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ドイツワイン通信Vol.69

中世ドイツの都市のワイン

 モーゼルのリースリングの今年の開花は6月6日と、平年よりもおよそ一週間ほど早かったそうだ。前の週から暖かな好天が続き、結実も順調だったという。一説によれば、今年のようにブドウの開花が速やかに進行すると、ワインの味もまた速やかに口中に広がり、低温や雨で花震いを伴いながらゆっくりとすすむと、ワインの味は舌の中央に集中するように感じられるらしい。先日2015年産のドイツワインをいくつか試飲する機会があり、この説の検証を試みた。しかし例えばモーゼルの開花状況は一様ではなく、立地条件の良い暖かい畑の開花は6月中旬に一気に開花したが、冷涼で熟しにくい畑では開花が始まった頃に天候が崩れ、花震いを伴いつつゆっくりと開花した。だから2015年産の個性は畑の立地条件により異なるはずだ。開花時期の状況だけでなく、8月下旬まで続いた猛暑と乾燥によるストレスからか、明るさの中に陰を宿しているようなシリアスなワインが多かった気がする。それは容赦なく照りつける太陽から果汁を守ろうとして厚くなった果皮のタンニンと、10月の低温で保たれた酸も影響していたようだ。しかし、あまり細かいことを考えすぎると、かえって特徴がわからなくなってしまう。むしろ無心にワインに向き合った方が良いかもしれない。

 

ドイツとの出会い 

 「ドイツでは醸造を学んだのですか」と聞かれることがある。曲がりなりにもワインライターをやっているからだろう。説明しようとしてふと、今年は私がドイツを初めて訪れてから、ちょうど30年目にあたることに気がついた。あれは1987年、21歳の時のことだ。就職活動を翌年に控えた夏休みで、中世ドイツ史を教えていたU先生が解説役として同行するドイツ・ロマンティック街道観光ツアーだった。『ロマンティック街道』-「その名前をつけたのは僕なんだ、いつの間にかみんなが使うようになったけど」とU先生は言っていた-は、ヴュルツブルクから南下してローテンベルク、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、ミュンヘンを抜け、アルプスに近いノイシュヴァンシュタイン城へと至る見所の多いルートだ。私がワインの魅力に気づいたのも、そのツアーでのことだった。昼食に立ち寄ったヴュルツブルクのレストランで、レーマーグラスと呼ばれるローマ時代の遺跡の出土品を模した、当時ドイツで一般的だったワイングラスで飲んだ辛口の白ワインから、ドイツの爽やかな空気の中に生き生きとして繊細な香りが馥郁と立ち昇って、世の中にこういう飲み物もあるのかと驚いた記憶がかすかに残っている。 

 わずか10日間ばかりの観光旅行から帰国してから、世界はまるで違って見えた。熱に浮かされたような気分が続き、日常生活には常に違和感が伴った。いつかドイツで暮らしたいと願うようになったが、その当時は大学院に進んで留学するほどの学問への情熱はなく、バブル景気の中でとりあえず、世界各地に支社があって海外出張も多いという企業に就職した。ドイツ支社勤務を希望したものの、ドイツ人の働き方を真似て残業を極力避けて退社後のワイン会に情熱を傾けていたので、会社としても私を異国に出向させても飲み歩くばかりで社の為に尽くすようには見えなかったのだろう。私もまた、そのまま定年まで給料日だけを楽しみに生きるのは人生の無駄使いと悟って、社会人を7年で辞めて母校の大学院に戻り、再びU先生の元で西欧中世史を学び、留学という形でドイツ暮らしを実現することにした。ワインのインポーターに転職することも考えないではなかったが、ドイツワインの歴史を学んできちんと伝えた方が、他にやる人もいないだろうし、世の中の役に立ちそうな気がしたのだ。その頃日本で出版されていたドイツワイン本はフランスワインに比べてはるかに少なく、一冊の例外を除いては、ページをめくるごとに私の中でフラストレーションが膨らむような本しかなかった。

 

トリーアでの留学生活

 なんとか修士課程を2年で終えたあと、運良く入学許可が下りたのがワイン生産地域モーゼルにあるトリーア大学だった。1998年9月から当初は3年の予定で留学した。私費留学-DAADドイツ学術交流機関に奨学金を申請するほど成績は良くなかったし、30歳をとうに過ぎて年齢制限も超えていた-だったので交換留学生が優先される学生寮には入れず、拙いドイツ語-留学生向けドイツ語コースの初級に入れられるほどだった-で、それから13年間暮らすことになる1DKの家具付きアパートを見つけた。やがて日中は授業と図書館とメンザ(学食)を往復し、夕食の買い出しのついでに町の中央広場にあるワインスタンド-地元の醸造所が2, 3日毎に入れ替わる仮設ワインバーで、辛口から甘口まで6種類前後出していた-で2~3杯飲むことが日課になった。時々醸造所の人や常連客や隣にいた観光客と話をすることもあったけれど、大抵は一人で大人しく飲んでいた。

 トリーアに来て3回目の冬学期のこと。大学の授業には「講義」、「演習」、「入門ゼミ」、「ゼミナール」と4種類あって、次第に要求課題が重くなるのだけれど、そのゼミナールで発表をすることになった。「講義」は大勢に混じってとりあえず出席すれば良い。「演習」は講師が出した課題をみんなで解く授業で、それほど難しくない。「入門ゼミ」は短い口頭発表か期末試験のレポートが課せられる。そしてゼミナールは、最初の数コマは教授が概説を講じて、あとは毎回、学生が割り振られたテーマについて20~30分前後の発表を行い、残りの60分はそれについて討論するという形をとる。日本で一応修士過程は終えていたものの、歴史を専攻するドイツ人学生の前でドイツ語で発表をするなど、清水の舞台から飛び降りるようなものだった。私に与えられたテーマは中世初期の商人ギルドの例として、現在のオランダにあるティールの商人たちのふるまいについて、10世紀末に修道士が記述した史料について説明することだった。ティールの商人ギルドは幸い日本でも知られていて、ドイツの歴史学会でも熱心に取り上げている大御所がいて、ゼミナールの課題としては比較的容易なものだったと思う。この時ばかりはワインを控えて出来る限り準備して、とりあえずなんとか役目を終えてほっとしていたところに、ゼミナールを指導したH教授から「博士論文を書く気があるなら面倒を見よう」という、願ってもないオファーがあった。私がとびついたのは言うまでも無い。

 

ヒルデスハイムの会計簿

 それからしばらくしてH教授が博論のテーマとして提案したのは、北ドイツの古都ヒルデスハイムに伝わる15世紀前半の『ワイン会計簿』の分析だった。ヒルデスハイムは9世紀に司教座としてキリスト教信仰の拠点となり、12世紀には市場が、そして13世紀に都市参事会が登場した、1400年頃の人口は6000人あまりの都市である。参事会員は都市の富裕層や司教の役人たちで、14世紀には毎年12人が選ばれて定期的に会議を開催し、都市行政を運営していたのだが、14世紀末頃から税収と支出を都市会計簿にまとめて、毎年参事会の承認を得るようになった。その都市会計簿作成のベースになったのが、それぞれの役職担当者が作成する会計簿で、その一つが私の課題となった1407年から1445年までのワイン会計簿である。

 原本は今もヒルデスハイムの市立文書館で見ることが出来るが、他の都市の古文書と同様に、大半は19世紀から20世紀にかけて活字に書き起こして編纂・出版されている。しかし要約だけしか活字化されていない古文書も少なくなく、年代特定を間違えている史料もあったりして、刊行された史料集だけをあてには出来ない。ともあれ、最初に史料集に収録された会計簿を目にしたときは、中世低地ドイツ語の短文がぎっしり詰まったページが際限なく続いていて、一体どこから手を付けたものか途方に暮れた。だがしばらく眺めていると、その記述は基本的には日付と人名と場所とワインの量、そして金額が、一定のルールで毎年繰り返されるという、ある意味では単純な内容であることがわかった。毎年の記載項目は大きく二つに分かれ、一つはワインを小売りする時に都市参事会に支払う間接税の徴収記録で、もう一方は都市参事会の支出で賓客をもてなした時に、いつ、誰と、どこで、どれだけの量を飲んで最終的にいくら経費を使ったかという支出記録だった。

 間接税徴収記録からは、当時どのような人々がワインの小売りに関わっていたのかが見えてくる。例えば1413年から1417年まで、自分の邸宅でワインの小売りを行っていたハンス・シュプレンガーという男は、小売りを始める前年の1412年に近郊の町から引っ越してきた富裕な織物商人だった。1414年には合計16,455ℓ、一日約45ℓを販売していたのだが、当時資金難で苦しんでいた聖堂参事会や都市参事会に無利息で大金を用立てるなどして、都市指導層に接近を計っていた。市民権を獲得した1415年の翌年1416年には20,535ℓと約25%販売量が増えているのは、恐らく他の市民との交流の輪が広がったことによるものだろう。やがて都市参事会員の娘を妻に迎えたことで有力者の親類となり-中世には都市参事会員と縁戚関係を結ぶことが参事会員になる前提条件だった-、1422年、移住から丁度10年目で都市参事会員になっている。

 このハンス・シュプレンガーの場合と同様に、ワインの小売りが行われた場所としてワイン会計簿に記されているのは、都市参事会員の邸宅であることが多い。そしてそこで実際に販売を行ったのは、上流階級の邸宅を数年毎に渡り歩いてワインを販売する、専門知識を持つ一種のソムリエのような人々であったと思われる。例えば上述のシュプレンガー邸でワインの小売りを行っていたのは、ライネケ・ローデという男であったが、彼は1418年からハンス・グルデンボックという、都市参事会員を輩出している家系にいながら、まだ参事会員になったことのない男の邸宅でワインの小売りを始めた。そして5年後の1423年にハンスは都市参事会員に選ばれている。そして当初の目的を達したかのようにローデはグルデンボック邸を去り、翌年の1424年からはシュテルンケラーという都市参事会が賓客の饗応でよく利用する酒場に場所を移して、1433年に他界するまでワインの小売りを継続した。

 こうした状況から読み取れることは、15世紀前半のヒルデスハイムではワインの消費は都市の富裕層に限られ、もっぱら有力者同士の人脈を培うことに利用されていたらしいということである。これは会計簿の支出記録にある、近隣の都市の参事会員たちや司教、周辺に領地を持つ貴族が訪れた時にワインが贈られたこと、あるいはヒルデスハイム司教の館にしばしばワインが届けられていたことからも、ステータスシンボルとしての意味がワインには強かったようだ。

 

15世紀の寒冷期とワインの価格

 また、支出記録からワインの価格変動を追跡すると、1427年から1439年にかけてライン産ワインの購入価格が上昇し、特に1434年から1438年にかけて平年の2倍前後に達した一方、小売りの総量は1426年以降大きく落ち込んだ。その原因となったのは、ワインの主要産地であったライン川上流域の厳冬と冷夏、大雨と洪水だった。バーゼルやシュトラースブルクの年代記の記事と付き合わせると、1427年、1429年、1430年、1432年から1438年にかけてワインと穀物の収穫に深刻な被害があったという記述がみつかる。ヒルデスハイムではこの時期になって初めてウェルシュ(北イタリア産)やロムニエ(ギリシャ産)といった、通常のワインの2倍近く高価なワインが登場するが、これは賓客に対して身分相応にもてなす為のワインをストックしておくことが、政治的に極めて重要だったためだ。

 1434年12月に都市参事会が会員の邸宅の地下室に市営のワイン酒場を開業したのも、民間での調達が困難になったためだろう。不作と飢饉の常で投機目的の売り惜しみや偽造や水増し、強奪などの不正や犯罪が横行し、産地や市場のある都市が自分たちに必要な在庫確保のためにワインの搬出禁止措置をとることがよくあった。だから、他の都市の参事会や貴族にコネクションを持つ都市参事会が、外交手腕を駆使して在庫を放出させたり、領地通過の際の警護を依頼して、自らワインの調達に乗り出さざるを得なかったのだろう。ヒルデスハイムの市営ワイン酒場の1434年から1440年までの小売価格は、約3.5ℓあたり6~8シリングと1420年代に比べると約2倍近いが、供給量は約30,000ℓ/年で1420年代の平均前後で安定していた。粗利益率も50%と高く、都市参事会によるワイン酒場経営は成功だったといえる。

 

博論の提出と出版

 会計簿の記載を片っ端からエクセルに入力して分析したり、文献にあたって背景を調べたり、書いた分を提出してH教授の指導を仰いだりして、トリーアでの10年間が瞬く間に過ぎていった。10年もかかったのには、2005年からヴィノテークに寄稿したり、法学部の日本法専攻の学生に非常勤契約講師として日本語を教えたり、ホームページやブログでドイツワイン情報を発信していたということもあるが、何より、ワインとブドウ畑に囲まれたトリーアの生活が気に入っていたからだ。そして実を言えば、博論を提出した2010年の正月までは、論文を最後まで書き上げる自信はなかった。ふと思い立って書き溜めたものをとりあえずまとめてみたら、それなりに形になっていた。歴史学科の博論審査基準としてA4で300ページ前後なければ受理してもらえないのだが、これならばなんとか年内に提出出来るかもしれないと、その時初めて考えた。それと同時に、ブドウ畑に写真を撮りに行く時は、毎回別れの挨拶をしに行くような気分になった。来年のこの季節には、もうここにはいないかもしれない。同じ光景はもう見られないかもしれないと思うと悲しくなった。

 ともあれ7月に提出した論文は審査に通って、口頭試問も11月に終えて、留学に一つの区切りがついた。ドイツでは博論は刊行しなければ学位を認めてもらえないので、その後もH教授のコメントを咀嚼しながら書き直して、仮出版-ドイツ各地の図書館に配布するために生原稿をマイクロフィルムに焼いて、簡易製本したものを7部学部に提出-にこぎつけたのが2014年12月。2011年9月にトリーアのアパートを引き払って帰国してから3年以上経っていた。そして先日、トリーア歴史研究叢書(Trierer Historische Forschungen)第72巻として、H教授の弟子たちの博論が刊行される叢書の一冊として正式に出版された(http://kliomedia.de/isbn/978-3-89890-209-0/)。現物は日本にはまだ届いていないし、学術出版物なので発行部数は少なく、これから恐らく様々な批判にさらされることになるだろう。しかしそれでも、ドイツを初めて訪れてから丁度30年目という節目に、あの頃夢だった留学の成果がこうしてひとつの形になったことは、本当に幸せなことだと感謝している。

 ドイツとの出会いのきっかけとなった母校のU先生は、残念ながら私の帰国の数ヶ月前に他界された。博士号取得に成功したときはとても喜んで下さったが、論文に目を通さずに逝ってしまわれた。私が帰国してからはもっぱらワインライターとして活動していることを知ったら、先生は何と言うだろうか。「君らしいな」と苦笑されそうだ。奥様がご存命なので、本が届いたらお礼に一冊持参してご挨拶に伺うつもりだ。

(以上)

 

 北嶋 裕 氏 プロフィール: 
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。


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