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『ラシーヌ便り』no. 152 「フランス出張報告」

 猛暑お見舞い申し上げます。
 日本の水害、ギリシャの山火事、ハワイの火山爆発…と次々に世界中で毎日のように災害が伝えられるのを聞きますと、他人事ではないと思わずにおれません。被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。今も続く炎天下の復旧作業のご苦労を思い、全国からの寄付金がわけても子供たちのために的確に使われますようにと願っています。

フランス出張報告(7月5日~20日)

1)2018年の作柄
 ローヌ、シャンパーニュ、アルザス、ロワールを訪問しました。どの産地も、5月の大雨によるベト病の蔓延による大きな被害を受けていました。2015年以降、おだやかな成育期間がまったくなく、毎年のように雹害、遅霜、悪天候に襲われ、農業従事者には厳しい状況が続いています。
 ロワールのエルヴェ・ヴィルマードでは、尋常でない雨が2時間で250mmも降りました。地面がぬかるんでトラクターが入れず、トリートメントが遅れてしまい、その間にどんどんベト病が拡大し、収穫は見込めなくなった、と聞きました。
 マルク・アンジェリでは、ブランドリーの古樹が全滅です。今年は開花期の後に雨に見舞われたので、結実不良はなく、当初かなりの豊作がみこまれました。その後大雨が降り、果粒の間にたまった水分によりベト病が広がりました。

 南仏ではミストラルが吹き、湿気を乾かしてくれるのではと思いますが、葉の表面は乾いても、果粒の間の水分までは乾かないようです。穂軸(スイジク)が茶色になり、熟していない健康な果粒を含む房が落下してしまうと、まったく収穫できないことになりますから、そうならないように、それぞれ対策におわれていました。
 ニコラ・ルナールでは、実家からおくられてきたゲランドの塩を希釈して噴霧していました。「ボルドー液は土壌をいためるから、海水を使うのさ」。

 

2)私と“コルナス”のワイン

【ティエリー・アルマンThierry Allemand 訪問】

7月6日、朝6時過ぎにパリのリヨン駅を出発。故障かストライキのためか、遅れ続け、なんとかティエリー・アルマンに11時過ぎに到着しました。トレードマークのあごひげが最近真っ白になったせいか、「70歳になったので、そろそろ引退するらしい」という噂がありますが、ご本人はそんな様子はまったくなくて、年齢は55歳、精悍な顔つきに変わりはなく、全身に気迫がみなぎっています。

2002年にコルナスの丘の上のセラーを建てるまでは、自宅近くのセラーで醸造していました。コルナスの村はずれにあるセラーは、現在も工具類、小さなトラクターと30万km走ったと言われるTOYOTAのジープ用のガレージとして使われています。大きな木製の発酵槽が場所をふさぎ、夕方になると槽の縁にこしかけ、脚でピジャージュをして、その後、縁と蓋についたブドウの果皮などをきれいにふきとり、大きな厚手のビニールで覆って、虫が入らないように、念入りに作業をしていました。発酵中のセラーは、たいていどこもショウジョウバエが大量に飛んでいますが、ティエリーのセラーは整頓されていて、床はもちろんすみずみまで清潔に保たれています。「木製の大樽で亜硫酸を入れないで醸造するのは本当に神経が行き届いていないといけないのだな」と思いながら、作業が終わるのを見守ったことを覚えています。

ずっと変わらないティエリーの仕事場の様子、ひたすら手とピヨッシュで仕事を 続けてきた人の刻印に全身が包み込まれるようです。 

 1988年に当時の八田商店で仕入れの仕事を始めてすぐ、私はボルドーとブルゴーニュ以外の地域のワインを調べ始めました。「コート・ロティでもエルミタージュでもない、コルナスというアペラシオンをよく扱おうと思ったものだ」と今となっては驚きます。サン・ジョゼフとコート・デュ・ローヌより高額で無名な生産地のコルナスは、魅力がないと長らく考えられてきました。コート・ロティ(焼けた丘)と同じく、焦げた斜面を意味するコルナスは、とりわけ暑い土地で、シラー100%故の濃くて不透明な液体は、タニックであか抜けない、というのが当時の印象だったでしょうか。それでも私は「オーギュスト・クラープ」に出会い、長らくそのワインを輸入していました。その後、ル・テロワールでは「ルネ・バルタザール」との取引を経て、「ティエリー・アルマン」と仕事を始めました。コート・ロティとエルミタージュには、何故か心を惹かれなく、クラープさんのワインが、「実直で、控えめながら真実味があると思った」ためです。最近オーギュスト・クラープさんは亡くなられましたが、懐かしいワインです。

 ティエリーはワインとは縁のない家に生まれましたが、コルナスのブドウ畑の近くで育ち、1982年18歳の時にロベール・ミシェルRobert Michelで働き始めました。1997年までフルタイムで働きながら、夕方以降と週末は自らのワインを造るために働きました。最初は、0.5haの畑で300本、さらに、あまりに急斜面で耕作が困難なために誰も手を出さなかった荒地を一人で耕し、樹を植え、1995年頃にはシャイヨChaillots で1.1ha、ノエル・ヴェルセNoel Versetから譲り受けた素晴らしい畑である花崗岩土壌のレイナールReynard 0.9ha(当時で樹齢60-80年)で栽培していました。ある時、約束の時間よりも早くついて、近くで待っていたら、お母様が出てきてくださって、しばらくの間話をしながら待たせていただきました。お母様の言葉を借りれば「小さい時から何にも興味を示さなかったので、大変心配したんですよ。でもワイン造りには精魂をかたむけて努力してきました。映画にも、ディスコにも、若い子たちがするすべての楽しみを何もしないで、働いて、働いて、畑を買ったの。よくわからないけれど、イギリスや、日本から、いろんなところから訪ねてきてくださるようになって、本当にあの子はよく頑張った」。あの時ティエリーのお母様が涙をうかべながら、でもお顔は喜びにあふれていたのを、はっきりと覚えています。

 現在は、シャイヨ、ピジョニエ(レイナールの斜面下部分)、テズィエ(レイナールの東側部分)、他、テラス状の点在するいくつもの畑をあわせて、計およそ5haからワインを造っています。ティエリー・アルマンの名声は、今さら言うまでもありませんが、近年の作品は比類ない輝きを内なる放っています。このようなワインを伝えられる喜びと責任を確認した訪問でした。

 ノエル・ヴェルセから譲り受けたレイナール を最初にビン詰して売ったのが1982年の事。4年後2022年は40年を迎えます。「いつから合田さんと取引してるんだったっけ?」「1995か1996年ヴィンテッジが最初だったと思う」、と私。フランス国内でもティエリーが取引をしているレストラン、カヴィストは限られ、イギリス、アメリカ、日本の他はほとんど輸出していません。ティエリー、あなたの数少ない輸出先 になれて、日本は本当に幸運でした。

 

3)ニコラ・ルナール訪問

 アンボワーズ城に近い、ロワール河左岸の洞窟にセラーを構える、ニコラ・ルナール。ここでワイン造りを始めたのは2013年の終り。なのに、購入の約束のもと借りていた畑のオーナーから、栽培方法の考えを受け入れられず、2016年収穫後に畑を返すことになってしまい、一時はどうなるか心配しました。幸いその後、20kmほど東に位置する、森に囲まれた隣人のいない畑を4ha借りることができました。ソーヴィニョン 、シュナン・ブラン以外にカベルネ・フラン、カベルネ・ソーヴィニョン とシャルドネが植わっています。

 2016年は雹害のため、収穫はソーヴィニョンをたったの2樽分のみ。2017年は、少しは収量がありましたが、それでもそれぞれ2樽ずつほど、まだ、2015年がこれからリリースされるのですから、資金繰りの困難なことは想像にかたくありません。長期熟成を経て、ワインを仕上げるニコラのワインを飲むと、「前年まで、他人が所有していた畑から、よくもまあ、これだけすごいワインがどうして生まれるのかしら」と、いつも驚きでテイスティングが始まります。

   2017年から運よく借りることができた畑は、1965年に植えられたもので、ピュズラの畑の近くにあります。所有者が亡くなったため、娘たちが2年間放置していて、剪定されていなかったのですが、「農薬がまかれているよりはましさ」と、ニコラはとても満足しているようです。たまたまそこにカベルネ・フランが植わっていたのですが、試行錯誤の結果、ロゼ・ペティヤンを作ることにしました。仲の良いセドリック・ブシャールに、「ペティヤンを作ったけれど、その後どうすればいいか教えてほしい」と電話をしたら、ピュピートルを運んできてくれ、デゴルジュマンを手伝ってくれるという。「何と贅沢な」と驚きました。

 電気もなく、全て手作業ですから、作業は大変です。それにしても洞窟はワインを美しく育てることを、ニコラのワインが証明しています。どうかここでの栽培が続けられますように、と祈るばかです。

今後どんなに素晴らしいワインが誕生するかと思っただけで、わくわくします。ようやく、まもなく、2015年が入荷します。


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