エッセイ:vol.80 よいワインライターとはなにか?
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最終更新日:2014/12/17
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
―戯論:問者・田中克幸さんをめぐって―
ワイン界から《傍若無人、無遠慮》と顰蹙を買おうとも、臆せず迷わずわが道を、とことん往くのが男一匹、筆鋒舌鋒冴 えわたる、わが友・田中克幸さん(ト書。花道にさっそうと登場の段。ゆえに景気よく七五調で口ずさむように。大向うの喝采もブーイングも可)。知るかぎ り、彼のようにめっぽう理論的で高邁、見方によっては高飛車な議論をするワインライターは、世界にも歴史上にも例がない。ときに著名な生産者を間違ってい ると容赦なく決めつけ、はてはワイン造りまで指南するくらい。まさしく向かうところ敵なしの観がある。そういえばマット・クレイマーは、「アメリカのワイ ンテイスターたちは、愛好家というよりむしろ醸造家のような語り口をする」と、『ワインがわかる』の序章で言っていましたっけ。いかにもアメリカ暮らしが 長くて、彼の地のワインを偏愛する、田中さんに贈るのにふさわしい一文じゃあ、ありませんか。
さて、常識や定説(はやり言葉でいえば集合知)など尻目に、ひたすら独自の思考をこらしたあげく、強引な論証を添 えて、単刀直入に切り出される氏独自の立論は、―正誤や説得力の大小は別として―少なくともプロヴォカティヴ(注。これは最大の褒め言葉)であって、造り 手だけでなく読み手をもえらく刺激すること、疑いない。ワイン界のいたるところで田中流の説明原理をしゃにむに拵えあげる氏は、その原理を徹底的に現実に 適用し、思考の無謬性をあくまで証明しようとする。その意味において、氏はとてつもない原理主義者である。いささか催眠術師もどきのところがあるその口調 と身振りはいかにも誘導的であって、被施術者のタイプしだいで説得力をふるうだろうが、だからといって、ただちに氏の原理の正しさを立証するものではな い。
が、なぜ、自分の論理の正当性、つまりは原理と現実の一貫性に、氏はかくもこだわるのだろうか。
いったい、なにか (原理)を証明するために試飲するのか、それとも試飲結果から仮説あるいは原理を導き出そうとしているのだろうか、テイスティングの役割がやや判然としな い。いずれにしても世界を再解釈し再創造しようとする、野心的あるいは不遜な意図が浮かびあがる。しかも試飲法は田中流と称するユニークな評価尺度に基づ くものであって、これはお馴染みの直喩型(アンヌ・ノーブルの「味の車輪」参照)とは別種の比喩の体系である。いわば、見えないものを見たり感じとったり して別次元の言葉に移すための、ヴィジョナリーな技法である。なにがしかドン・キホーテに似ていなくもない氏は、これを武器にして試飲し判定しようとする から、ワインの常識に首までつかったワイン愛好家やテイスター諸氏と評価が一致するわけがない。すでに高みに達した氏は、訳知らずの俗人がすり寄ってくる よりも、打てば響くような弟子筋あいてに法を説くのを好むかにみえる。
そもそも、ワインをほとんど嗜もうとしない氏が、ワインを理解しつくしてねじ伏せようとするところに、そもそも無 理があると思われる。だって、いうまでもなく、ワインは評価されるためにあるのではなくて、飲んで楽しむためにあるのだから。その無理の行きつくところ、 過剰な論理を求めるのだろう。『オセロ』をもじれば、ワインを「(ありのまま)愛することを知らずに、(観念でもって)愛しすぎる」男の悲劇なのかもしれ ない。
ところで、伝えられるところによれば、田中さんの執筆活動は早やくも30年になるとか。
執筆リストが公にされてい ないので確かめようがないが、いちおうそれを真に受けて記念する会が、2014年2月11日に西麻布のレストランで催された。いかにもこの人らしくという べきか、会費6000円を握って集まる参加予定者35名に対して、事前に持ちこむワインの名前を知らせろとか、「よいワインとはなにか」についてスピーチ を用意しろといったたぐいの指示が、まるで注文の多い料理店もどきに、矢継ぎ早に幹事をとおして伝えられた。
へそ曲りの私は、さっそく「よいワインライターとはなにか」という原稿を準備するつもりになって着手しかけたのが、上記の拙文である。けれども、与えられたテーマについて考えなおすのもよい機会なので、それは例によって次号に回すこととしたい。
付記。
田中さんのフェイスブック「日本橋浜町ワインサロン」は、氏の面目躍如たるところがあって、じつに面白い。 が、そのなかで、氏がラシーヌのオフィスに環境設定に出かけた旨が記されているが、これは事実に反することを明記しておく。だいいち、自分が適任なことを 誰かに、頼むわけがない。そもそも環境設定という言葉を、ワインの好適環境を作るために用いるには大げさすぎるので、私はためらいつつもこの言葉を使いは じめたことを明瞭に記憶しているのだが、誰かのまねをして使ったのではない。次に、田中式の環境設定は石を多用するのに対して、私が案出した方式はコルク を用いる。その背後には、ワインにおける「石・対・木」という根本的な発想の違いがある。私は自分の方式をコルク・トリートメントと称して、内外でその効 用を伝え歩いており、生産者の関心も高いことを付け加えておこう。
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