ファイン・ワインへの道vol.9
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寺下 光彦の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
1000年の眠りから覚めた龍、または豚骨ラーメンが突如、京料理に? inトスカーナ
“江戸時代の天皇”といえば、政治の実権を失って4~500年も経ち、普通の庶民からはまるで忘れられた存在だったそう。「なんだかそんな人がいるらしいという話だけは聞いたことはあるようなないような。ホントにいるんだかいないんだか」みたいなぼんやりした存在で、浮世絵などには幽霊みたいな絵で描かれることさえあったのだとか。
栄えあるトスカーナで、と言うにせよ。悲喜交々が常のトスカーナで、と言うにせよ。まさにそんな限りなく亡霊に近いほど、影も存在感も薄々のワインであろう。ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチアーノは。
卓越したワインとしての名声の歴史はトスカーナ随一なだけでなく、ヨーロッパ全体でも屈指のもの。9世紀末、トスカーナという言葉さえなく、彼の地がドイツを拠点にする神聖ローマ帝国領だった時代の葡萄畑の権利譲渡に関する書類が今も残り、16世紀にはローマ教皇パウルス3世の食料番であったサンテ・ランチェリオが「教皇が偏愛する完璧なワイン」との記述を残している。また、はるか遠くフランスでも、18世紀に“全欧の知の権化”とも言われたヴォルテールがこのワインに言及し、さらに遠くアメリカでも第3代大統領トーマス・ジェファーソンがこのワインを愛飲したという。
なのに。
はるかに歴史の浅いモンタルチーノや、トスカーナ沿岸地区にさえ、ワインとしての知名度も重要度も、とっくに抜かれ去ったこと甚だしい限りなのも、皆様ご存じのとおり(銘醸ワイン産地としてのモンタルチーノの歴史は、まだわずか100年少々なのに)。さらに最近ではすぐ近くのダブルッツォ州の、タイプも葡萄品種も全く別のワイン、モンテプルチアーノ・ダブルッツォにさえ人気の点で劣るようにさえ思える。確かに、アブルッツォのモンテプルチアーノは葡萄品種を指し、トスカーナのモンテプルチアーノは町及び生産地域名を指すというトリッキーさは、時にソムリエにさえ看過されるほど同地の不幸に追い打ちをかけているとも思えなくもない。
しかし。
ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチアーノを、いつまでも江戸時代の天皇的存在にしていていいのだろうか?
ここ10年ほど、このワインを見放していた方は「よいよい。放っておけば」と言うかも知れない。ここ4年間毎年、トスカーナのアンテプリマで2009~2014の全ヴィンテージの主要生産者のワインを試飲する機会を得た筆者としては、「それは、最も勿体ないトスカーナ・ワインの選び方」だとさえ思える。
2000年代中盤までのヴィーノ・ノービレと、2010年前後以降のヴィーノ・ノービレは、まるで別のワインとさえ思えるほど進歩している。それはまさに、突然白鳥になった醜いアヒルの子、とさえ思えるほどでさえある。
その原動力は、新たにいくつか卓越した情熱と職人気質ある若き気鋭生産者が誕生したというだけでなく、2000年代半ばまで彼の地の名声を穢したとさえ思える著名・大手生産者が改心し(?)、180度近く方向転換し、看過できないピュアで洗練されたサンジョヴェーゼ・ワインを造り始めたという動向にも、大いに支えられている。
そんな近年のモンテプルチアーノの豹変ぶりを、最もダイレクトに舌で体感していただけるだろうワインは、あろうことかアヴィニョネージ、である。バリック嫌い、過剰抽出・バワー志向ワイン嫌いには、名前を聞いただけで身の毛がよだつ生産者だろう。はい。私もそうでした。
ところが2008年にオーナーが変わった後、まるでこってり特濃豚骨ラーメン専門店が突如、上品な薄口出汁で売る京料理店に暖簾替えしたほどの豹変ぶり。特にリゼルヴァは、かつてはカベルネ・ソーヴィニヨンを15%もブレンドし、バリック新樽100%で熟成させていたのだが、2010年以降全ての畑をビオディナミに転換し、ノーマル、リゼルヴァともサンジョヴェーゼ100%。熟成にも25hl以上の大樽を中心に、バリックは2年以上のものを20%以下にとどめるようになった。
その結果生まれる、凜と澄んだチェリー、スミレ、少し紅茶のアロマの美しさと、シルキーかつ妖艶なセクシーさのある酸とタンニンは、トスカーナでこのモンテプルチアーノのサンジョヴェーゼにしかない魔性の奥行きが、格調高く表現されていると思えるほどのものだ。ちなみに女性オーナー、ヴェルジニー・サーベラス氏ヴィルジニー・サヴェリス氏は幼少時から風邪をひいてもほとんど通常の西洋医学の医師にはかからず、ホメオパシーで治療していたという。そんな彼女に「とっておきのワインを開ける時、ビオディナミ・カレンダーの日取り、つまり花の日か果実の日か、葉の日か根の日かは意識しますか?」と尋ねたところ、「先日、やむを得ない事情で根の日に数本の偉大なワインを開けたが、やはり非常に閉じていた。ゆえ、再度来週の花の日に、同じワインを同じ本数開ける予定だ」との答え。なかなかに気合いの入った女性社長である。
もちろん歴史ある大手だけでなく、若き気鋭の真摯な仕事も、モンテプルチアーノの栄光の奪回に力強く貢献している。その筆頭が【イル・マッキオーネ】。知名度で先行するイル・マッキオーレとは名前以外の類似点は一切なく、トレンティーノ生まれの2人の若き兄弟、シモーネとレオナルドが、徹底したビオロジックと低収穫を貫徹し、大樽長期熟成で生むワインは、ケタ外れにディープな余韻とその荘厳さが圧巻至極。一瞬の間に、ヨーロッパの全教会のステンドグラスが頭に駆け巡るような美しささえ湛えている。
この兄弟、2009年以降はマセレーションを通常の倍以上、50日まで伸ばしたキュヴェをリリースしたり、また極々少量の実験ながら、ピラミッド型のフレームの下での瓶熟成を試みる(ピラミッド・パワー熟成?)など、ユニークで柔軟な視点もあり、さらなる伸びしろが期待できる生産者である。
ただし、このイル・マッキオーネのワイン、移動には非常にデリケートで、例えばワインショップで買って帰ってすぐ抜栓したりすると「ワインというより塩水」みたいな味になることさえある。ゆえ、購入時には、最終抜栓地(ご自宅でもレストランでも)に、最低2ヶ月は静置してから開栓されることを強くお薦めしたい。
それにしても、生産者が口を開けば皆「我々はトスカーナで最も長い、1000年の歴史を誇るワイン産地だ」と口を揃えるこの地で、その栄光と名声に対する説得力あるワインが生まれ始めたのは、どうしてわずかこの10年ほどのことなのか? その疑問を、西暦1008年の創業以来、1000年以上の歴史を誇る同地最古のワイナリー、コントゥッチの次期オーナー、アンドレア・コントゥッチに「もしかして、この町の人、産地が有名すぎて怠けてたんですか?」とのフレーズを添えて尋ねてみた。叱られるのを重々覚悟で。
意外にも答えは、
「怠け者だったかどうかはひとまずおいておくとしても、あまりに伝統的すぎたという面はあったかもしれないね。特に収穫量などについては。でも、今の貴方の質問は、この地のテロワールの真の偉大さと、かけがえのなさにしっかり気づいてくれたからこその質問なんじゃないのかな?」
はい。まさにおっしゃるとおり。筆者が今、毎年2月のトスカーナ一周ツアーで一番楽しみなのは、モンタルチーノよりもモンテプルチアーノの試飲です。まさに今、1000年かかってその偉大なテロワールの底力と潜在力をやっと顕在化さてきた、眠れる獅子。
しばらくご無沙汰だった皆さんも、久々に試されてはいかがですか?
ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチアーノ。
いい発見があると思いますよ。
追伸:
上記のコメントの多くはこの数年、「ヴィノテーク」でのトスカーナ取材時に得たものです。この5月1日発売号には「サンジョヴェーゼ・ピュアリズムの勝利」と題し、この数年、現地で大いに進むピュア・サンンジョヴェーゼ・シフトについて報告しています。
現地の歴史的生産者が大胆にも「最近の優良クローンの力で、今のキアンティはもはや、1980年代のものとは全く別のワインだ」と語るなど、爆弾発言(とさえ思える生産者の声)を多数記載しています。ご笑覧いただければ幸甚です。
今月の、ワインが美味しくなる音楽
耳でふれる、天女の羽衣。ふわり、澄んだ音の質感に酔う。
V.A.『MUSIC FOR MEMORY-COMPILED BY CHEE SHIMIZU』
チル・アウト、アンビエント・ファンの間で、この2年ほど激しく話題になっているイタリアの古老アンビエント・アーティスト「ジジ・マシン」。その発掘・再リリースで全世界から熱く注目される、オランダのミュージック・フォー・メモリー・レーベルの日本編集コンピレーションです。エレクトロニカをアコースティック的に、ほっこりとゆるやか、軽やかに響かせるメロウ・チルアウトは、まるで自然そのものの息吹のような心地よさ。特に、知る人ぞ知るスペインの孤高のニューエイジ・ギタリスト、スーソ・サイスのトラックが4曲も収録されているのは貴重。まるでとっておきのグランクリュ・ピノ・ノワールが与えてくれる陶酔感のような感覚が、特にトラック13からは味わえるようにさえ思えます。
https://www.youtube.com/watch?v=V-vIJ5jZ76U
今月のワインの言葉:
「ワインのお陰で、私は物事を正しい遠近感において見ることができた」 アルフレッド・ダフ・クーパー(20世紀前半、英国の政治家、歴史家)
寺下光彦
ワイン/フード・ジャーナリスト
「ヴィノテーク」、「BRUTUS」、「MEETS REGIONAL」等に長年ワイン関連記事を寄稿。イタリア、ヴィニタリーのワイン品評会・審査員の経歴も。音楽関連記事も「MUSIC MAGAZINE」に約20年、連載中。
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