エッセイ:Vol.151 「ワインの説明は無用のこと」
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最終更新日:2021/02/01
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
The importance of explaining nothing
―オスカー・ワイルドに倣ってー
前説
結論から言えば、およそ説明は無用の技であって、面白くもなければ、耳にしたくもない。
ところが世の中には、やたら説明するのが大好きな人がいる。この説明大好き人は、わかった風なことをまくしたてるが、聞き手や読み手には迷惑千万である—説明を受けるのが大好きな人でないとすれば、のことだが。
なぜか? 説明するとき、自分が考えたことでなく、他人から得た見当違いな知識を振りまこうとするからである。
だから、これから書こうとすることは知識の説明ではなく、わたしの考え、すなわち仮説だということになる。
ワインの説明はできるか、聞きたいか?
たとえば、ワインの説明である。趣味の塊あるいは権化であるこの液体について、どういう味がするからはじまって、なぜそういう味になるかを、愛好家やソムリエであれ、ワインライターやワイン教室講師であれ、世の説明家はもっともらしく詳細に語りたてる。
どう見てもこじつけでしかないのに、本人は合理的なつもりでいるから、おかしくもあればケッタイでもある。(こういう妙チキリンを見つけるのが、ワインの世界の楽しみだとすれば、悪趣味としか言いようがないが、それは別のおはなし。なおまた、賢いソムリエは、客が問うまで説明はしないものだ。)
だいいち、他人がする味の説明など、こちらにはその他人にあまり関心がない以上、話の中身にも関心がないし、それもまた、たいていは見当はずれ。だいいち、○○風味や××風味、特定の花やベリーの香りがしたところで、それがなんだろうか。例えば、着ている服の生地や織り方、色合いやデザインに見とれて、まとっている人自身について語らないようなもの。いったい、当のワインの質や個性と、どう関係があるのだろうか。
まあ、仮にワインの印象が当たってなくもないとしても、お節介な〈上から目線もどきの説明〉など、とんと聞きたくもない。
まして、その印象とやらの拠ってきたる理由など、屋上屋を重ねる砂上の楼閣、「砂の城」だから、当方にとっては骨も身もない譫言か贅言にすぎない。
なぜか? 砂上の楼閣が空楼である理由を述べるしかあるまい。
仮説についての空論
かつて、次のような論理を仰々しく持ち出したことがある。
1.現状とは、たいがい現状についてのある見方であり、見方とは、ほとんど常に仮説だから、これを現状=現状仮説(①)と呼ぶ。
2.次は、〈原因にかんする見方〉。現在は過去の結果であり、因果関係の産物と見ることができる。とすれば、現状(仮説)とは、特定の過去の要因群が複雑にからまって生じた、因果関係の産物であり、現状仮説を原因から説明する方式もまた仮説だから、これを原因仮説(②)と呼ぼう。
図に描けば、
「現在」①←「過去」②;ここで、「」は現状/原因の仮説、矢印は因果関係を表す。
3.さて、現状仮説①を説明するのが原因仮説②だから、もし前提となる①が間違っていたとすれば、誤った問題設定の上に成り立つ②は、そもそも見当違いであり、説明の役に立たないことになる。怪しげな①を、より怪しげな②で説明したがるから、おかしさも滑稽を極めるというわけ。
4.Q.E.D.(なにが証明されたのか? 見かけ上の外部属性を言い立てても、内部属性=本質の説明にも規定にもならず、両者の因果関係を求めるべくもないこと。ワインの味わいを、過去の造り方や外部環境から説明する方式の危うさが露呈したわけだ。)
テロワール再論
さて、おなじみの、〈ワインは風土の産物である〉ことについて。
こういう考え方を、テロワール仮説と呼ぶことにするが、「風土の産物」「風土の表現」とは、誌的でなかなか気の利いた表現であるが、それが曲者なのだ。
さしあたり風土とは、ブドウ畑の内外をめぐる、風(気候、日照、太陽エネルギー)・水(雨、水分循環)・土(地質―土壌構成、母岩、土壌微生物)と、囲繞環境(地形、森などの景観特徴)からなる総体、としておこう。
ここで、テロワールとは外的環境要因の総体であり、外部環境が一義的にワインのあり方を規定するとみなすとしたら、テロワールがワインの味わいに現れ出るとする「環境→ワイン」仮説(a)になる。この見方は、〈下部基盤の経済構造—生産力と生産関係―が、上部構造を規定する〉という見方に通じる、唯物論ないし還元論的な発想でもあれば、まぎれもない観念論でもある。
テロワールを媒介するもの―中部環境
ここで忘れてはならないのが、〈ブドウの木と人間(ヴィニュロン)〉という、媒介者の存在と役割であり、これをワインの中部環境と見てもよい。媒介者はみずからが不変の触媒ではなくて、樹木は主体的に感じとって作用を内外に及ぼすから受け身一方の存在ではないし、人は他者に働きかけながら自分も変わっていく存在である。
だから、媒介役である両者の存在と交流、両者からの働きかけが、ブドウ果とワインを変えるという側面だけを強調すれば、図式は「中部環境(ブドウの木と人間)→ワイン」仮説(b)になる。(a)と(b)を合体すれば、
外部環境(風土=テロワール、畑)→中部環境(ブドウ樹&人間、セラー)→ワイン
この図によると、テロワールは樹木と人間という積極的な媒介者を経て、間接的にワインに働きかけることになる。その意味で、〈テロワールは可能性に過ぎない〉し、その可能性を現実態にするのは、ブドウ樹&人間という史上まれに見る絶好の組み合わせである。
まとめ
以上の見方を総合すると、外部環境をなすテロワールは、間接的であって、可能的な存在にとどまるものであって、それが取り囲むもの(ワイン)を一義的に規定・制約したり、自らを押し付けたりはしない。〈テロワールからワインへの距離は遠い〉というべきである。
同一あるいは類似のテロワールから、多様なワインが生まれうることは、○○県人(血液型)には××という県民性(性格)があるわけではないのと同断である。
ワインへの直接の媒介役は、中部環境をなす、ブドウという樹木と、この樹木とその産するブドウ果・マストに働きかけるヴィニュロンである。この両者の存在とその在り方、働きかけの方法が、決定的にワインのあり方に影響し、味わいと風味という品質特徴を形づくっていくのである。
以上は常識に過ぎず、福田恆存流に言えば「常識に還れ」という一句に尽きる。