食べ物と情報(増補版)

2008.3.4   塚原 正章

1.情報――食うか、食われるか
  人間という不思議な存在は、情報を食べて生きているが、人間はまた、情報の餌食にもなっている。ハムレット流に言えば、「食うか、食われるか、そいつが問題だ」が、当の人類、わけても「情報大国」の住人である日本人は、情報に対してあまりにもナイーヴないし無防備であって、自分がまな板の上に乗っていることに、まるで気づいていないかのよう。

たとえば、インターネット。利用法しだいでは百科事典よりも価値があり、世界中の既存情報にほぼアクセス可能であるが、ほとんどゴミもどきで時に悪意のある情報がここに意図的に流通し蓄積されてもいる。これを毎日、必死になって集め食べる情報餓鬼の、あさましくもなんと多いことか。他方で、インターネットから発信されたメイルの内容がアメリカ国防省によって監視されていることは、ほとんど世界の常識である。それどころか、個人的な情報行動が、グーグルやアマゾンにおける検索行動をとおして、本人が無意識のうちに吸い上げられ、企業のためのターゲティング手段として提供され、利用されている。なにしろいまや、テレビなどのマス媒体広告費よりも、グーグルの得る広告収入のほうが多いらしいご時勢なのだ。くわばら、くわばら。

 いずれにしろ、現在のようにインターネットをつうじて遍在している、必須食品化している情報は、高度に産業化された文明社会のエネルギーにもなっているが、しょせん「食べ物としての情報」は比喩でしかない。そこで、近時にこの国を騒がせることが多い、身近な食べ物について、短い考察をしてみよう。

2.食べること
食べない・食べる・食べれば…

 およそ食べるという異物の消化吸収作用は、菌類をふくむ生物にとって欠かせない生命維持現象であって、外界の動植物が食べられるかどうかは、太古の人類にとって最大の関心事であったはず。そもそも「中毒」という言葉は、毒に中(あた)るという意味であって、食べ物は死命を制しうるものだからして、豊かな食環境の中で食本能が発達していた種族だけが、今日まで生き残ったのだろう。ところが文明の進歩とともに、本来は個々人が必死でくりかえしてきた摂食行為を他人まかせにし、金銭でもってマーケットから食品を調達することで代替したあげく、危険から身を守るという食本能が衰えてしまったのは、文明化の代償とはいえ残念である。

 かくして当今、ひろく市場に販売されている食品が人間に害をなしうることに、多くの人が無頓着になりすぎていた。マーケットに流通する食物が安全であるかどうかは、第一に生産者の責任に属するが、流通業者もまたその責任を回避できないし、国と行政機関が市場の管理責任を有することも、論を待たない。が、最終的に中毒を起こして苦しむのは消費者自身なのだから、生産者・流通業者や行政機関による徹底的なチェックを信頼しきるわけにはいかない。まして、「良心」をビジネスと公共機関に期待するのは、お門違いというもの。

 とはいえ、現代の消費者が、衰えた食本能を回復することは、一朝一夕にはできない。生活本能の微弱な私ごときは、O-リング・テストでもって、個々の食料品が自分にとって安全ないし適切であるかどうかをすべてチェックしてから購入することにしているが、これについてはまた、別の機会に詳説しよう。

人間、この楽観的な生き物
 およそ人間は、食べものが生命に危険がありうることは承知していても、その危害が身に迫ったと悟らないかぎり楽観をきめこみ、希望的な観測によりかかって習慣的な行動を変えようとしないもの。だが、いったん狂牛病や農薬混入加工食品など、致命的になりかねない事態が発生すると、にわかに過剰反応を起こすのは、日頃の安逸からの反作用なのだろう。たしかに、食品による危害を防ごうとしても個人で完全には防御不可能な場合、ヒステリックな対応になるのもやむをえないと同情したくもなるが、もちろんなにごとにも冷静な判断と自制心が肝要。

 それでは、外部の食物から多少なりと自衛するには、どうしたらよいか。自分で農作業をおこない、殺虫剤や殺菌剤などの毒物や、土地を不毛に導く合成肥料に頼らずに、「自然食品」を自製するのが基本であること、いうまでもない。たとえば、イタリア中部の町グラードリでもって、徹底したビオディナミで奇跡的なテクスチュアのワインを造りはじめたレ・コステというワイナリーの例をとろう(今月号の合田泰子「ワイン便り」参照)。ここでは若きカップルが、ワインはおろか動植物まで、ほとんどすべて自家栽培ないし飼育を心がけ、チーズすら作っているが、これがまた無類にうまい。こういったやり方は完璧に近いエコ・システムであるが、いまやイタリアですら稀になってしまった。似たような自家生産方式は、イタリアのワイン栽培醸造家では、かつて北部のコリーノ(バローロ地域)や、南部のモレッティエリ(イル・ピーニャ地域)で見かけたことがあるが、現在も続けられているかどうかわからない。

 アダム・スミスが指摘したように、分業にもとづく協業が近代社会を支え、この国が食べ物の過半を輸入に依存している以上、食べ物をすべて自製することが不可能であるとすれば、われら庶民はなにによらず市場から調達するしか、すべがない。ならば、せめて毒性の低い(と信じられる)ものを選ぶまでのこと。私としては、まず、(ワインを含む)自然食品にこだわる。むろんのこと、「自然」とか「自然派」というキャッチフレーズや形容詞を鵜呑みにしてはいけないこと、ワインの場合と同じ。「美徳とは、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」という、ラ・ロッシュフコー公爵の有名な格言はご存じだろう。ここで、美徳を自然、悪徳を人工/工業製品に置き換えるくらいの「偽悪的」な見方を身に着けなくては、世智辛い現代を乗りきれそうもない。

さてと、いくらワイン好きであろうとも、あいにく人間はワインという液体だけでは生きられず、それ以外の液体・個体・気体(の混じった)食料も、口にせざるをえない。そこで、食品にはたとえ微量といえども毒が入っている可能性があるとしたら、私の方針は、先に述べたO-リング・テストを用い、自分の身体に合った、より安全な(あるいは害の少ない)食品を選ぶこと。ただし、この私的なチェックをパスした食品が、必ずしも美味しいとは限らないのが癪にさわる。私の場合、食べる目的はあくまでも、自然を味わうことではなくて、美味しいものを楽しむことなのだから。

 「しょせん人間は死ぬ身。ならば、自分の好きな身まかり方を選びたい。だから、好きなものだけを飲み食いしたい。不味いものを食べるくらいなら、いっそ食べないほうがまし」―というのが、昔から私のふてくされた言い分だった。さあ、果たしてこれが実現するかどうか、幕を下ろしてみなければわからない。

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