いま、なぜナチュラルワインか(続)
―マット・クレイマーの跡を追って―

2014.1.28   塚原正章

まえがき
 前回から少し時間がたってしまったので、ごく簡単にその要約と補足をしておこう。

*〈ワインの価値)とは、飲み手の価値体系にのっとって個別ワインに与えられる、個人的な意味づけである。
*〈望ましいワインの要件〉は、美味しいこと(品質と状態の両立)、身体と健康にとって好ましい(悪くない)こと、価格が価値に見合っていることで、理想は3条件が同時に満たされること。ナチュラルワインはその可能性をもつジャンルだが、必ずしも個別ワインが、3条件を満たしていないことは、コンヴェンショナル・ワインや一般的なワインも同じ。

*〈ナチュラルワインの定義〉は、ワイン界でも「ミネラル風味」「ミネラリティ」と並ぶ難問で、論者の立場や利害関係や好悪によって異なる、現代ワイン界の一大争点である。
*振りかえれば「自然」は、西欧社会では文化の対立概念であり、現代社会では「生のままの」自然は絶滅に瀕し、その意味では多くのワインもまた自然からほど遠い。
 ナチュラルワイン(ヴァン・ナチュール/ヴァン・ナチュレルとも)は、日本では「自然派ワイン」と不自然に呼ばれているが、それに含まれるビオロジック・ワイン(BWと略)は有機(オーガニック)ワインとほぼ同義とされ、他方バイオダイナミック・ワイン(同BDW)は、現代のワイン界における台風の目のような存在である。
*BWとBDWとの共通点は「自然を尊重する」農法であって、醸造方法ではないが、EUの新規定ではオーガニックワインに醸造上の要件を含むし、BDW生産者のなかには醸造までBD流を実践していると主張するものもいる。
*ナチュラルワインと、BW/BDWとの違いは、ナチュラルの定義のしかた―「自然の純度」をどこまで追求するか―にかかっている。「ナチュラルな味」は基準ではなく、味わいの比喩的な表現にすぎない。ナチュラルはその多義性と、生産者のワイン造りの目標に差があるため、誰もが認めるナチュラルワインの定義はない。

*ナチュラルワインの特徴は運動(体)であることで、よく“natural wine movement”と呼ばれる。運動としてのナチュラルワインは近代的な栽培醸造学に比べ技法が未確立のため、おのずと運動体やグループが形成される。ナチュラルワイン運動は、運動の常としてグループは大同団結せずに乱立気味。ニーチェ流の見方では、アポロン的(西洋合理主義)世界を破壊し、創造に導くのがディオニュサス的精神で、その間に働きと運動が発生する。ワイン界のアポロン的存在が近代醸造学ワインで、それに創造的破壊を加えるのがナチュラルワインであると見立てれば、ナチュラルワインは運動を宿命づけられている。

ナチュラルを求めるメンタリティについて
 ありていにいえば、前回の説明は論点整理と名うったプロローグではあるものの、事典風な要約にすぎず、筆者にとってすらいっこうに面白くない。
 準備していた本論の大半は、これまたやや詳細な解説と、日本ではあまり知られていない事実の紹介どまりで、ナチュラルワインの位置づけが物足りない。そんなことは、海外や邦語の文献とインターネット検索結果を活用しさえすれば、誰にでもできる。
 たとえば、シュタイナー『農業講座』(聖典!)や、ジェイミー・グード “Authentic Wine: Toward Natural and Sustainable Winemaking”(『本物のワイン: ナチュラル/持続可能なワイン造りにむけて』未訳)、あるいは藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(BDの歴史把握には必読)など。だが、このような文献リサーチ主体では、われながら興が乗らず、ペンも進まない。まして、そのような内容に読者が魅かれるはずがないと遅疑逡巡しながら、月日がたってしまった。
 ところが、たまたま今日のこと。マット・クレイマーがインターネット版『ワインスペクテイター』に寄せた最新記事を一読して、思わず膝を打った。題して「現代のワイン状況は、なぜ画期的なのか」“Why Our Wine Era Really Is Different” (2014.1月21日)。表題だけでは意のあるところが汲み取りにくいが、その心は副題にあるように 「それはM文字、つまりメンタリティによる」 “It’s because of the‘M’word: Mentality”。
 まさしく私の問題意識、つまりタイトルの「いま、なぜ、ナチュラルワインか?」への回答が、ズバリそれなのである。驚き入った次第で、マットが私の答えを先取りしてくれた格好。だが、どうして私の設問にマットが答えをよせて救ってくれたことになるかは、彼の本文とブログに寄せた論旨をたどるほかないので、以下で詳しくご覧いただくとしよう。

現代のクオリティワインがおかれた段階―ポスト〈ワイン・ルネサンス)
 親愛なるマットはまず、現代のワイン造りを大づかみにして、こう歴史的に位置づける。「ファイン・ワイン(クオリティワインと置き換えてもよい)のルネサンス」は、生産者の間で1970年代に発火し、80年代に燃え上がり、90年代には世界中を風靡したから、ワイン界の新しい動向やファッションにうとい日常ワイン消費者の目にすら、ルネサンス現象は明らかになった。
 たしかにマーケティングの産物としか思えないワインが横行し、ワインそのものよりもワイン評価点にかまけた、金儲け主義が目にあまる。とはいえ、現代こそ、ルネサンス以降のファインワイン界で、まぎれもなく画期なのである。今日の素晴らしいワインは、ルネサンスとは違って普遍的からはほど遠いが、まったく異なる新しい現象なのだ。

 なぜ、そのような変化が起きたのか。ワインの造り方と、消費者の飲み方(と思考)の両面で、メンタリティ(心性)が変わってしまったのだ。そこで知性派マットは学のあるところを発揮して、このメンタリティ(フランス語でマンタリテ)という視点は、フランスの「アナル派」歴史学者たちの創造的な発想であると解説。これまで歴史の主役(偉人や戦争、外交事変など)とされるものごとから無視されてきた、民衆の行動や習俗などから析出されたメンタリティの存在と力価を、アナル派は重視した。なおアナル派に学んだ日本の歴史学者では、阿部勤也さんや網野義彦さんの素晴らしい業績がある。

メンタリティとワインとの関係
 多くのワイン愛好家は、ワインを機械的に見がちである。たしかに製造法、新樽使用の有無、収量などの作業や実情を知ることは重要で説明力もあるが、これは狭いフォーカスの当て方というもの。外側からのメカニスティックな見方は、視野が特定面に限られるだけでなく、量的な把握で事足れりとしがち。だが、これはワインのエンジニアリング(工学的な処理)にすぎない。メンタリティ(という手段)こそ、もっと重要な目的へと導く。これが現代のワイン界が、以前とは画期をなす所以なのだ。
 1970年代に端を発した偉大なるファインワイン・ルネサンス以来、生産者と消費者の両サイドにおいて、ファインワイン経験に求めるメンタリティが変わり始めたのだ。これは、単なるファッションや嗜好の変化というよりも、カルチャーの変容であり、ワインの「美」意識の変化である。マットはワインの「美」というが、これは美意識と考えてよかろう。

ファインワインをオリジナルで深遠なものにしたもの
 現代のクオリティワインの質をこのような次元にまで高めたのは、バイオダイナミックな栽培法と、いわゆるナチュラルなワイン造りであり、生産者とワイン飲用者すべてではないにしろ、説得力を発揮したのである。ファインワインのビッグバン(ルネサンス)とは根本的に違う点は、これらの運動は、ワインの美意識に対するメンタリティに根ざした哲学的な手法であること。
 ここで珍しくマットは、これまで、不得手としてきたシャンパーニュの例を引く―それもユリス・コランの名前まで挙げて。いわく、たとえば、シャンパーニュの愛好家のあいだでは、グランド・マルクがシャンパーニュ界における首座を譲ってしまったが、これは単に小規模なレコルタン・マニピュランがファッションになったのではなく、彼らが偉大なシャンパーニュの可能性を再考したあげく、発泡性が減り、酸素の活かし方が上がり、畑へいっそうの注意を傾け、生産量を増やすために諸産地産ワインをブレンドすることを避けたことなどの結果である。ジャック・セロスとユリス・コランといった生産者が手掛けるシャンパーニュは、まさしくラディカルな変容を遂げたメンタリティの賜物なのである。こうしたワインの変容が、消費者にもまた伝播するのである。

 いうまでもなく、生産者と消費者におけるメンタリティの変容は、新たなテクノロジーの直接的な成果ではない。ちなみに70~90年代のルネサンスは、「筋骨たくましい(男性型の)」、干渉主義志向のメンタリティが、クリーンで自己表現型ワインをもたらした。その際、逆浸透膜やスピニング・コーン、真空濃縮法などのパワフルで変形作用が大きなテクノ・ツゥールが用いられたのだ。
 これに対して、現代のメンタリティは、科学的な醸造学や技術的な管理知識を身につけた生産者が、必要ならば科学技術の素養を活かすが、あえてこれに頼らないという、贅沢の産物である。現代では、いかなる車種も選び放題で、道路は発達しているからどこへでも思い通りに行けるが、ドライヴでもっとも肝心な問題は目的地である。これと同じく理由で、メンタリティは方向性を与えてくれるから、重要なのである。
 いまや、新しいメンタリティが増殖のさなかにあるが、これが旧メンタリティにとって代わるというよりは、新しい目標と理想を提供している。これは、なんとも胸が躍る話ではないか。旧い志向が求めたコントロール技術が、ワインの美と善の観念という点においてラディカルな差異がある新しいメンタリティを、裏面から活気づけている(マットはワインの「真」について論じない)。
 新しいメンタリティは、ワインをいっそう深遠な存在にするというよりも、ワインにかかわるすべての根源(ルート)にあるのである。

ナチュラルワインとメンタリティ
 ざっと以上が、マットの本論である。歴史的な見通しをふまえた、見事な立論ではないか。なお、マットはこの記事のあとに寄せられた読者の質問をふまえて、次のようにナチュラルワインとメンタリティの関係にまで、踏みこむ。
 いわゆるナチュラルワインこそ、メンタリティの絶好の例である。ナチュラルワインについては、言葉で定義するよりも、どういうものであるかというアウトラインを述べたほうが、理解しやすい。そもそもナチュラルという言葉じたいが、考えを刺激する。
 このメンタリティが「ナチュラル」なワイン造りの全体で作用し、活躍しているのだ。メンタリティは、畑のマネジメントのなかでは、たとえば除草剤・殺虫剤・殺菌剤などを可能なかぎり用いない「ホーリスティック」なアプローチとなって輝き出る。また、この同じメンタリティが、ワイン醸造作業でも正誤は別として発揮され、培養酵母ではなくて自然酵母の使用、可能なかぎり最低限のSO2使用、発酵温度コントロールなし、ポンプを使わない重力利用型の移動、清澄濾過の排除などを好んでおこなう。このようなアプローチが、ナチュラルという言葉を使うかどうかは別としても、ワインにメンタリティを映し出すのだ。
 ワインを人工的に変容させるスピニング・コーンなどのハイテク技術は、ハリウッドで多用される整形手術のようなもので、結果はナチュラル・ビューティとは程遠い、とマットは冗談を言っている。本来の美は、マイケル・ジャックソンにはない、と。

 これまでマットがナチュラルワインについて論じてこなかったのが、私にとってほぼ唯一の不満だったが、マットの愛読者はシャンパーニュ論のおまけまで付いた今回の記事を読んで、年来の不満が解消されたはずである。ブラボー、マット!

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