなくらい文学好きなわたしは、作品そのものよりは、文学に描かれた人間像をとおして、《生身の人間を理解すること》に興味があった。だから、社会科学的な発想よりむしろ、人間に即して、だがいささか欲ふかく、社会(集団現象)と人間(個人)をひっくるめて、まるごととらえたかった。

 なにごとも把握し理解するためには、大げさに言えば、認識のためのフレームや概念装置というものが必要であり、《認識のための武器としての言葉》を研ぐという、言葉の吟味が必要なことに気づいた。ただし、言葉は認識のための手段(トゥール)でもあれば、人を目的どおりに動かすための手段でもあることは、ナチスのプロパガンダを想えばすぐわかるのだが…。

 言葉は、認識するために不可欠なのに、逆に認識を歪め妨げるマイナスの作用がある。(じじつ、魔術的あるいは催眠術的な効果を狙って言葉をつぐむワインライターもいるから、気を付けねばならない。)これに対抗するためには、魔術から解放された意識でものごとをみつめ、言葉でもって概念を再定義しながら、論理を構築して事実に迫りゆくステップが必要になる。いいかえれば、自分で設けた謎を解きながら事実に迫るという思考方法。これを、わたしは丸山眞男さんの著作をつうじ、また、その人から直接に学んだ。今にして思えば、ぜいたくなことである。

 このように、言葉を洗練させながら認識を深め、事実に到りつくという意識的な作業を、学問だけに用いるのはもったいない。仕事などの日常作業に応用できるのではなかろうか。言葉を手掛かりにし、言葉を組み合わせながら認識のための概念をつくり、社会という人間的な事実をとらえ、こんどは事実に働きかける=実践する》という方法意識があってもよいのではないだろうか。

 このような発想がわたしのなかにあり、はからずもインポーターを業とするようになったとき、《手仕事》と《職人芸》というクオリティワインの基本をささえる精神が、わたしたちの共感を呼びおこした。まるで、ウイリアム・モリスの精神がよみがえったのかのように、反時代的な志向であるともいえる。現代においては、職人芸をあじわうことほど、贅沢なことはない、といっても過言ではあるまい。

 もちろん職人も、ほんものの造り手もまた、嘘をつかない。はるばる造り手の畑とセラーから日本にたどり着き、倉庫でひとときの安眠をへて飲み手の前に、ワインは登場する。

 そのワインを味わってみれば、上手な職人芸の味わいとテクスチュアがひしと伝わってくるはずである、もしワインのコンディションが、よかったのならば。

 いうまでもなく、すべてのナチュラルと称するワインが、ナチュラルであるわけがないし、すべての「自然派ワイン」の生産者が正直なわけでもないことは、ワインが語っているのだ。念のためにいえば、歪められた「自然派っぽい」味わいの自称ナチュラルワインは、ナチュラルの名に値せず、真正(オーセンティック)なワインでもない
出来そこないのワインでしかない、とわたしは考えている。下手な文学作品は、文学でも作品でもないのとおなじように。

 そう、ワインもまた、嘘がつけないのだ。インポーターの仕事もまた、嘘がつけないし、嘘をついてはいけないのだ。ワインを造るプロセスのなかで、間違った作業や不適切な仕事があれば、ワインはそれを体現せざるを得ない。ひと口味わってみれば、ワインは誠実に自分の経験を告白するはずである。ラシーヌに信念があるとすれば、これをおいてほかはない。

 
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