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エッセイ:Vol.129 戯文:説明は無用のこと

 説明ほど退屈なものはない。説明=退屈説を説明するのもまた退屈なこと、いうまでもない。なにごと であれ、それを説明するということは、説明する者にとっても、説明される者にとっても、退屈なのだ が、それを証明するという退屈な行為をしてみようか。むろん、そんなバカげたことに付き合わないのは 自由であって、しかも合理的でもある。だが、いっけん意味のない行為をするのもまた、人間的であるか もしれない。

 

説明とは
 そこで、いちおうもっともらしく説明の定義をするとしましょうか。 《あるものごとについて、その内容を理解させ、できれば同意を得ようとする試みと行為》というの が、説明の定義あるいは説明のこころみです。

 

説明が退屈である説明1
 さてそこで、
  説明する行為者を、A とする。
  説明する相手となる対象者を、B とする。
  説明する対象となるものごとを、C とする。
  説明するという行為を、D とする。

 としたとき、説明とは、次のように置き換えあるいは言い換えることができます。
 つまり、A(主語となるヒト)が、B(行為の相手)に対して、C について、D という理解促進行為を するという、複数の人間にかかわる関係概念であり、目的性がある行動です。
 …という叙述がすでに、説明が退屈な行為であることの例証になっています。 だが、これだけでもって、およそ説明が退屈である、ということの証明にはなりません。あるいは、説得 力のある説明にはなっていない。
 それでは、より説得力のある、いっそう退屈な説明をしてみましょうか。

 

説明が退屈である説明2
 かりに B にとって C が興味のあるものごとであるとしましょう。もし、B にとって C が興味のないこ とだとすれば、つうじょう D という行為は B には退屈である可能性が高いこと、論じるまでもありませ ん。だからして、興味のないばあいを除くわけです。
 そのばあい(つまり B にとって C が興味があるとき)、A のする行為 D が B にとって退屈であるかど うかは、D の方法しだいなのでしょうか。それとも、D という行為そのものが、方法によらず、あるいは いかなる方法によっても、退屈なのでしょうか。
 わたしの立証したいのは後者、すなわち《説明行為は、いかなる方法によるとしても、退屈である》と いうことです。さて、お立会い。

 

上から与えられる説明や解説とは?
 説明とは、相手 B にとって未知のものごと(限定された C、そこで C′とする)について、A にとって は既知であること(C′′)を、A が B に理解させようとする行為である、と言い換えることができます。 ここで、A にとって、というより、《誰かにとっても、既知のものごと C′′を、それについて知らないも のに説明するのは、退屈な印象を与える》。なぜでしょうか。

 

既知の説明、未知の発見
 それは、既知のこと C′′を、未知のこと C′でなく、既知の事実であるかのように説明しようとするか らです。これは、トートロジーのように響きますが、そうではありません。当人にとって既知のものごと について、発見という心躍るプロセス抜きで、当たり前のようにして「正しいとされることがら」を、あ つかましく解説しようとする姿勢になります。だから、説明が「上から目線」になることが避けられず、 共感を呼びにくいので、退屈感を与えるのです。時間的な経過としては C′→C′′なのに、説明は前半の 興味深くて意義深い作業プロセスが抜け落ち、C′′だけにスポットライトが当てられているような寸法な のです。
 そういえば、生命について目からうろこが落ちるような画期的で本質的な視点に貫かれた『生命を捉え なおす』(増補版;中公新書 1990)を著した清水博さん(東京大学名誉教授)は、「研究の目的は説明す ることではなく、対象の本質に深く係わりあった法則性の発見なのである」と明言されています(『なぜ 情報を研究するか』『バイオホロニクスに出会うまで』;場の研究文庫 vol2, 場の研究所、2004)。
 およそあらゆる説明は陳腐であって、発見の二番煎じや三番煎じ以下の価値しかないものなのですね。

 

ワインの正しい飲み方?
 たとえば、ワイン教室で「ワインの正しい飲み方」を教えるばあい。ワインに正しい飲み方があるわけ ではないし、あるとしても誰がそれをどのようにして知り、正しいとと思ったのでしょうか。たしかマッ ト・クレイマーが述べていたように、そんなものは存在しなくて、証明抜きにして世間で正しいとされて いることを、他人から又聞きで知り、それをまた他人に伝授しようとする、いわば伝言ゲームのようなも のでしょう。伝言ゲームならば、最初に「正しいメッセージ」があるという想定があり、それがいかにノ イズがはいって歪められるかという現象を楽しむことになります。けれども、ワインには「正しい飲み 方」があるわけではないから、説得力に欠ける他人事の説明が、知的に面白いわけが無くて、退屈に映るはずなのです。

 

ワインの味の説明は?
 ついでにいえば、やはり面白くないのが、ワインの味の説明であり、特定のワインが有する味わいの説 明としての表現です。味わいや風味に関するワイン用語は、およそワインの特徴の説得的な表現になって いないことが多い。風味のサイクル図などをもとにした、「○○のような」香りや味がそのワインにあっ たとしても、だからどうなのでしょうか。「それはいったいどう人間に関係があるのか」というルネサン ス期の本質的な質問が思い浮かびます。そもそもワインの質や個性の評価と、「のような」という形容詞 や風味パターンへの帰属とは、あまり関係がなく、たんに説明の便にされているのにすぎません。点数付 与式の評価ポイントは、ワインの説明ではないにしても、恣意的であったり、単なる要素評価の合算であ るがゆえに、評価になっていないことは、あらためて説明するまでもありません。

 

発見の追体験を
 それでは、学校(ワイン学校ではない、主として若年者のための教育機関)の授業はどうでしょうか。 「科学的ないし学問的に正しいとされる」事実が生徒に教えられるとき、それが(生徒に対しては教育の 場という権威的な関係にある)教師から説明として与えられるかぎり、生徒には面白いわけがなくて、だ から授業はつまらない。といっても、面白い授業がないわけではありません。それは、教師が生徒に発見 させる悦びを追体験させられるばあいにかぎられます。なぜか? 主体的な発見のプロセスはたのしく、 受け身で受ける説明はつまらないのです。
 そこで三段論法式にいえば、説明はおよそ興味をかきたてないからつまらないし、この文章は読者の興 味を引かない説明のようなものだから、ゆえにこの戯文はつまらなくて退屈なのです。Q.E.D.

 

説明と理屈
 というのは嘘であって、もともとこの戯文が面白くなく、表現力に欠けているというだけのことです。 今回はここに発見のプロセスが述べられておらず、過去に考え付いたことしか記して無いことも事実で す。が、他人の思考にはもともと興味がない人にとっては、考え事などという迂遠な作業は無縁であっ て、およそ興味を引きにくいものですから、表現力も説明方法もあまり関係がないでしょうね。
説明とは理屈のつけ方だと割りきれば、なにごとにも理屈は付けられますが、面白い理屈が正しいわけ ではないし、下手な理屈は正しくもなければ面白くもない。おっと、本筋の「説明」とは掛け違ってしま ったようですが、刺激的で説得的な説明があるとしたら、それは説明の域を超えた理解のしかた・させか たであって、もはや説明ではありません。理屈はつまらないし、説明とはつまらないものと同義であると いったほうが、現代のように単純化して片づけたがる社会では、わかりやすいのかもしれません。理屈も 屁理屈も、なかなか面白いのですがね。

 

発見と再発見
 いずれにせよ、わたしには説明はご免で、無用のしろもの。だから、みなさん、自分で問題をさがし、 解明法をさぐり、他人の説明を疑い、みずから発見作業にいそしもうではありませんか。それに、結果と して発見が出来なかったとしても、模索する過程そのものが楽しめます。
 発見したとぬかよろこびしていたら、再発見だとわかることもありますね。でも、再発見もまた、なか なか乙なもの。あなた自身を再発見してみてはいかがですか?発見とはほかの世界を探索することではな くて、ほかならぬ自分の頭の中を探るようなものではないでしょうか。(了)

 
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