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エッセイ:Vol.127 プロトワイン考 ― あるいは、なにもないテーブルについて ―

公開日: : 最終更新日:2018/02/01 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

 ビンに詰められた状態のワインは、まだ飲む支度が整っていない、飲用待機中の存在である。
 たとえば、ビン口にコルク栓が挿され、カプセルが巻かれた状態のまま、あなたはこのビンからそのままワインを飲むことができるだろうか? ビンを壊したところで、割れたボトルからワインをすするのは難しいし、山の上で栓抜きとグラスが手に入らないといった状況にでも追い込まれないかぎり、誰もそこまでしてワインを飲もうとはしないだろう。
 話はかわる。あなたは、楽譜を音楽だと思うだろうか?  しょせん楽譜は演奏ではなくて演奏指示書にすぎないから、いくら楽譜が読めたところで、音楽ではない。より正確に言えば、まだ音楽になっていない。作曲中のモーツァルトには音が聞こえ、その楽の音を追いながら猛スピードで記譜したのだろう。が、このばあいは、音楽が先にあって、あとから楽譜がついてきた、とでもいうべきだろう。いずれにせよ、楽譜は、作曲家の念頭にあった音楽像に近似した演奏を指示するガイド役なのであろう。
 だとすれば、演奏者が楽譜から作曲者の意図を解釈し、自分の演奏技術で再現してみせたものが、演奏あるいは音楽だということになる。
 ここで重要なことは、奏者の解釈をとおし、次に奏者の肉体に体現された演奏技術をとおして、はじめて音楽が実現するという、媒介のプロセスである。
 楽譜をニュートラルに解しただけで、奏者の解釈が入らない演奏などというものは、ありえないのだ。楽器の問題を別とすれば、解釈の深さと、演奏技術の高さが、演奏の質を左右するといえるだろう。
 ここで、楽譜を、「プロト音楽」といってもよいかもしれない。やさしくいえば、音楽の道しるべである。

 そこで、ワインに戻る。なにも置いていない、テーブルがあったとしよう。稀代の演出家ピーター・ブルックの著作名をひけば、「なにもない空間」the empty spaceである。ピーター・ブルックの舞台が、ここではテーブルに当たる。
 テーブル上にワインボトルをおくだけでは、飲むことにも食事にもならない。ワインの持っている可能性を存分に引き出してあげること、これはワインのサーヴィスを仕事にしている人だけでなく、ワインの飲み手にも課された仕事なのです。
 ワインは、扱い方次第で、シャイに身を縮こませることもあれば、のびのびと持ち味を発揮して、これがあのワインの味なのか、とビックリさせることすらある。
 よく人は、生産者を訪問して、そのワインの味わいに感激して帰ってくることがある。たしかに、生産者のセラーを出たあとの品質劣化をこうむっていないし、ビンにはラヴェルなど余計なものが付着していないばあいはさらに好ましいのだが、セラーは特別に望ましい飲用環境であるとはかぎらない。まして、樽や製造機器類がたむろする中で、あまり清潔とは言いかねるグラスで試飲しても、ワインの可能性の一端に触れることくらいしかできない場合がおおい。
 これは極端な例であるにしても、ビンに閉じ込められているワインは、音楽でいえば楽譜に近いから、これを「プロトワイン」といってもよいのではないか。
 インポーターや流通販売業者が品質保全に全力を尽くしたあと、ようやく「なにもないテーブル」上に、ワインが登場する。そこでテーブルという舞台のうえで、ワインの可能性を十分に発揮させる用意と支度をすること、これが現代のワイン関係者とワインドリンカーの仕事です。
 一言でいえば、ワインと人間にとって望ましい環境設定をしてあげればよいのです。その方法については、これまで縷々述べてきたので省きますが、電磁波と金属の影響を取り去れば、当座の役には立ちます。
 もちろん、妖しげな言葉や観念をワインボトルに吹きかけるといった小手先の芸は、ワインの持ち味を歪めるだけで、なんの利得もありません。持ち味という可能性を少しも減じることなく、十全に発揮させることが、営々とワイン造りに携わってきた生産者の苦労に報いるための唯一の方法ではないでしょうか。(了)

 
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