*

ドイツワイン通信Vol.76

公開日: : 最終更新日:2018/02/01 北嶋 裕の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ

シャルツホーフベルクの光と影

 ドイツがフランスとルクセンブルクと国境を接するあたりから、少しばかり東にザール川が流れている。ワイン生産地域モーゼルを幾度も蛇行しながら流れるモーゼル川の支流で、その下流域の川沿いの急斜面には葡萄畑が広がっている。モーゼル川よりも川幅は狭く斜面は急で、麓から見上げると葡萄畑が文字通り眼前にのしかかるように迫ってくる。これほどの斜面で葡萄を栽培しているのは、気候がモーゼルよりも冷涼で葡萄が熟しにくいことを反映している。そこはドイツの辺境であり、山奥なのである。

 そんな奥地にドイツで最も有名な葡萄畑の一つ「シャルツホーフベルク」がある。ザール川から東に約1km内陸に入ったところにそびえている、南から南東向きの丘である。最大斜度は約60%なので川沿いの絶壁に近い斜面に比べればそれほど急ではない。土壌は粘板岩だが、区画によってごつごつとした大きな塊だったり、パラパラと崩れるほどに薄く細かな粒子に、オイルのような粘液が混じっていたりする。粘板岩の下は鉄分を含む赤味を帯びた粘土で、斜面の中腹と上部を2本横切る農道に露出している。この、約4億年前の海底に堆積した泥が圧密して生じた灰色粘板岩の保温能力と水はけと、粘土の保水性と、斜面の適切な向きと傾斜、そして冷たい北風を遮る背後の森と、雨が降っても葡萄をすばやく乾かすように吹き抜けながらゆっくりと成熟させる風が、全体で約28haの葡萄畑に育つリースリングに独特の気品と奥行きのある風味を与えている。

 毎年9月下旬にモーゼルの中心地トリーアで開催されるオークションで最も高額な落札価格をつけるのは、大抵はエゴン・ミュラー醸造所のシャルツホーフベルクである。例えば貴腐菌で萎びた果粒を一粒づつ選りすぐって醸造したトロッケンベーレンアウスレーゼは、2011年のオークションで2003年産フルボトルが1本12000ユーロ(約160万円)という高額で落札されて話題になった。それほどまでに人の心を魅了するワインが出来るこの葡萄畑は、「神秘の丘」と称されることがある。確かにその前に立って眺めると、神々しい趣が漂っているような気がしてくる。実際、18世紀まではベネディクト派の修道院の所有だったのだが、その他の多くの銘醸畑と同様に、ナポレオンの占領下で競売にかけられて民間の手に渡った。その際に野心的で有能な一人の修道士と、運命に翻弄された人々がいたことはあまり知られていない。今回はその物語をお届けする。

 

シャルツホーフベルクの起源

 シャルツホーフベルクは1800年ころまで単に「シャルツ」Schartzと呼ばれていた。語源はラテン語で開墾を意味するsartaあるいはsartumに由来する。ローマ時代にヴィルティンゲンの周囲にはヴィラ、つまり農園が営まれていたことから、すでに紀元4世紀ころから連綿と葡萄栽培が続けられてきた可能性がある。一説には882年にトリーア大司教ポッポがトリーアの聖マリア修道院に寄進したといわれるが、史料に出てくるのは1314年に”Schayrth”にある葡萄畑を、この修道院に寄進することを記した証書が最初だ。1860年に刊行されたトリーア大司教史には、聖マリア修道院について以下の挿話が語られている。
 「近年、修道院が所有する農園の一つが創設から数十年目で評判になっている。ヴィルティンゲン地区のシャルツホーフだ。1760年代まで修道院は、今日の有名なシャルツホーフベルクのワインを産する丘に雑木林を所有していた。ある日、修道院の酒庫番(訳注:セラリウスcellerarius、葡萄畑をはじめとする所領や酒蔵の管理責任者)がヴィルティンゲンを訪れ、農民の代表に複数ある所領の状況を聞いた。農民は一通り説明するとこう言い出した。『修道士様!あちらにある丘は雑木林にしておくよりも良い使い道があります』。酒庫番は驚いて聞いた。『あそこで何をしたいのかね?』『葡萄畑です。世界一の』と農民は答えた。『半数の小作人でほんの数畝だけでも植えることをお許し下さい。出来たワインを飲んでいただければわかります』。その願いは聞き入れられて、やがて酒庫番が最初に出来たワインを試飲した時こう叫んだ。『これはワインではない、自然がもたらす最上の美味の詰まった甘露だ』と。かくして雑木林は現在つとに知られるシャルツホーフベルクに生まれ変わったのである。時に1767年のことであった」。

 実際にはそれよりも早くからシャルツホーフベルクで葡萄栽培が盛んにおこなわれていたことは、丘の麓のビショフリッヒェ・ヴァインギューターが今も使っている、80樽は入る醸造施設の入り口上部に「1719」と建築年を記した要石があることからわかる。ビショフリッヒェ・ヴァインギューターはトリーア司教区が経営する醸造所で、本拠はトリーアにあるが、合計約100haの葡萄畑を各地に所有するモーゼル最大の醸造所の一つである。その醸造施設に隣接するのがエゴン・ミュラー醸造所なのだが、なぜシャルツホーフベルクの麓に二つの醸造所があるのか、その事情については後述する。

 

若手修道士の才覚と野心

 1795年にフランス軍がラインラント地方を占領すると、教会関係施設の土地財産と貴族の領地は接収されて、1789年以来嵩んでいた4億ルーブルに達する借金の返済にあてるため競売にかけられた。シャルツホーフベルクを所有していた聖マリア修道院に在籍していた16人の修道士達の半数は、ロベスピエールの時代に行われた残虐行為を恐れてライン川右岸に逃れたが、修道院長と酒庫番はトリーアに留まり、なんとか所領を取り戻そうと手を尽くしていた。
 1796年、修道院長は33歳のヨハン・ヤコブ・コッホを院長代理としてヴィルティンゲンに派遣した。コッホはドイツ語のほかにフランス語に堪能だったので、フランス政府管轄下の役所との交渉に非常に有能だった。ヴィルティンゲンでの役目は高齢で病気がちだった教区司祭を助けることだったが、同時にシャルツホーフベルクを管理しながら機会を見て所領を買い戻すよう、修道院長は8000フランもの大金をこの若い修道士に託した。そして実際、1797年7月29日付けでコッホは競売にかけられたシャルツホーフベルクを含む地所を3人の競合相手を退けて落札したが、その額はシャルツホーフベルクの葡萄畑と地所7haとヴィルティンゲンにある圧搾所の二件をあわせて45000ルーブル(=フラン)という、修道院から預かった金額をはるかに上回るものだった。そのうち4,515ルーブルを、1798年から1800年にかけて7回に分けて返済したことを示す借用書がエゴン・ミュラー家に伝わっている。

 この、元ベネディクト会の修道士ヨハン・ヤコブ・コッホがエゴン・ミュラー醸造所の開祖である。だが、彼が落札したシャルツホーフベルクを含む地所は、聖マリア修道院の手に戻ることはなかった。コッホは1800年にヴィルティンゲンの村長に抜擢され、1801年に教区司祭職を辞して修道院も退会して、先代の司祭の頃から司祭館に住み込みで聖職者の身の回りの世話をしていた、当時26歳の若く美しい家政婦と結婚した。フランス語も堪能で野心的な村長は醸造所の発展に邁進し、おそらく所轄の行政機関の上層部ともワインを通じて人脈を築き、落札した地所の所有を確かなものにした。その一方でかつての同僚だった修道士数人が、シャルツホーフベルクの麓にある館への滞在と食料の提供を求めてきた際に、不法侵入者として憲兵に追い払わせるという冷たい態度をとった。1806年に修道院長はコッホを横領の罪で起訴しようとしたのだが、確かに資金を預けたことを示す証拠が一切残っておらず、修道士に同情した徴税官の努力もむなしく立件できなかった。購入に必要な資金を預けて権限を与えてしまったという事情を考慮して、修道院との共同所有という形にしようという修道院長の提案もまた、コッホはあっさりと退けた。不運な修道士達は結局、フランス政府から補償として与えられることになったささやかな年金で満足しなければならなかった。

 

シャルツホーフベルクの名声と悲劇

 上述の告発手続きが行われていた1808年当時、コッホの醸造所の経営は順調だったこともその徴税官の書状から読み取れる。すなわち「この農園は年に25~30樽(訳注:フーダー樽、当時は容量約850リットル)のワインを生産しており、それはザールで最初かつ唯一の高品質なワインである。各フーダーは平均的な収穫年で6~700フランで販売される」とある。コッホは1830年に67歳で他界するが、妻との間にはふたりの息子と6人の娘をもうけた。1802年に生まれた長男は虚弱体質で1851年に他界し、1812年生まれの次男は27歳で拳銃自殺した。理由はわからない。1810年に生まれた4番目の娘エリザベスは、エゴン・ミュラー醸造所を創設したフェリックス・ミュラーと結婚し、その子孫が現在のオーナー、エゴン・ミュラー四世である。1789年生まれのフェリックスはドイツ南部にあるシュヴァルツヴァルトの農家の生まれで、ナポレオン軍に参加して士官となって功績を挙げ、最終的にトリーアの警視庁に役職を得たが、同時に腕の良い栽培醸造家でもあった。
 コッホが他界した当時、葡萄畑を含む地所の面積は合計16haに達していた。そして1837年に存命中だった7人の兄弟達の間で遺産相続をめぐって争いとなり、トリーア地方裁判所に「アルトシャルツァー・ホフ農園の資産価値見積もりと分配」に関する専門委員会が設置された。委員会の評価は以下の通りである。「アルトシャルツの葡萄畑の価値は、主としてそのワイン製造の素晴らしい品質と、平地部分(つまり牧草地と耕作地)の収量の高さに基づいている。アルトシャルツベルクのワインは酒精と力強さとともに、非常に肌理細かく、そして独特な、極めて味わい深い香味と、我々の知る大抵のモーゼルワインよりも相当な程度優れて華麗なアロマが特徴であり、それ故に一般に知られているように、葡萄の出来が良い年であればワイン商たちは熱心にこれを求め、他の全てのザールやモーゼルのワインよりも高く評価され、また遙かに高価に取引されている」とある。当時の名声がしのばれる。

 さて、ヨハン・ヤコブ・コッホの一番年下の娘クララ・コッホが父の遺産を相続したのは1851年のことだった。ふたりの姉はすでに他界していたので資産の5分の1を相続したのだが、信心深かったクララはかつての父のふるまいに対する償いとして、地所と葡萄畑の一部をトリーアの大聖堂に売却した。これがエゴン・ミュラー醸造所に隣接する、ビショフリッヒェ・ヴァインギューターの建物と葡萄畑の由来である。彼女は売却で得た資金で1854年にトリーアにベネディクト会女子修道院を設立し、自ら修道女名メヒティルデと名乗り入信して静かに余生を送ろうとした。父が裏切った聖マリア修道院はすでに解散していたので、自らベネディクト会修道院を設立して償うつもりだったのである。ところが、1871年から帝国宰相ビスマルクの教会政策で福祉活動を行わない修道院は一旦解散させられてしまう。やがて1888年に再開が許されたものの、今度はトリーア司教がクララの入信を許さなかった。なぜなら彼女は聖職者であることを自ら放棄した者の子供であり、その子供が再び聖職に就くにはローマ教皇の特例認可が必要だったのである。その為には高額な寄付をしなければならないが、私費を投じて礼拝堂まで建設したクララには、もはやそれを支払うだけの財産は残っていなかった。また、実家とも遺産を大聖堂に売却した時以来絶縁状態だった。行き場を失ったクララは修道院のそばの小さな部屋で、孤独と病のうちにその生涯を終えたという。

 1922年にトリーアにベネディクト会の聖マティアス修道院が120年ぶりに再開されたが、彼らがシャルツホーフベルクの所有をめぐってエゴン・ミュラー家と争うことはなかった。そして現当主の父エゴン・ミュラー三世の結婚式から今日に至るまで、修道院には毎年クリスマスにシャルツホーフベルクのワインが一箱届くそうだ。ささやかな贖罪と言うべきか。

 

シャルツホーフベルクの現在

 現在シャルツホーフベルクはエゴン・ミュラー醸造所(8.4ha)とビショフリッヒェ・ヴァインギューター(6.4ha)の他にケッセルシュタット醸造所(6.6ha)、フォン・ヘーフェル醸造所(2.8ha)、ファン・フォルクセン醸造所(2ha)、ホスピティエン慈善連合醸造所(1.98ha)、ヨハネス・ペータース醸造所(0.5ha)、レッシュ醸造所(623㎡)が所有している。一度所有すると誰も手放そうとしないので、1999年末にファン・フォルクセン醸造所を現オーナーのローマン・ニエヴォドニツァンスキーが購入した時も、この高名な葡萄畑は既に100年以上前から醸造所の所有だった。「シャルツホーフベルクを所有する醸造所の一員になれたことを誇りに思う」とローマンは語る。彼の区画は丘の西寄りの斜面上方にあり、冷涼で葡萄がとりわけゆっくりと成熟する。当初はここから優れた辛口リースリングが造れるとは誰も信じていなかったのだが、2018年版のヴィヌム・ドイツワインガイドで2016シャルツホーフベルク”P”がベスト・ドライ・リースリングに選ばれたのは前回お伝えした通り。時代は移り変わっても、シャルツホーフベルクがドイツで最も優れた葡萄畑の一つであることに変わりはない。

 

参考文献:

・Franz Irsigler, Die Privatisierung des Scharzhofes zu Beginn des 19. Jahrhunderts. Eine Erfolgsstory mit Beigeschmack (2015年7月12日の講演原稿。ネットで閲覧可能;
https://www.uni-trier.de/fileadmin/fb3/prof/GES/LG1/Irsigler/Die_Privatisierung_des_Scharzhofes_mit_Fußnoten.pdf
英訳:Franz Irsigler, How the Scharzhof Came into Private Hands in the Early 19th Century (Sep. 7, 2016);
http://www.larscarlberg.com/how-the-scharzhof-came-into-private-hands-in-the-early-19th-century/
・Per Linder, The Scharzhof Transaktion: A Legal Analysis (Nov. 15, 2016);
http://www.larscarlberg.com/the-scharzhof-transaction-a-legal-analysis/
・Per Linder, The Scharzhof: A Supplement to the Biographies of Jakob Koch and Anna Marie Clomes, (Nov. 25, 2016);
http://www.larscarlberg.com/the-scharzhof-a-supplement-to-the-biographies-of-jakob-koch-and-anna-marie-clomes/
・Per Linder, The Scharzhof Revisited – the Failed Attempt to Sue Jacques Koch (March 14, 2017); http://www.larscarlberg.com/the-scharzhof-revisited-the-failed-attempt-to-sue-jacques-koch/

(以上)

 

北嶋 裕 氏 プロフィール: 
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。

 
PAGE TOP ↑