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エッセイ:Vol.102 皮膚—もうひとつの脳

公開日: : 最終更新日:2016/01/04 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

機械は考えない

  ジャン・ルノワール監督に、『ゲームの規則』という陰影と機知にとんだ名作があるが、私はとりわけそのタイトルが気に入っている。人生をゲームとみなしたら、その規則はなんだろうか、と案じるのも楽しい。が、ゲームを人生に類比するのは、味気なくて気が進まない。

  当世、AI讃美の声がかまびすしいようだが、知能の働きというよりは機械の作業に未来が託されているのだろうか。その背景には、自分で考えることを放棄して機械に考えさせようという、あさましい魂胆がほの見えなくもない。いったい、チェスや将棋でもって、コンピュータに名人を対戦させ、勝ち負けを競わせさせて、なにが面白いのか。たかがゲームなのに、まるで命がかかっているような戦争騒ぎである。

  規則だけが支配するロジカルなゲームであればこそ、機械が勝って当たり前じゃないか。過去の手を総ざらいし、あらゆる組み合わせを想定したあげく、人間の虚を突くという「汚い」やり口は、まさしく機械の得意とするところ。紳士はブロンドがお好きで、機械は汚れ役がお似合いなどと、皮肉をいってすますわけにはいかない。ともかく、必勝を期して弱みなき手を配するのは、解法の模索でも思考でもあるまい。

  そもそも必勝パターンを選択させて確実に得た「勝利」をもって、コンピュータの完勝などと持ち上げるのは、馬鹿げている。マシーンの背後には、操っている人間、じつは機械の召使いが四六時中つき添っているのに、なぜ、見えないのだろうか。いつものわたしの口癖でいえば、見えないものを見ることが肝心なのである。

 

見えないものを見る

 そういえば、湯川秀樹さんの『目に見えないもの』(講談社学術文庫所収)という戦前の作品のなかに、「目と手と心」という示唆にとむエッセイが収められている。氏いわく、物を造るのには「手」が、物を知るには「目」が必要とされるが、目は自然の表層しか見ることができない。顕微鏡やエックス線発生装置という機械によって肉眼が補強されて、初めて自然の本当の心を見抜くことができる。が、形あるものとしての機械の背後には目に見えない自然力があり、物も力も不動の自然法則に従って変化していくものであることを忘れてはならない‥‥。

  じつに含蓄にとんでいるではないか。話の柄が大きくなったので、あえてパウル・クレーの芸術論を持ちだせば、クレーは「芸術は見えるものを再現するのではない。(見えないものを)見えるようにするのである」という。とすると、芸術は補助線のような役割をはたすのだろうか。いずれにせよ、見えるはずのものが見えないという変チキな世界など、論外なのです。が、もっと問題なのは?

 

考えない人間

  機械もさることながら、考えようとしない人間は、もっと問題である。考えるとは、問題を自分で見つけ出して、みずから解法を工夫すること。だとすれば、与えられた問題に取り組むなんて、ちっともおもしろくない。なのに、与えられた問題ですら考えてみようとしないのは、さらに問題である。考えることは他人に任せて、自分はその結果だけを利用しようとするのは、ほとんど寄生虫的な発想といってよい(考えることなど、召使いにまかせておけ、といったのは、高踏派作家ヴィリエ・ド・リラダンでしたっけ)。

  いったい考える手間を惜しんでいて、なにが人間なのだろうか。「問題のある存在」としての人間では、シャレにもならない。あたりを見まわせば、考えているフリをするやからもいるし、聞きかじりをあたかも自分の意見であるかのように装う者もいる。しょせんそんなことは、外からすっかりお見通しなのに、気がつかないとでも思っているのだろうか、と首をひねりたくなる。

 

頭―使わにゃ損、損

  頭を使うと損する、と思っている人もいるようだ。じつは、O-リング・テストを応用すると、人さまの頭が働いているのか、休止しているかが、明快にわかるような気がする。個人的な経験でいえば、常に頭が働いている人、常に頭が働いていない人、ときどき(たまに)頭が働いている人に、三分されるようである。第二分類に属す人は論外としても、この第三分類に入る人には要注意。ふだんは頭が働いておらず、注意散漫になりがちだから、考えにまとまりがなく、信頼できないのだ。

  だから、せっかく考えられる頭を持っている人は、日ごろから頭に油をさして、たゆまず考える工夫をすることである。考えれば考えただけ、考えが身につくと割りきり、頭の労を惜しまないこと 。本当は思考力があるのに、頭がサボっていた人もかつて仕事仲間にいた。あげく当人は頭のサボリ癖が身につき、はては頭が錆びついて役立たずになり、退社せざるをえなくなってしまった。もったいない、もったいない。

 

どこで、考えるか?

  考えている内容と、脳が機能している部位もまた、外からは見えない。といっても、最近の脳科学は進歩が著しく、いまや脳を傷つけずに外部からニューロンの働きをとらえられるので、この手法(fMRIなど)で思考のメカニズムを探っているそうだが、まだ実用化にはほど遠いようだ。

  ところで、考えるのは頭脳だけではなくて、人間は全身でもって考えている、と私は思う。ヒトは通常、人体の内部に蓄えられた記憶と、外部世界にある情報を検索し、得られた情報を組み合わせて、思考の材料にしている。それでは、人体はどのように情報を得ているのか。いうまでもなく、目、耳、鼻、口などの感覚受容器官を総動員している。視覚、嗅覚、味覚などのセンサーが働いているのだが、ここで触覚の役割を軽視してはならない。ワインのばあいでもおなじだが、テクスチュアこそ、ワインのクオリティ判断の要、あるいは決め手となるのである。

 

皮膚は考える

 人体で触覚をつかさどる器官は、口腔感覚器官だけではない。皮膚こそ、人体で最大(約1.6m²)にして、もっとも感度の高い触覚察知器官なのである。しかも、皮膚は感知するだけではなく、どうやら判断までしているらしいのだ。発生学的にいえば、もともと脳と皮膚はおなじ胎生(外胚葉)に帰属するのだから、皮膚が考えられるとしても不思議ではない。手は脳の延長という考え方は新しくない。たしかに手は脳に刺激を与えて発達させたかもしれないが、私見では考えるのは手より、むしろ皮膚なのです。

 たとえば、手のひら。ワインボトルの外に手のひらを(少し離して)当てれば、ワインの状態をおおよそ察知することが可能である。この判定法はいささか精密さを欠くにしても、さほど難しくなくて誰にでもできるから、ぜひ試みてほしい。抜栓する前に精神を集中させながらボトルの周りに手をかざし、手のひらをつうじてボトル内の情報を集め、かつ手のひらに情報の判断を委ねればよい。たとえば、ワインに奇異な印象や違和感はないだろうか、とつねに自問し、心地よさ(わるさ)の感覚を受けとめることが大切なのです。

 その際、ビンの中のワインに視線、つまり注意を集中させるのが、コツといえばコツ。なぜだろうか。視線をはなつ目もまた、情報を集めるだけでなく、判断を助けるからである。この、目による判定を方法化したのが、O-リング・テスト。ここではその説明は略すが、興味のある方は以前にわたしが書いたエッセイを参照してほしい。

 

手のひらでワインを味わうべからず

 ワインを手にすくい取って飲む人もいるらしい。けれども、手のひらでビン内のワインの質を感じとることと、手からワインをのむこととは、別の次元に属する。ご存じのとおり、手のひらには常在菌が住みついているだけでなく、雑菌の宝庫でもある。たしかにインド料理のように手の指でつまんで食べることは、金属食器をさけるという意味でも、美味感が増して有意義である(金属は食品そのものには影響を及ぼしにくいが、金属食器を手にしたとたん脳の活動が悪くなり、美味から遠ざかるのである)。  

 が、ワインをわざわざ不潔にし、容器としても不便このうえない手のひらをもちいることは、いくら反時代的だとはいえ、否定のための否定でしかない。

ビン口についた指の跡ですら雑菌を宿しており、ワインの風味を著しく劣化させることは、いまや常識ではなかろうか。なんならいちど、手にすくい取ったワインをグラスに移し、グラスから味みしてはいかが? 汚染による味の劣化が楽しめるはずである。

 「手=聖」という観念は、「右手=聖」という間違った固定観念とおなじであり、実際に即して判断されなくてはならない。

 

驚くべき皮膚の役割

  知られざる皮膚機能を研究し、世界の最前線で活躍しているのが、資生堂の傳田光洋さんだろう。氏の驚くべき仮説と結論をすこしだけ引用すれば、皮膚には温度感覚だけでなく聴覚もあり、さらには視覚まで備わっている。光線を感知できるからには、電場や磁場、地磁気にすら感受性があるらしい。脳のなかにある(アドレナリン、グリシン、アセチルコリン、ドーパミンなどの)受容体が、表皮のケラチノサイトにも存在することが、すでに氏らの研究チームで解明されているのだ。表皮最深部のケラチノサイトは、ATPにも感応するということだから、脳機能との対応関係はほぼ明らかではないだろうか。

 真皮をのぞけば1.5〜4mm、うち表皮は0.06〜0.2mmという薄さにもかかわらず、皮膚は奥が深くて第二の脳ともいうべき可能性を秘めた、驚くべき存在なのである。いまや皮膚感覚ではなく、皮膚思考が求められている。

 

参考までに

 港千尋さんの『考える皮膚—触覚文化論』(青土社)は多面的で面白いし、じつに名タイトルではある。が、「皮膚を脳のひろがりとして、脳を折り畳まれた皮膚として考えてみなければならない」なんて殺し文句がはいっているのに、皮膚の思考については考察が意外に浅いのが残念。

 その点、解剖学者の故・三木成夫さんの諸著作はじつに刺激的であり、近年三木さんが再評価されるのも故なしとしない。胎生学、おそるべしである。

 皮膚の可能性を追求する第一人者が、傳田光洋さん。近作のなかでは、『賢い皮膚—思考する最大の臓器』(ちくま新書、2009)と、『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書、2013)を、併読することをお勧めする。前者は皮膚学の基本がわかりやすく説明されているので、初学者にはありがたいし、氏の東洋医学への偏見なき理解は、より深い皮膚—脳関係の解明を約していて、よろこばしい。後者は、氏独自の大胆なアイディアと創見にみちているので、またしても興奮せざるをえない。

  まだ読了していないが、フロイド流の精神分析学を深化させ、独自の視点から分析概念「皮膚—自我」にまで導いたのが、精神分析学者ディディエ・アンジュー(発音は「アンズュー」であろう)の『皮膚—自我』”Le Moi-peau”(言叢社、福田素子訳、1993)。おなじみ松岡正剛さんが「千夜千冊」で紹介と考察をくわえた本書は絶版で入手困難だが、挑戦しがいのある(正確にはありそうな)難物である。

  アンジューの深い考察をふまえたクラウディア・ベンティーン『皮膚』(田邊玲子訳、法政大学出版局、2014)も、視野を広めるのに役立つであろう。

 
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