人来たり、人去る

2008.4.11   塚原 正章

ハッピーな仕事、嘘のないワイン
 仕事は、義務感でもって嫌々ながらするようなものではあるまい。逆に、仕事は喜びのタネであって、ハッピーな充実感がともなわなくては、わざわざ時間を費やす意味がない。そこで、ラシーヌという組織に即していえば、仕事の面白さは、私たち(合田と塚原)をふくめて働く者が、目的意識をもって役割をまっとうしながら(これが「参加することto take part in」の原義)、状況をポジティヴに変革しようとする意識があるかどうかにかかっている。ワインビジネスを天職と受けとめ、与えられた任務を誠実になしとげるという姿勢だけでなく、すでに会社または自身が達成したことを(守るより、むしろ)乗り越えることが求められている。
 ワインビジネスは本来、とても人間臭い仕事だと思う。とりわけラシーヌの仕事の仕方は、まず人ありき。ワインもワインにかかわる事象もすべて人間が介在しており、優れたワインほど個性的な人間と無縁ではない。ゆえに、ワインにかかわる知識・経験やスキルは必要だとしても、むしろ最終的には働き手の人間性(ひいては知性)がモノをいう。たとえば、他人(生産者、取引先、消費者と同僚)に嘘をつき、自分を偽っていては、ラシーヌが扱っているような、優れて個性的なワインと直接向き合うことは、まずもって不可能。少なくとも、「ワインは嘘をつかない」から、偽った者がすでに負けると決っている。ま、勝敗はどうでもよいとして、嘘や作為で固めたワインや人間とは、あまり付き合いたくないものである。

 そういえば、海外で特別に親しいワイン人はいちように「ワイン生産者の言うことを、まともに信じてはいけない。彼らは嘘を言うから」と助言してくれる。故人となった坂根進さんが、かつてこんなエピソードを語ってくれた。「ボルドーのシャトーで、畑の中のカベルネ・ソーヴィニョンの割合をきくと、オウナーの説明が一番高くて(たとえば、85%)、次は醸造長(たとえば70%)。でも畑で働いている労働者に訊くと50%だったりするんですよ。現場に近いほど、その比率が低いんです。面白いですね」。ざっとこんな具合だけれど、これなど罪のないほうだ。ただ1回、畑に牛角にプレパラートを詰めて埋めただけで、「うちはビオディナミをしている」と広言している生産者もいるとか。畑の中の手入れ方は、かようにつかみにくいものだし、セラーの中の作業も身近に見ていないと判りにくい。

嘘をつくのは、生産者だけではない。どこかで書いたように、日本のワイン界には、嘘や度を越して大げさな宣伝文句が溢れていることは、ご存じのとおり。もちろん、インポーターが常に本当のことを言うとは限らないから、私の発言も眉唾ものかもしれないから、ご用心。だが、ウソ話はここまでとしよう。

  さて、離合集散は、世の常。というわけで、小さな組織である㈱ラシーヌにも、ときに人の異動がある。既に小社を去った人や、去りゆく人については、「ご苦労さま。そして、さようなら」とだけ申し上げよう。なぜなら、ややカッコよく言えば、「ラシーヌは過去に拘泥せず、未来だけを見つめる」というのが、合田と私の考え方だから。これまた、企業哲学というよりも、人生観にちかい。

昔は今、ル・テロワールの彼方に
 かつて私たちの共同プロジェクトとして創め、5年間にわたって運営していた㈱ル・テロワールを、不本意なかたちで去らなければならなかった事件があった。が、私たちを「葬りさった」はずのル・テロワール内では、ただちに権力闘争がおこって内部分裂し、ほどなく同社自体も廃業に追い込まれた。事件を起こした人たちは、ただ一人の女性を除いて全員、のちに私たちに非礼を詫びるという一幕もあった。が、それはさておくとして、その事件の勃発直後のこと、フランスやイタリアの優れたワインの造り手で、同時に優れた人格を持ち合わせている人たちから、「過去を振り返るな。未来を見つめろ。私はあなた方を支持する」という意味の温かいメッセージを受け取った。それを励みにしながら、ル・テロワールの理念をより発展させて二人で㈱ラシーヌを立ち上げたという次第。だから、ル・テロワールはラシーヌのなかにより純粋なかたちで生き続けているといっても過言ではない。「ボヴァリー夫人は、私だ」というフロベール流の言い方をすれば、「ル・テロワールとラシーヌは、私たちだ」ということになる。

 この例のように、もし過去に意味があるとしたら、それは現在に引き継がれている限りにおいてのこと。つまり、現在のなかに生きているものだけが、本当の過去というわけ。その意味では、古典的な伝統主義者であった詩人T.S.エリオットが説くところの、「自分のなかに無いものは、伝統ではない」という主張と似ている。

 個人の記憶のなかに蓄積された過去と経験が、その人のアイデンティティを形成しているとしたら、すべての経験は現在の自分の身についているはずで、自分のなかにあるものがすべてとなる。それを拠りどころにして前進するしかない。だから、「ゼロからのスタート」は、じつはありえないわけで、現在の自分という基盤がスターティング・ポイントになる。ありのままの自分を見つめれば、これから先の可能性や方向性(と同時に限界)がおのずと浮かび上がってくるはずで、悲観論がつけこむ隙はない。

ポートフォリオはドラマ
 さて、そこでさいわい、前進することができ、一定の成果が生まれたとしよう。そのとき、人は成果を守るという発想になりがちなもの。守るべきものがある大きさに達したとき、それが利権とおなじ機能をはたして保守主義の温床となる。安逸と甘い汁をうみだす利権こそ前進の敵だとしたら、その愚を避けるためには、自己否定という革新しかありえない。

 たとえば、インポーターのポートフォリオが、あるレヴェルで完成したとする。それを守り続けるのは難しくなくて、ただヴィンテッジを更新していけばよい。でも、ワインは生きもので生産者も人間である以上、どの生産者が造りだすワインのクオリティも、時とともに変化を免れない。良くも悪くもワインの実力は、絶対的にも相対的にも変わりうる。もしも同じ造り手のワインの実力が落ちたり、相対的にも見劣りがするようになったとしたら、残念ながらポートフォリオに載せ続けるわけにはいかない。つまり、ポートフォリオは、永久不変ではありえず、時代と状況のなかで常に前進すべき宿命にある。

 逆に、企業の意志と方向性にかなう真に実力をそなえたワインが、あらたにポートフォリオに加わったとき、必然的にリスト内の勢力図がかわり、面白い不協和音が生まれる。これが肝心の現象で、どこからか進軍ラッパが聞こえてくる気配がする。昨年ラシーヌのポートフォリオには、アブルッツォの雄であるヴァレンティーニが加わり、今年はトスカーナにそびえる孤峰にして、自然派ワインの高真骨頂ともいうべきカーゼ・バッセを迎えた。現代の古典ともいうべきイタリアワインの双璧が居並ぶことで、ラシーヌの方向性は旗幟鮮明になり、あらたなポートフォリオの方向性をおのずと示唆している。

  ラシーヌが扱っているワインのタイプは古典派と自然派、主要産地はフランスおよびイタリアと、さまざまな局面においてラシーヌには楕円のように二つの焦点がある(合田と塚原もその例かもしれない)。が、二人が選ぶワインの味わいには共通した、あくまで透明感と優しさがあり、結果的に生産者の個性と産地のテロワールを体現しているはず――これが、ラシーヌの扱うワインに共通する「アイデンティティ・マーク」です。逆にいえば、この一貫性さえあれば、ポートフォリオの陣容は常に変わってもよい。というわけで、これからも変わっていくラシーヌにご期待を願いたい。

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