*

エッセイ:Vol.86 クオリティワインに無限の可能性を信じて

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

自問自答

 どうしてこんなに忙しいのかと、つらつら(うつらうつら?)考えた。

カミュ『異邦人』をもじれば、思うにそれは、「ワインのせいだ」。けれども、「ワインビジネスをしているのなら、ワインが原因なのは当たり前で、それでは答えにならない」と反論されるだろう。

ならば、より正確に「クオリティワインのせいだ」と言いなおそうか。でも、「ラシーヌはふだんからクオリティワインを扱っていると自称しているのだから、それは単に、ラシーヌの仕事をしているせいだと言うにひとしい。これまた、トートロジーにすぎない」と、わけ知りの方から切り捨てられるだろう。それどころか、かえって「仕事の仕方が下手でのろいから、忙しいんじゃないか」と決めつけられそうだ。

 むろん当方の立場としては、そんな言い分を認めるわけにはいきませんね。とすれば、さらに言葉を選んで、ラシーヌ、いや、私の仕事の内容に触れざるを得なくなる。「クオリティワインを探すのが、合田と私の主任務であって、その発掘作業に時間がかかるのだ」と、やや抽象的に言いかえてみる。としても、相手から「やはり、探し方が下手でのろいせいじゃないの。それに発掘といっても、クヴェヴリ・ワインじゃああるまいし、地面を掘ってワインの瓶を見つけ出すわけでもなかろうに」と、輪をかけた反論が予想される。

 仕方がないから、本当のことを言おうか。「クオリティワインは探せば探すだけ見つかるから、努力をすればするほど忙しくなる」、と。あるていど事情通のワイン人ならば、皮肉にこう言うだろう。「そんなにクオリティワインがあるはずがない。クオリティワインの定義が甘すぎて、自分の仕事を増やしているのだろう」と。

 なるほど、一見ポイントを突いているかのような指摘なのだが、じつは指摘の内容がすこし的外れなのだ。そこで、問題を2点にわけて考えてみたい。

 ①クオリティワインの定義とはなにか。

 ②その定義に当てはまるようなクオリティワインは、数が少ないのか。

 

まず、クオリティワインの定義の問題から。

 これについては、「ワイン界の知的ゲリラ」ことマット・クレイマーの名著『ワインがわかる』に準拠するほかはない。本書の第一章「コニサー、あるいは目利きについて」のなかで、マットは「ワインの世界で、品質の高さとはなにをさすのか」と自問している。原文は“What constitutes quality in wine? ”とあり、ワインのクオリティの構成要件を尋ねている。これすなわち、クオリティワインの条件とはなにかを論じていることになる。念のためにいえば、こういう条件を満たすワインのことをマットは“fine wine”(訳語では「上質ワイン」)と言いかえるが、“quality wine”という言葉そのものは用いていない。

 さて、マットのいう要件とは、“complexity/uncertainty”複雑さ/予知不能性、“balance”バランス、“proportion”均整と、“finesse”フィネスである。ちなみにフィネスは、他の要件すべてとからまりあっていて、いちだんと輪郭がたどりにくく、定義に骨が折れるのだが、世界のどこで造られようと、偉大きわまるワインであるためにどうしても欠かせないのが(“an essential in the achievement of the greatest quality for wines”)、フィネスという資質であるとされる。マットは、以下フィネスを巡る博学で愉悦にみちた検討の長旅をはじめるが、それは省略。ともかく、乱暴に縮めれば、フィネスこそクオリティワインの最大で至上の要因であることになる。

 なお、最近もまたマットは、ワインスペクテイター(オンライン版)で、同趣旨のことを別の言葉で述べ、読者の喝采を博していたと記憶する。

 

②その定義に当てはまるクオリティワインは、数が少ないのか?

 まず、「どこでだれが造るどのワインが、クオリティワインなのか」については、十人十色。たしかに、「味の問題」“matter of taste”であって、あらゆる評価は一致を前提としていないし、ワインはその典型だろう。

 なぜならば、クオリティワインの定義はかりに出来たとしても、個別ワインを鑑別するための具体的な判定基準となると、審判者の間ですら一致しにくいし、同じ審判者が同じワインについて、常に同じ評価をするとは限らない。 

 後者の問題については、複数のブラインド鑑評会で同一審査員が同じ判定を下しているかどうかという英文レポートがあった。著者はさるワイナリーのオウナーで、ワイン審査員をも務めている人物で、自作ワインがある審査会で上位なのに、別の審査会では入賞にこぎつけなかったことから疑問を発して、審査結果の統計的な分析をしたという。

 たしかその結論は、同一ワインについて、同一人ですら、異る会で異なる評定をすることが多く、審査結果の褒章など当てにならないとのことだった。この議論がアメリカのワイン人の間で評判になったのも無理はない。アメリカやオーストラリアでは、国内各地でさまざまなワイン品評会が催され、さまざまな金・銀・銅賞などが豪儀にバラ撒かれ、入賞者が広告などに大書するのが習いになっており、これに冷水を浴びせたからである。

 

 さて、ここで議論を単純化するために、クオリティワインではなくて、クオリティワインの生産者に限定し、便宜的に《100のオーダーないし1000のオーダー》を当座の目安の基準とするとしよう。ここで、クオリティワインの総生産者数を、世界で100以下しかないと想定したら、あまりに厳格で少なすぎるだろう。逆に、10000以上とすれば生産者は歓迎するだろうが、ひどくインフレ気味で、選り抜きのワイン愛好家の経験と実感にはそぐわないだろう。少なくとも私は同感できない。つまり、クオリティワインの生産者の数は、100~9999の間くらいという、えらく大ざっぱな見通しを立てても、議論のためにはさしつかえなさそうである。

 ちなみに私は、合田とともにこの50年以上にわたり、主としてヨーロッパの優良ワインと思われるものを意識的に選んで試飲しつづけ、ずいぶんと落胆を味わってきた。また、この15年以上はとくに、ヨーロッパの生産国・生産地域と偉大な生産者を選んで、毎年数回は訪れてきたつもり。だが、ここでも、各ゾーンを代表するような特別な生産者は、多くて数名にとどまるという印象をうけた。有名なゾーンよりはマイナーゾーンに、才能を惜しまずひたむきに努力を傾けている生産者がいる例が多いことに、感銘をうけたものである。

 

 さて、この漫文には、結論がない。が、あえて結論めいたものを付け加えるとしようか。ワイン生産市場には、少なすぎず多すぎずでもない数(仮に100~9999)のクオリティワイン生産者が顕在あるいは潜在するとしたら、特定国の個別インポーターにとっては、ずいぶんと選択範囲が広いだけでない。生産者の個性も哲学も異なるし、また成長途上にある優秀な若手生産者もあるから、開拓すべき余地は無限にある、と言えるのではなかろうか。少なくともそう信じて、私はせっせとフィールドワークに汗水たらして、忙しい思いをしている、と弁明することにしている。


 
PAGE TOP ↑