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エッセイ:Vol.119 ワイン原論 ~要約と展開(かたち編)~

前回までの要約 ~生命という視座~

はじめに―問題意識

 生命体と非生命体――つまり、生きているもの(生命)と、死んでいるもの(物質)――の境目はなんだろうか、というのが私の出発点です。生命体でないもの、物質、一見「死んだような」物体が、なぜ、あたかも「生命力」が潜んでいるかのように、いろいろなものに「働きかけ」や作用をするのでしょうか。
 突き詰めれば「生命とはなにか」に帰着するこの問題、同名の書者を著した天才シュレーディンガーに刺激をうけた後世の議論を覗いただけで、どうやら先進諸科学を総動員しても明快な答えが返ってこない、難問中の難問らしいと見当がつきます。とすれば、正面突破を図るというような無謀をさけ、あまり難しく考えすぎずに、側面から小当たりするしかありません。

 

生命体の要件

 まず、「生きている」とは、どういう状態なのでしょうか。生命体の要件として、ふつう少なくとも次の3点が挙げられます。
① 細胞が生命体構造の基本単位をなしていること
② 自己複製能力をそなえていること
③ 代謝活動―外から栄養をとって、体を動かすエネルギーを体内で作りだしたり、自分の体を構成する材料にしたりする、一連の反応をし、利用後に不要物質を排出する。

 たしかに実感的には分かりやすいのですが、なにかもの足りません。生(生命体)と死(物質)が峻別されすぎていて、生死の境目にある中間体という微妙な状態がいかに重要であるか、という認識や発想がうかがえないからです。
 たとえば、『生命と非生命の境界、最初の生命、進化、生命創造など やさしくわかる生命の科学』(ニュートン別冊、2014)という題名が示すとおり、(ウイルスのように)生命と非生命の境界や中間域にあるものが、問題なのです。

 

生命と非生命の間

 ちなみに、同誌で小林憲正・横浜国大教授は、さらに議論を進めます。生命の原材料を地球の内外と宇宙塵に求めたあと、氏は地球上の生命について、生命指数をLとし、物質(非生命)はL=0、現在の生命をL=1とすると、私たち(地球生物)の共通祖先が誕生する前には、0L1(生命と非生命の間)の時代があった、と述べています。

 以上のような考察からして、生命と非生命の間は、じつはとても重要な概念であると、推し測ることができるのではないでしょうか。

 

植物と動物の《旧生命体》

 食品には古来、もとの生命体の形をとどめたままの乾物があります。植物性では昆布・椎茸、豆類や穀類、動物性では貝柱・アワビ・煮干し・干鱈(ヒダラ)など、枚挙にいとまがありません。これらは死後あるいは収穫直後、一定の熱(風)や乾燥処理を施されて腐敗を免れているだけでなく、生きている時よりも風味が豊かさを加えるので、特に中華料理で珍重されているわけです。

 また、ジュースやジャム/プリザーヴなどの果実加工品のように、原型をとどめないが加工方法によってもとの生果とはまったく別種の風味を帯び、かつ長命のものもあり、ワインもまたその一例です。

 食品以外では、草木などの植物。たとえば木はその形態をとどめたままの木材から木製食器、炭まで。植物繊維は紙・衣類などに形をかえて重要な生活資源になっています。コルクは前者の一例です。

 

中間体の呼び方は?

 これらのように、命を宿している「生命体」と、生体反応を失って腐敗しつつある「死体」との間にあって、独特な特徴、独自の意味と生命活力を有する中間体を、私たちはどう呼んだらいいでしょうか。「死後生命」afterlife livingでは、浮遊する魂とか幽霊(死後霊?)もどきゆえに敬遠するとしたら、「転化生命」transformed lifeと位置づけ、「第二次生命体」secondary lifeとでも呼びましょうか。

 たとえば、ワインにもコルクにも、まるで第二の生命が宿っているかのような、ほとんど永遠の生命力vitalityがあると私には感じられます。あたかも第二の生命が宿るかのような、内面的な賑わいと活況ぶりを見るにつけ、私はそれらを縮めて単に「生命が宿る」と呼びたくなるのです。

 そこで、あらためて生命とはなにかを、問いなおすとしましょう。その参考になるのが卓見に満ちた『生命を捉えなおす―生きている状態とはなにか』(清水博・著、中公新書、初版1978、増補版1990)です。清水さんは、生命を「生きている状態にある系(システム)」として、おおむね次のように柔軟な定義を下しています。
 生命とは、(生物的=動的)秩序を自己形成する能力である。(増補版、p.96-7、要旨)

 以上のような清水さんの定義をふまえ、生命・非生命の境界にある特定の存在にたいして、あえて「中間生命」の域を超えるものとして、「生命」という言葉を用いたいと思います。

 

ふたつの仮説

 そこで、《ワインには生命が宿っている》と、《形には生命が宿っている》というのが、わたしの仮説です。ワインにも形にも、生命lifeとか生命力vitalityとしか呼びようのない働きと作用があるという考え方です。

.第一テーゼ:《ワインに生命が宿っている》

 さて、この第一テーゼから、《命を宿すワインの扱い方》はどのようにすべきか、という問題意識がうまれます。むろん、最初から死んでいる、あるいは死んで生まれたようなワインは問題外ですが。ワインの生命を損なわない扱い方は当然として、《生ける姿をよく保つ》ための輸送・保管方法は、まず、どうあるべきでしょうか。温度・湿度対策や、光・振動対策の方法については、ほぼ理屈はわかっているので、あとは少なからぬ時間と費用を要する綿密細心の実行あるのみ。ワインのコンディションと状態のなかに、どのような扱いを受けてきたかが、歴然と刻み込まれているはずです。

 さて、なんとかワインの持ち味を損なわないような輸送と保管のプロセスをへて、コンディションのよいワインが入手できたとしましょう。
 次の問題は、《ワインの持ち味、すなわちワインが本来持っている可能性を発揮させる》には、どうしたらよいかです。つまりは、望ましい試飲/飲用環境のあり方と、環境設定の仕方にまで、踏み込むことになります。環境設定の具体的な方法については、すでに私が過去のエッセイで縷々述べて来たので、ご参照ください。

 

《ワインと人間との間柄》という視点

 ここで、ワインだけでなく、ワインを味わう人にとっても、好ましい生活環境と飲用環境がある、という視点に立ちたいものです。ワインを飲むとは、《ワインと人間は、同一の時間と空間を共有する》という状況や関係にある、ということ。もっとやさしい表現をすれば、人間はワインと共存しているし、共存を迫られている、という言い方ができます。
 だとしたら、《ワインと人間の双方にとって、好ましい環境はなにか》というふうに、問題を立て直すべきではないでしょうか。つまり、ワインを単なるモノ扱いするのではなく、同じ地平に立って、ワインと人間をともに生命を持った存在として意識すべきなのです。
 ワインの持ち味をより良く発揮させるには、同時に、背景として人間への理解が欠かせないことになります。(なお、モノとしてのワインの扱い方は、難しくありません。グラスの形状・材質、ワインの温度などの物理環境については、当不当は別として、おおかたのワインのガイドブックや教科書類で流説されているので、省略します。)
 「正しく飲む」“bien boire”ためには、健全な精神と肉体がたいせつなこと、言うまでもありません。が、ひとまず精神は措くとして、健康でなければ味覚のバランスも崩れ、ワインの微妙で奥深い味わいが十全に感じとれません。ところが、都市化された現代の生活条件はといえば、都市と建築物を含むほとんどすべての空間が人工環境です。
 都市で集合的な近代生活を営むためには、電気・ガス・石油などのエネルギーと、上下水道と衛生施設といったインフラ・ストラクチャー、それに発達したコミュニケーション機能が不可欠であり、そのような意識がいつのまにかビルトインされているのです。
 だから、精神とともに身体もまた、人工性に馴化して野性を失い、感性を歪めているおそれがあります。

 

見えない敵、電磁波

 他方で都市の構造とネットワークが、光以外の電磁波を放ち、常時これまでの歴史に無かったような、《電磁波の包囲網に、現代人は囲まれています》。多かれ少なかれ、電磁波は人間の身体と精神の健康を蝕むだけでなく、ワインの味わいを損ねることは経験的にたしかです。からして、ワインと人間にとって望ましい共生空間の必要条件の一つは、電磁波をシャットアウトすることだと、見当がつきます。
 そのためには、電磁波を発生する(マイクロ)モーター内蔵の電気器具や、携帯電話などのあらゆる通信器具、それに伝導性をもつ金属類をなるたけ遠ざけることが必要になります。これを完全におこなうことは現代ではもはや不可能だとしたら、戦術を転換して、ワインを飲用する狭い《ミクロ環境の電磁波フリー化》を図るしかありません。
 このような「環境設定」をするには、原初に還って家屋を木と石を主とした建築構造にし、電磁波フリーを実現すればいいことになります。あたかも、本格的な音楽再生装置をつくるには、建物の土台から作り直さなければならないようなもので、これは理想的な原理ではあっても、普通には出来かねることです。(ちなみに、ラシーヌの試飲室は、そのような設計思想が背後にあります。)
 思想としての「原初に還れ」が不可能だとしたら、《ミクロ環境の電磁波フリー化》戦術をとり、効果的な環境設定をするしかありません。これについては、私が過去のエッセイで述べてきましたが、身近な電気製品類と、電磁波を増幅するような形状の品々を遠ざけるだけでなく、積極的に電磁波を防ぐ機能がある品物をもちいることです。高価な市販品もあるようですが、効果が疑わしいモノも少なからずあるので、わたしは廃品のコルクを活用したらよい、と個人的にアドヴァイスしています。そこらに、ワインボトルから抜栓したあとのコルクが、「あるじゃないですか?」
 コルクについては、《ワイン原論・番外編コルク私論》2017.03.29をぜひご参照ください。

 

Ⅱ.第二テーゼ:《形には生命が宿っている》

 さて、ここでもうひとつの《形には生命が宿っている》という視点から、考えましょう。形に生命があれば、生命作用があるはずだから、《形の生命》と《形の力》とは近い関係にあることになります。が、形をめぐるさまざまな論議をみると、形そのものに命があり、作用力がある、という踏み込んだ議論は残念ながら少ないのです。透徹した美術史家や美術哲学者、たとえばアンリ・フォシヨン『形のちから』や、ルネ・ユイグ『かたちと力』でも、形の作用にはほとんど言及されていないから、自分で考えて拙い言葉で述べるしかありません。
 その際に形を、点(線の交点)と線(二面の連続した交点)のような幾何学的定義ではなく、紙片のような二次元の空間に、具体的に線と面で画定された、図案のような形状を考えます。また当然、立体的な三次元構造の形状も考察すべきですが、それは二次元形状の応用として扱えると考えて、二次元の形からはじめましょう。

 

エチケット周りを巡って

 さて前回は、《形に生命が宿る》とすれば、どのような形状の作用力が強いか、というテーマを論じたすえに、ワインのボトルに貼られたエチケット(=ラヴェル)の形状――丸・楕円、正方形・長方形、4端R型長方形など――と、エチケットに描かれたデザインの形状(同上)が、ワインの味わいにポジティヴな影響を及ぼすかどうかを、いくつかの項目と例を挙げて論じてみました。
 じつは、エチケットが印刷されている媒体―圧倒的に紙が多い―の材質と色調によっても、ワインの味わいが大いに左右される。とすれば、多岐にわたる要因とそれらの複合的な組み合わせによって、さまざまな影響が生じうるので、単純になにが良いと決めつける訳にはいかないのです。なお、色の問題については、項をあらためて論じることにして、ここでは触れません。

エチケット/ラヴェル問題のありか

 そこで、エチケットについて、さらに議論を進めなければなりません。というのは、ご存じのとおり、ラヴェルには、いわゆる表ラヴェルと裏ラヴェル、輸入業者等表示ラヴェル(通称「インポーター・シール」)の3種類があり、もしその紙質がそれぞれ異なるとすれば、異なった素材の物質が合い接して電磁波が生じ、ボトル内のワインに悪さをすると考えられるからです。

ならば、各種のラヴェルは同質の素材であることが望ましいわけ。ですが、現実問題としてはすべての関係者がこれらの問題を理解し、生産者がインポーターに協力しないかぎり、エチケット素材の統一はむずかしい。のみならず、エチケットの形状とデザインの選択という重要な問題にくわえて、ワインの味にとっての大敵である《バーコードとQRコード》を排除しなければならない、というややこしい問題までが追いかけてきます。

作業方法―ヌード化または無力化―

 もし、生産者・インポーター・流通業、つまりはワインを業とする者の全体が、これらの難問をクリアーできないときは、どうしたらよいでしょうか? 論理的にいえば、飲用する際に、(問題の大きな)エチケット類をはがすことしか、ありません。以前に書いたエッセイ「ヌーディスト宣言」Nudist Manifestoで詳しく述べたように、できたらヌード・ボトルにすればよいのです。
 ビンを裸にできないときは? なんらかのコード類対策を講じて、これらを無力化するのです。その方法としては、コードが印刷されている部分に白い紙を貼るか、バーや図案めいた記号類を塗りつぶせば、空中を飛び交う電磁波がエチケット上の手がかりや足がかりを失って空振りし、ワインへの悪さができなくなる、というめでたい現象がおきます。

作業場所―店か、自宅か―

 ただし、以上のような準備作業をレストランやワインバーで飲み食いする前におこなうには、よほどの勇気がいります。なによりもまず、店側の寛容・理解・協力が必要ですが、飲食店側はワインには興味があるとしても、ボトルを取り囲んでいる見慣れたものが、ワインの味を妨げているとは思いもよらず、まして、その原因を取り除こうとは考えないから、彼らや彼女らの説得は楽でないと覚悟しましょう。
 とすれば、まずは自宅で《除害作業》をおこなって、効果的な作業方法を模索し、身につけることです。いったん、その作業が驚くほど有効なことが確認できれば、因果関係にも確信を持つことができるはずです。
が、試行錯誤をする際は、化学実験とおなじように、作業ステップごとに、ワインの味わいの変化を確認し、なにがどのように有効(あるいは無効)であるかを体験し、帰納的に因果関係を考える癖を身につけてください。
 ともかく、それらの有効な作業によって起こる劇的な変化をいったん味わえば、自分のワイン観が変わること必定。それまで自分はなにを味わってきたのだろうか、と深刻に自省せざるをえなくなるでしょう。
 さて、このへんで《エチケットにかかわる形》の考察を終え、別の形―《ボトルと栓》の形状―について、珍説をご披露します。

 

Ⅲ.かたち(展開編)―円柱形のもつ深い意味

円柱形は、生命の証し

 《動物も植物も、およそ生命があるものはみな、円柱形をしている》という独創的な学説があります。これを初めて唱えたのが、アメリカでバイオメカニクスという、「植物から動物まで、ひろく生物を力学的な観点からとらえようとする学問」を起こした、スティーヴン・A.ウェインライト教授。小ぶりの著書『生物の形とバイオメカニクス』(東海大学出版会、1989)を一読すれば、これは際物どころか生物・化学・物理の諸学をふまえた、創見にとんだ体系的な科学書であるとわかります。訳者のまとめを引用させていただきましょう。
 円柱形の体が、進化の過程でいかに生じてきたか(…)。

(1)単細胞の生物が、細胞の外に高分子の重合体を分泌すると、これが接着剤となり、細胞同士がくっついて小塊状の多細胞生物になる。

(2)細胞外の重合体間に交差結合を導入することにより、この生物は重合体を使って、かたい材料もやわらかい材料も自由につくりだすことができる。

(3)繊維がある方向に配列すると、細胞の塊も、その方向に伸びていく。つまり円柱形になるわけである。

(4)体が円柱形になれば、上と下、頭と尻、背と腹、という極性が生まれ、また進行方向も決まるので、流線形の体形が生じてくる。

 この学問的にも要を得た紹介は、原著者のもとで学んだ訳者、本川達雄さんによるもの。東京工業大学名誉教授の本川さん自身がまた、『生きものは円柱形』(NHKライブラリー、1998)などを著した、遊び心あふれる多才で創造力ゆたかな学者なのです。

 

ワインと円柱形の深い関係

 そこで、生命は円柱形であり、円柱形が生きもののデザイン原理だとしたら、この大胆で説得的な学説から、なにを学ぶことができるでしょうか。身のまわりでなにか思い浮かびませんか。
 そうです、ワインという命ある液体を湛えるボトルの形状と、コルクという栓の形です。特にボルドー型のボトルをよくみれば、本体とビン口周辺がともに円柱形をした二段構えの構造をしていますし、コルクは円柱形そのものではありませんか。つまり、近代ワインはその成り立ちからして円柱形とすこぶる縁が深い。ボトルとコルクの形状は、たんに効果と効率を優先する生産条件から生まれただけでなく、生命の維持と活性化と深い関係があったのではないか、と想像されます。

 そして、コルクにワインの生命賦活効果があり、ビン型も生体適合的だとしたら、ワインは二重の円柱形効果を楽しんでいるのに相違ありません。思わず、「歌う学者」本川さんとともに、「円柱形の歌」でも口ずさみたくなるではありませんか。(了)

 
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