ファイン・ワインへの道vol.15
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寺下 光彦の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
ソルデラ徒然草。垂直試飲が教えてくれたこと。
ネパールのカトマンズから飛行機でインドのカルカッタに向かっていた時、飛行中の窓の外に迫っていた巨大なヒマラヤの山々。日本の山とはあまりにスケール感が違いすぎる、物体のサイズとしてのボリューム感が違いすぎる巨大さを目の前にして、浮かんだ感情は“美しい”ではなく“怖い”という感情でした。まさに、圧倒されるほかになすすべがない感覚に、私は“怖さ”を覚えました。
なぜ、やぶからぼうにこんな話を持ち出したかと言うと、ソルデラのカーゼ・バッセの2006、2008を試飲したニコラス・ベルフレージ(M.W.)が、「深淵な感情、ほとんど畏怖の念を引き起こすほど複雑な味わい」とコメントしていたことを思い出したからです。MWも、ソルデラのワインには“畏れ”“怖さ”を感じていたのですね。
で、そのことをいつ、思い出したのか?
つい先日、幸運至極にも恵まれたソルデラの垂直、2007、08、09、11、12の試飲時、でした。
トスカーナ、モンタルチーノ地区のみならず全イタリア、いや全地球を代表するファインワインの一つであると言っても過言ではない、このワイン。1970年代からの徹底したビオロジック栽培と、大樽での伝統製法を貫徹するこの神話的ワインの味わいをどう表現するのか。その責務は、まるでワイン・ビジネスに携わる者としてはある面“のど元に突きつけられたナイフ”のようでもあります。
いわゆる試飲コメントの公式、定型。つまり、このワインに感じられたバラのドライフラワー、上質の紅茶、スミレ、ベリーとチェリーなど赤系フレッシュフルーツのアロマ、高貴でシルキーでジューシーなタンニン、優雅で上品な酸、長大な余韻、などなど、ブラ、ブラ、ブラ・・・・・・。
この調子で千語を費やしたとしても、ソルデラのワインと、他の凡庸な、時には工業的に(興行的に?)デザインされたワインとの、数万光年ほどもある差について、な~~~んにも表現できないと、試飲時は焦燥しました。先のMW、ニコラス・ベルフレージは“畏怖の念”以外に“よいしれるような強いアロマ”“構造は常にしっかりしているが整っており”等々と手短に記述していますが、それでも全く物足りないです。
ゆえ、僭越至極かつ蛮勇至極ながら、ソルデラのワインを試飲しながら浮かんだ感覚、特に今回の試飲で白眉だった2008と2012を中心に、徒然に、そこはかとなく綴らせていただきます。
2008、2012とも、まず圧巻だったのが何百層、もしくは何千層にも美しく織り重なった果実味と酸の崇高なレイヤーでした。その壮大さ、そのドラマ性は、まるで一口ごとが
“香りと風味の温か巨大銀河”
のよう。銀河系にある星の数を数えることが困難なように、このワイン一口、約20mlの中にも、銀河に負けないほど多彩な、アロマと風味が、美しすぎるほどの整然感で、含まれている。しかも、銀河系=冷たい、という感覚ではなく、全ての要素に優しく微笑むような温かさがありました。
試飲で、座ったままでその味と風味の波動エネルギーに、ジ~ンと身をゆだねていると、そのアフターテイストはまるで
“液体で体験する宇宙旅行(イスカンダル往復)”
の域。遠い宇宙を往復した際には、大小様々な美しい星だけでなく、魔性のブラックホールの数々も、窓の外に見えた気さえしました。
(この日、そうとうの回数、イスカンダルを往復しました)。
その様々な無数の星が、完璧に美しい均整のもとに並び、霊妙な余韻となっている点では、ある意味で余韻は“密教の巨大マンダラ絵画”のよう。いや、マンダラ絵画よりは威圧感が少なく、かわりに不思議な包容力さえ感じさせる点では
“舌で味わう巨大な、マンダラ・フレスコ絵画、少しラテン・テイスト”
というニュアンスでしょうか。ほんとうに、“複雑性”とか“コンプレキシティ”という言葉では、全く追いつかない世界です。いわば余韻の中にある精神性、というか霊性、なんですね。
さらに、感慨深かったのは、フルーツ感とミネラル感、時には鉱物感までが、目覚ましく官能的に一体化し、溶け合っている味わいのニュアンスです。同様に、アロマにはスパイス感とフラワリーさが一体化し、溶け合っている。つまり一聴すると全く矛盾しているような、フルーティーなミネラル、スパイシーな花、さらにはシルキーな鉄分、という世界が、ありありとリアルに目の前に開けるのです。この一見、完全に矛盾しているような感覚、例えば“甘い酸”“陰に隠れた、しっかりしたタンニン”等々のニュアンスは、極々一握りの、トップ中のトップワインにしばしば現れるニュアンスですが、それにしてもソルデラのワインの、対極のニュアンスが自然の摂理の中で、想像を超えた次元で一体化し溶け合う感覚の偉大さは、群を抜いていたと思えました。その感覚を、手短に言うなら・・・・・・
“虹色の酸、虹色の果実味、虹色のタンニンを持つワイン”
でしょうか。
さらに、全く個人的見解ですが、
“お釈迦様や禅の高僧が、長い修業後の悟りの瞬間に見た光景(は、こんな光景だったのかも)”との気持ちさえ、沸く味わいでありました。
(大変に無粋きわまりない蛇足として吐露しますが、ボルドーの伝説的ヴィンテージ1982年、1961年は、8大シャトー全てを15年以上熟成時に試飲しました。特に1982年の8大シャトーは何度も試飲しましたが、今回のソルデラ、特に2008ほどの深遠さを感じたワインは、私にはありませんでした。強いて言うなら、82年のムートンと61年のラトゥールのみ、ソルデラの08に迫る深みと奥行きがあった、かもしれません)
と、また再度、私の表現の乏しさが露わになってしまったところで、本家ジャンフランコ・ソルデラさん、自らの言葉で、ぜひお口直しをなさってください。
「偉大なワインに欠かせない要素は“健康で完全に熟した葡萄”だ。そして葡萄の健康と成熟は、それがつくられる畑の生態系によって決まるのだ」
「カーゼ・バッセは本当のタイムマシーンであり、いわば前に進むための後方跳躍である」
「かつて、美と卓越が崇められ、必死に求められていた時代があった。が、大衆が登場し、見た目を重んじて背後に潜む内実をないがしろにした。今や、ラベルはワインより重要になった。狂気の沙汰である」
「無知に安住すると往々にして洗練から遠ざかるのは、比較と実験の機会に乏しいためだ」
なんと、含蓄深い言葉でしょう。葡萄以外に1,500種類のバラを育てる畑の中でお暮らしなだけあり、言葉の花も棘も、命がありますね。
そして最後に。
ソルデラのわずか23haの畑は、モンタルチーノ中部、標高320m前後の比較的なだらかな平地です。その畑の立地と土壌は、もちろん恵まれたものですが、その他のモンタルチーノの畑と比べて、例えばブルゴーニュでのラ・ターシュとオート・コート・ド・ボーヌの差ほどには、決定的かつ天地の差ではないように思えます。
なのに。
ソルデラのワインと、その他多くの、まるでファスト・フードのように無口で表面的なモンタルチーノ・ワインとの、目もくらむほどの差は、一体全体何から生まれるのか。
先に、ソルデラの「葡萄の健康と成熟は、それがつくられる畑の生態系によって決まる」との言葉を引用しましたが、人間が、本来ソルデラほどのワインが生まれる潜在力を持つモンタルチーノの自然と土地に対して、いかに酷く生態系を無視し、蹂躙した葡萄作りをしているのか、ひいては真に偉大な“真・善・美を持つワイン”を生む機会を、みすみす見逃しているのか、ということなのではないでしょうか。そんな、いわば人間の、自然への向き合い方への大いなる警告さえ、ソルデラのワインはなんとも美しい形で発しているように感じられました。ほんとうに。心から。
温かな銀河旅行をしながら、ですが。
今月の「ワインが美味しくなる音楽」:
イタリアの自然と人々を音で描く、
巨匠中の巨匠の代表作。
Fabrizio De Andre 『Creuza de Ma』
イタリア、カンタトーレの歴史におけるファブリツォ・デ・アンドレの偉大さは、例えるならボサノバ以降のブラジル音楽史の中のジョアン・ジルベルトのようなもの。イタリア人と音楽の話をふざけながらしていても、このデ・アンドレの名前を出した瞬間、みな急に背筋が伸び、敬礼せずとも敬礼せんばかりの姿勢と表情になる瞬間を、何度目にしたことでしょう。
のどかなアコースティック・ギターを中心に、ゆったりと素朴に穏やかに。イタリアの自然と、人々の日々の営みを優しく綴るような、なんとも絵画的な音。自然に、ソルデラさんの畑の風景ともつながります。
下記リンクの曲を収録したアルバム「Creuza de Ma」は、全曲、ハズレなしの神話的名盤です。イタリアが好きな方々には、ぜひCDでのご購入をお勧めします。
https://www.youtube.com/watch?v=TlukK5-WZN8
今月の「ワインの言葉」:
「自然が暴力をはたらくのは、人間が自然に暴力をふるう時だけだ」
ジャンフランコ・ソルデラ(モンタルチーノの葡萄栽培・醸造家)
寺下光彦
ワイン/フード・ジャーナリスト
「ヴィノテーク」、「BRUTUS」、「MEETS REGIONAL」等に長年ワイン関連記事を寄稿。イタリア、ヴィニタリーのワイン品評会・審査員の経歴も。音楽関連記事も「MUSIC MAGAZINE」に約20年、連載中。
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