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エッセイ:vol.85 ネガティヴ・マインドについて

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

発想スタイルとしての加算法と減点法

 典型的な発想のスタイルとして、対照的なのが加算法と減点法である。加算法は、たとえば人の特長を探そうとし、減点法は欠点を探そうとする見方である。誰しも同じだろうが、できることなら私は、減点法的な人間観や発想をする人とは、付き合いたくない。 

 減点法的な人間観では、完全な人をたとえば100点満点として想定し、そこからの落差でもって人を評価あるいは減価する。要するに、あら捜しである。減点法でもって他人を判断するタイプの人を、かりに減点型と呼ぶとすれば、減点型は(自分でなく)他人に対して完全を求めるという意味で、完全主義者なのだろう。が、自分が完全でもないのに、他人を不完全度でもって判定するのはおかしいだけでなく、不遜である。

 それよりは、すこしでも良い点があれば賞揚し、さまざまなポイントを積み上げていく加算法の方が、評価される人間にとっては幸せであり、成長も促されるだろう。少なくとも発想としての加算法は、ギスギスした現代社会で潤滑油のような役割を果たし、人間関係を和らげる作用があるかもしれない。ただし、建設工事などの見積もりに用いられる要素価格積み上げ方式という加算法は、べらぼうな工事費総額を招くので、あまり歓迎できない(冗談)。

 

減点法は、不毛なネガティヴ・アプローチ

 もしかしたら、減点型の人は、他人に適度な距離を置くのが苦手で、人間的な共感作用が乏しいのかもしれない。あるいは、自分が世の中に「正当に」認められていない、という不満がひごろ鬱積していて、それが裏返しになり、まるで八つ当たりのようにして、ネガティヴな人間観へと跳ね返っているのかもしれない。

 そのような減点型にかぎって、えてして勝手な判断尺度を持ちだし、それを恣意的に当てはめ、評価しようとする。平たくいえば、「決めつけ」である。(まるでお前のことじゃないか、ですって? まあ、そういう点があることは否めないけれど、それだけではないと自分では勝手に思っている。)

 こうして減点型は、相手に「ない点」をあげつらう。たしかに、誰しも欠けている点があるから、まるっきり見当はずれではないかもしれない。が、指摘を受けた当人にとっては、たんなる「無いものねだり」としか映らない。それよりも、その人に備わっている点や、その人がこだわり、心がけて行動していることを、どうして評価しようとしてくれないのか、と思うはず。ないものねだりは、しょせん公平な見方とは縁がない。

 書評や批評もまた、しかり。著者独自の観点や積極的なスポットライトの当て方、つまりは問題意識が重要なのだから、それが貫かれて成果を生んだかどうかという視点からのみ、著作は批評されるべきなのである。書評家から「こういう点が欠けている」とか「触れられていない事実がある」と指摘されたとしても、著者とのあいだに問題意識が共有されていないとしたら、そんな指摘は無意味。著者からすれば「だからどうなのだ」というすれ違いにしかならない…ということを、私は丸山眞男さんから教わったが、これは余談。

 

否定の情熱が行きつくところ

 さて、ものごとをネガティヴに見ようとする態度には、ある種の情熱が伴うらしい。これを「否定の情熱」とか、「ネガティヴなモティヴェーション」というらしい。このような否定の情熱に駆られて認識が歪み、はては特定の人物やその行動をことごとく否定し、罵倒することがまるで生き甲斐のようになっているとしか見えない人がいる。いくら相手、あるいはものごとを否定したところで、シーソーゲームのように自分が肯定され、株が上がるわけではなく、とんでもない勘違いなのに。(ただし、ありのままの人間を否定するのとは違って、世間の常識や通念を疑って否定するのは、正しい認識や発見に導くアプローチ法であること、いうまでもない。)

 相手を否定するのではなく、否定の刃を自分に向けるのが、自己否定である。自己否定は異次元への昇華を追求しようとする宗教的な営為でもないかぎり、自己分解酵素のようなものであって破壊作用があるから、無用なわざである。まして自己否定の極致ともいうべき世界への絶望からは、困難を打開する可能性や積極的な展望は生まれない。ちなみに、ナチズムは大衆の絶望を組織化し、コミュニズムは大衆の希望を組織化したものである、という穿った見方がある。

 とかく、ネガティヴなモティヴェーションは、創造につながりにくいものであって、劇薬ならまだしも毒物としてしか作用せず、結局のところ当のネガティヴ人間を暴走させて自己破壊へと追いやりかねない。

 

加算法と減点法の視点を乗りこえて

 ものごとを客観的に見つめようとするばあい、加算法と減点法の両方の視点を併用して、バランスをとろうとするのは、悪くないかもしれない。減点法は、ものごとに影をつけて、いくらか立体的に見えさせるという効果が、なくもない。けれども、±(プラス・マイナス)を合わせてものごとを客観的に把握しようとするだけでは、まだ二次元的あるいは平面的な理解に留まりがち。できれば立体的あるいは複眼的にものごとを見たいものだ。

 いくら世界を分析的にとらえようとしても限度があり、正確な分析結果を積み重ねても、全体像を描けない場合があることに、読者の方々はすでに気づかれているのではないか。

 

見えないものを見る

 その欠を補うのが、《見えないものを見よう》とする視点である。具体的には、まず物質と精神を二分して考え、物質は精神と無縁とする近代科学の方法を疑ってみること。物質自体は可塑的であり、その形状と材質は、プラス/マイナスのエネルギーを発しているとしか考えられないときがある。そして、精神にはエネルギーあるいは積極的な感応作用があると仮定してよい。としたら、物質は精神に感応するのかもしれない。見えるものの世界だけを相手にしていては、世界の可能性をとらえきれないと思うべきではなかろうか。

 ワインでも、減点法で評価すれば欠点をあげつらうだけになり、その特徴をつかみ損ねかねない。逆に加算法だけでいくと、評価軸ごと(たとえば外観や香り)に配点枠が設けられて、それらを加算して総得点とする方式になる。得点はなにか意味ありげに見えるが、じつはなにを意味するかは不明である。たしかに減点法よりはましだろうが、一見合理的に見える加算法でもまた、ワインの特徴の一面しか捉えられない。

 そこで、《見えないものを見よう》とするアプローチの出番である。そもそも、味は見えないものの世界に属すが、ワインは物質であると同時に精神をも宿しているといえる。このばあい精神とは、造り手の精神でもあれば、風土や自然環境が蓄える潜在的なエネルギー(いわゆるテロワール。私流にいえば「気」)でもある。ワインはたんなる致酔性の呈味物質でもなければ、採点の対象でもないのだ。

 ただし、勢い余って、ワインのなかに見えないものを見ようとしすぎる人や、見たいあまりに見えたと錯覚する方もいるようだ。こういう御仁を、見者と呼ぶか妄想家と呼ぶかは自由だが、賢者でないことだけはたしかだ。おっと、なにか、エラスムスの『痴愚神礼讃』(沓掛良彦さんによるラテン語原文からの新訳・参照)もどきの文章になってしまった。

 いずれにしても、この議論は奥が深いので、あらためて論じたい。

 

以上のココロは…

 それにしても、なぜ、このようなことをつらつらと書きつらねるのか。まったく事実に反することを、さも事実であるかのように書き立てたり、一方的に主張したりする人がいて、大いに面食らっているからである。だからといって、いちいち反論するのも大人気ないし、だいいち、時間の無駄というもの。「いくら敵を選んでも、選びすぎということはない」といったのは、オスカー・ワイルドでしたっけ。だったら、そのような現代の病理現象を、ひとまず発想法の視点から整理説明したほうが、頭の体操になるのではないか、と思った次第。さても、暑中のお付き合い、ごくろうさま。


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