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エッセイ:Vol.112 「ワインの生命」問答

公開日: : 最終更新日:2016/11/07 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

Ⅰ. 前置き―議論の筋道のために

ワインは応えるか、応えないか

 ワインは、飲み手が心の中でなにかを尋ねれば、打てば響くかのように、応えてくれるところがある。まるで、フランソワ・ヴィヨンの詩(「その昔の美姫を讃えて」、『遺言詩集』)のなかの「木霊(こだま)/エコー」のように。ただ、ワインが反応するといっても、飲み手との相性しだいのようであって、ワインはだれにでも応じてくれるわけではなさそうだ。どうやらワインにも好き嫌いがあって、相手を選んで応えるらしい。

 

ワインの自由とは?

 ここでワインをいっそう擬人化すれば、「ワインには、飲み手や応える相手を選ぶ権利がある」とまではいわないまでも、ワインの側に誰にでも応えなければならない義務はない。そこで、ワインと人間はほんらい対等な関係にあるとすれば、ワインにも人間並みの自由を認めなければいけない。これは事実上、ワインにとっての「人権宣言」いや「ワイン権宣言」であるのにひとしく、いわば、ワインの〈人間からの独立〉革命になる。ワインの自由を論じれば、いきつくところ、人間の横暴を排する「ワイン革命」論になりかねない。けれども、こんな調子で純粋に論理だけを突き詰めれば、チェスタトンもいうように狂気に近づき、荒唐無稽な空論におちいること必定。というわけで、ここは少しだけ元に戻ることにしよう。

 

飲み手とワインは対等か?

 ワインにとって、「この人には飲まれたくない」人がいたとしよう。哀れにもお金で買われたワインには、なにも言えず、飲まれるのを断れない―ハンク・ウイリアムズが絶唱した同名の歌の主人公である、木彫のインディアン「コウライジャ」Kau-ligaのように。だったら、ワインはどうしたらいいのか。「応えない」、すなわち、無反応を決め込むしかない。嫌いな相手にはソッポを向き、せいぜい美味しくないように振る舞えばいいのだ。
 じっさい、あるワインにとって相性が悪い人がそれを飲んでも、ワインがいっこう良さを発揮しないだろうことは、人とワインの立場を逆転してみれば、すぐに想像がつこうというもの。だとすれば、人間の側がワインとの関係性を回復し、(もしかしたら、ワインの方がその人間よりも上等かもしれないにしても、)飲み手がワインと対等な気持ちになる、という心構えが必要になるだろう。横柄な態度でもってワインを見下すようでは、ワインからなにも引き出すことはできないから、結局は損をするだけです。

 

ワインの反応の例―ワインとガラスの関係

 たとえば、注がれたワインのグラスを、ワインを注いだ元の(栓をしなおした、ワインが残っている)ビンに対して、寄り添うように近づけてみよう。すると、容器が別なのに、隔てる両ガラス(ボトルとグラス)の壁をとおして、グラス内のワインにポジティヴな反応がみられる。微妙に、ときに歴然と、味わいの深さが増すのだ。これをわたしは「共鳴現象」、レゾナンスと呼ぶ。まるで、胎内での母子共感作用のように。

 このように、ワインが生きているかのように複雑な(生体)反応を示す、という現象を目の当たりにすると、《ワインには魂や心、深層意識がある》という仮説を置きたくなる。

 

ワインの生命

 これをワイン独自の生命現象であるとすると、ワインという物質を生命体(life;集合名詞)とみなし、ワインに生命(いのち)(life;抽象名詞)があるとみなしたくなる。

 そこで、架空の〈ワインの生命論議〉をするとしよう。以上に見たような、特異なワイン観と“life”観を持っている《主人》に対して、その若き友人でおなじくワインを嗜む、健全な精神の持ち主である《客人》が、対座するという場面である。客人は、主人の説におおいに当惑して、疑問を投げかけるはずである。すなわち、「ワインの生命」問答と名打った由縁である。

 

Ⅱ.生命問答

客「なぜ、あなたは、しつこく生命(いのち)にこだわるのですか?」

主「それは、わたしがしつこいからではなくて、ワインがあたかも生命があるかのようにきちんと振舞うからです」

客「やや、ワインのせいにしましたね。でも、『振舞う』なんて言葉をつかうと、まるでワインには意志があり、考えて行動するかのようじゃ、ないですか。いったい、モノに生命があり、意志どおりに動けるとでも、思っているのですか?」

主「まいったね。といっても、君に降参したという意味じゃないけれど。難問を突き付けられてしまった。でも、いい質問だよ。モノとよばれる物質と生物との違いはなにか、という古典的な問いだからだ。
 たしかに、一般的にはモノには生命がなく、だからもちろん、思考も行動もできない、それに対して、生物には生命があると思われている。だから、生命とは何かを問い直すことからはじまるのですよ。」

客「そんな、堂々めぐりでは答えになっていない。生命について、訊いているんじゃない。いったい、モノには生命があるのですか?」 

主「おっと、待ちたまえ。まだ、先があるのだから。たしか、ロシアの思想家、ベルジャーエフは、物質には生命があり、だから精神がある、といっているはずだよ。」

客「ロシアの神秘主義者の意見なんかを尋ねているんじゃない。そんなことをいえば、ノーベル賞を受けた科学者の利根川進さんに、かの博識で論理明晰な立花隆さんがインタヴューした本の名前も、『物質と精神』でした。シュレージンガーにも同名の著書がある。それは さておき、あなたの考えを述べてください。」

主「詰問調ですね。モノとか生命について、科学をふまえて論理的に話そうとすると、きちんと定義しながら話さないといけないので、つい、ややこしくなるんですよ。」 

客「あなたには、やさしいことを難しく話すという、悪い癖がある。難しいことをやさしく説明するのが知識人の役割だって、あなたはいつも仰っていたじゃないですか。」 

主「こいつは、一本とられた。それは、僕ではなくて、井上ひさしさんの言葉だったはずです。たしか、『難しいものをやさしく。やさしいものを味わい深く』でしたっけ。どのみち、ボクは知識人ではないけれどね。
 それでは、具体的に話をしましょう。モノの代表を石、イキモノの代表を木としましょうか。」 

客「ちょっと待って。生物はふつう、菌類を除くと、植物と動物に分類されるから、生物の代表を植物にするのは、おかしい。木と虫といったぐあいに、動植物の二代表制にすべきじゃ、ないですか。」

主「いきなり、待ったがかかったな。分かりやすいから、たとえば木としただけで、他意はないのだけれど。まあ、本当のところ、ワインはブドウから生まれ、その親であるブドウ樹の所属する部門は木だから、木を生物の代表とし、木と石の差異と関係性をあとで論じたかったという、虫のいい都合があったのだけどね。
 でも、『一寸の虫にも五分の魂』という諺があるように、虫という動物にも魂や精神があるとしたら、虫でもって―生物はともかく―動物の代表をさせてもいいね。木に魂や精神、あるいは心があるかとなると、疑わしく思われるだろうからね。
 でも本当のところ、木は動きこそしないけど、生けるがごとくに活動しているんだ。木は聴覚以外のあらゆる感受性をそなえていて、外界に積極的に反応して、巧妙な自己保存戦略をとる。それどころか、木には知性がある――というのが、イタリアのステーファノ・マンクーゾ先生の説さ。
 それはともかく、生きている木は生命がある物質であり、枯れた木は生命がない物質であるとすれば、木は生物と物質の二態をとるという、典型的な生物なんですね。」 

客「なんだ、やっぱり、他意があったじゃないですか。まあ、いいや。本筋にもどれば、木にはもちろん生命があるとして、菌類より大型の生物には、国会じゃないけど、植物院と動物院の二代表制をとるのが無難というより必要でしょうね。」

主「よろしい。で、木も虫も、生きている間は、生命のある物質であり、死ねば生命のない、単なる物質である、という二態の現象は認めますね?」

客「『単なる』という形容詞をつけると、単なる物質は生命体より価値が劣るように響くな。死んだモノや死んでいる物質は、生命のある物質よりも、価値が低いと誤解されるとまずい。ここは平等主義を貫いて、物質と、生命や精神、あるいは生物とは、対等に扱わなくてはいけないのじゃ、ありませんか」

主「君もなかなか、いいことを言いますね。そうです、平等はフランス大革命の三大スローガンの一つでした。それに、価値という視点や説明概念を入れたところがいい。マックス・ヴェーバーもいうとおり、価値判断はできるだけ排さないといけません。
 そこで、生物は生きているかぎりは、精神と物質をそなえた「心身一体」の存在であり、生物(life;集合名詞)から生命(life;抽象名詞)が失われると、純粋に物質に転化する、といってよろしいかな。
 心身問題としては、心(精神)と身体(物質)の二元論がデカルトによって確立され、モノである身体を機械構造として扱い、身体の部品をなす各器官も、特化した機能を備える機械であり、たとえば人間は精密な機械部品を統合した機械であることになる。精神は身体という機械に命令を与えて行動に導く、神のような存在となる。」

客「長い演説ですが、いったいなにが言いたいのですか? 生命が失われると、「生命体」 から「生命」を引き算するので、「体」つまり死体=物体=物質が残るとでも? やけに簡単な話じゃないですか。デカルトを持ち出すまでもなく、世界は精神と物質からなるという二元論が成立しているのだから。なのに、あなたは神秘主義者のように、精神と物質の「心身合一」を説きたいらしいから、そこに無理がある。いさぎよく敗北を認めたら?

主「いや、話はここからなのだ。エネルギーにはその担い手である物質が必要なように、生命にも拠り所が要る。その住処が生命体であり、生命現象を司るのが、精神であり、精神と心は脳という物体に宿る。
 ここは養老孟司さんにならって、心は脳の機能である、と割り切ることができる。ただし、脳の機能は、心のはたらきだけじゃないけどね。さてと、そう割り切れば、生命体である心身は合体している、という一元論で説明できるし、生命体は物質と機能の両様を示すというわけなのだ。
 この問題に、今は否定されているハンス・ドリーシュの「生気論」を持ち出すのも一興だろう。現代の分子生物学を職業分野にしている学者先生は、いちように生気論を排撃して、二元論を採ると称している。たとえばDNAの二重らせん構造を解明(あるいは剽窃)した二人組のひとりワトソンのように、どえらい勢いで生気論を叩き潰そうとしている。だけれど、米本昌平さんや池田清彦さんたちが説くとおり、分子生物学連はこっそり裏口で目的論(生命体は合目的的に行動するという見方)を紛れこませているのだ。おっと、話が複雑になりすぎるから、ここで止めておこう。
 結局のところ、どのみち生命体では、精神と物質は切っても切れない関係にあるから、割り切ることは不可能なんだ。つまり、一元論は奇矯にひびき、明らかに行き過ぎだけど、現代の修正された二元論―米本さんのいう「弱い二元論」―にしても、ものごとの一面だけをとらえた説明であって、過度の合理化にすぎないのさ。」

客「えらく簡単な結論ですね。そんな結論にもっていくために、ずいぶん遠回りをしていますね。それに、精神と肉体あるいは物質が切っても切れない関係にあることは、デカルト自身が認めていることじゃ、ないですか。」

主「そうなんだ。両者のつながりをプラス(肯定的)に受け止めるか、マイナス(否定的)に受け止めるか、だけなんだね。でも、プラスに受け止めると、ワインには精神や心、魂がある、という説が生き残る余地があるのです。」

客「なんだ、そんなことが言いたいのですか? 生きているワインは生きていて、死んでいるワインは死んでいる、というだけのトートロジーじゃ、ないですか。」

主「たしかに、この世には死んだワインが多いから、君のように言いたくなるのも無理はない。だから、生きているワインを、ワインとわれらが生きているうちに、飲もうじゃないか。」

客「その結論だけは賛成です。死んだワインは飲めたものじゃないし、死んだら生きているワインでも飲めないですからね。」

主・客「それでは、生きているワインと、生きている我々に乾杯!」

客「ところで、この生きているワインは、なんですか?」

主「酵母は、内部に蓄えた酵素が果たす好ましい触媒作用のさなかに、自身がその生成に一役買ったアルコールのせいで、活動をやめさせられ、死んでしまう。けれども、ブドウが姿を変えたこのワインは、たしかに生きている。さあ、ワインの語るのに耳を澄まそう。」

客「泡の音しか、聞こえませんね。」

主「そこは心眼で聴くのさ。もっと修業して、精神の働きを学びたまえ。」

客「先生には、ほんとうに聴こえるのですか?」

主「先生は願い下げとして、聞こうと思えば聴こえるさ。」

客「なんだか、蒟蒻(こんにゃく)問答みたいですね」

主「精神問答なのです。」

客「精神の活動に、ワインは必要なのですか?」

主「しつこいが、また、いい質問だ。わたしの精神はワインがなくても活動しているけれど、肉体にワインは必要なのだね。ワインにとって、わたしは必要ないけれど、わたしにはワインが欠かせないのです。」

客「なんだ、飲みたいだけじゃ、ないですか。」

主「ご名答。ただし、生きているワインを、ね。」


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