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エッセイ:Vol.94架空書評記

公開日: : 最終更新日:2015/05/08 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

ポーランドのSF作家

 スタニスワフ・レムに、実在しない書物にたいする書評集『完全な真空』がある。そのうえ、屋上屋を架するように、『完全な真空』の書評もある(本作中にすでに著者自身による書評があるが、それを別とすれば、たとえば森毅によるものがある)。というように、入れ子の構造には限りがない。が、ともあれ、実在しない作品を評するという意表をついた設定に、まずは敬意を表すべきだろう。 

 そういえばヨーロッパには、架空の人物を描いた伝記というジャンルもある。たとえば、名作と謳われるウォルター・ペイターの『想像の肖像』“Imaginary Portraits”(翻訳あり)。また、文才と画才が「比類なき」マックス・ビアボームは、『七人の人物』“Seven Men”という気の利いた空想小伝集のなかで、世紀末1890年代の文士像を描きだした。集中の一篇『イノック・ソームズ(伝)』は、かつて篠田一士による翻訳で愉しんだ記憶がある(集英社『世界短編文学全集1』)。もともと小説というフィクションで人物を描くのは、変形版の伝記であると言えなくもないが、あえて伝記風に徹して叙述するという趣向もまた面白い。

 そこで、私もまた、実在しないワインブックを書評してもいいのではないか、という気になった。もちろん、こんな裏話を最初にして、架空なことを強調するのは、野暮のいたりであるとは心得ているが、さらなる誤解を生まないためにも、あえて書いておく次第である。

架空書評

作品名:『ワインがおいしくなる本』

作者:不詳

 

努力してワインをつかみそこねる方法?

 

 著者は「はしがき」のなかで、本書を初心者がワインを選ぶための実用書であると称しており、著者みずからも初心者であると謙遜しているが、およそモノ書きの言葉を文字どおりに受け取ってはならない。自負心あふれる200ページにもみたない本書は、類書にない創見に満ちている、というより、創見だらけの珍書である。なぜ稀なのか。なにごとであれ、およそオリジナルな意見だけで世界を解釈して再構成することは、およそ常識――本来のコモン・センス(共通感覚)の意味でいえば――では考えられないことだから。花田清輝もいうように、ひたすらオリジナルであろうとする野心など、見当違いであるとしたら、個性の発露や独創性など「犬に喰われてしまえばいい」。だが、のっけから結論をいうのは遠慮しよう。

 本書は、基礎編・応用篇・実践編という三部構成をとるから、いちおう形式的には思考の順位と、対象とする全領域を含むことになる。

 【基礎編】は、ワインの味のタイプと、ブドウ品種の特徴について。ここで、ワインの要因が、土地(地形、土壌・岩盤)、天候、人間行為、ブドウ品種であり、ワインの味わいを規定するという基本的な立論には、ケチのつけようがない。が、たとえば土地がワインの味わいに直結するというような行きすぎた論理(過度合理化)には注意が必要だし、《環境→ブドウ→ワイン》という影響関係の多段構造と各種要因との関係は、分節化すべきではなかろうか。

 それらが、どのように、あるいはなぜ、(テクスチュアをふまえた著者独自の)味のタイプ分けに反映されるのかは、論証というよりは比喩ないし公理の提示にちかい。

 次なるブドウ品種の特徴について、著者はあたかも旧式ワインライターのように読者にすり寄り、ブドウ品種(別ワイン)を男女の各種人間類型になぞらえる。品種=人間類型化論は一見わかりやすい俗論だが、非科学的な血液型性格論に通じるだけでなく、著者の感覚にもとづく強引な割りきり方の見本ともいうべく、著者の人間観をうかがわせて興味深い。

 【応用篇】で著者は、ワインのテクスチュアをふまえて、重心・形状・大きさ・分布といった幾何学的な用語ないし指標を持ちだす。この一見科学的な相貌をおびる用語の使用は、最近のワイン界の一角をなす流行現象らしいが、これまた比喩の域を出ないから、読者は比喩と事実の間の落差に注意すべきである。また、流速というような言葉すらほのめかされているが、ならばたとえばユークリッド幾何学やニュートン力学の体系や法則が各指標の関係に通底しているのだろうか。もっともらしい用語は、科学を偽装した錬金術にもひとしい。(もっとも評者は、錬金術の深い意味を見直すべきであるという立場であるから、「錬金術」をネガティヴな文脈で使うのは控えよう。)すくなくとも著者と評者のワイン観のあいだには、同一平面上にある二本の直線が交わらないとき、たがいに平行関係にあるという意味での、平行関係があるようである。

ユークリッド原論平行線

 著者によれば、個別の料理にもこの客観的な(?)指標が当てはまり、ワインと料理のマッチングには、たんに同等の指標のものを組み合わせればよいとされる。これを科学的もしくは客観的な組み合わせと視るべきか、はたまた屋上屋を重ねるたぐいの《比喩の自家中毒》と見るべきか。まさしく読者の識見が問われる問題である。

 なお【実践篇】は、特定店舗におけるワイン探索法の例であるが、どこか子供の自慢話めいているだけでなく、広告じみてさえいるから、書評の対象外である。

 さて、以上のような、ワインのテクスチュアをふまえた好みの味わい類型のワインを、はたして初心者が簡単に探しだすことは可能なのだろうか。以前にも書いたことがあるが、「努力しないで出世する方法」とは、別のやり方の(おびただしい)努力をする方法なのである。著者の説く方法では、個別ワインの土壌や岩盤構造の理解だけにとどまらず、すべてのワイン規定要因に通じていなければならないことになり、これには途方もない情報蒐集を要する。おまけに、著者独自の宗教性をおびたワイン観を共有・同化し、これを信奉しなければならない。別の言葉で言えば、ある意味でカルト的なワイン集団に帰属することを求められる。だとしたら、趣味としてのワインの世界をはるかに逸脱するから、読者は用心して近づかぬに越したことはない。

 なお全編を通じて、随所に著者の独断や奇癖が飛び出すのは、奇観というべきか。客観主義の装いのもとに独断が大真面目で顔を出すのは、あるいは読者サーヴィスのつもりなのだろうか。

 同様に全編を通じて、料理にどういうワインを合わせるべきか、という通奏低音が響くのは、評者はあまり感心せず、はては食傷気味になる。料理とのマッチングという万人ウケする通俗的な発想は、独創を求める著者にふさわしくあるまい。著者がワインよりむしろ料理に喜々としてのめり込むさまは、ひょっとして著者はワインをあまり飲まず、ワインをひたすら職業的な評価対象としているのではないか、とすら疑わせる。ちなみに、各タイプの味わい類型に添えられている写真のワインは、はたして「おいしい」ワインの例証なのだろうか、読者は自問する必要がある。

 なお、ワインの味のタイプは様々であるから、各国各種のさまざまなワインが平和共存できる、という暗黙の前提があるようだが、これは著者の表看板なのだろうか。いずれにせよ、優等生めかした各所への目配りは、なにか八方美人型の全方位外交めいており、善良な読者の信頼を裏切りかねない。そのような前提をふまえて、消費者は自分が特定の状況のなかでそれぞれ求めるタイプの味のワインを探すべしという指針は、トートロジーでなければ、神社のおみくじもどきに見える。本書を読んで、ワインがおいしくなり、おいしいワインを探し出せるかどうか、保証のかぎりではない。(了)

 
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