内なるエネルギーの行方 ― 偶感もろもろ

2013.12.28   塚原正章

はじめに
 半年ぶりに、それも押し詰まってから、シャンパーニュとイタリア南北を早足で駆け巡ってきたばかりなので、内なるエネルギーこそ不足していないが、じっくり考えをまとめる時間が足りない。というわけで、ナチュラルワインについてのややこしい続編は、稿を改めさせていただくので、あしからず。そこで今回は日頃考えていることを、あまりことを荒立てずにやや抽象的なかたちで、原論ふうにスケッチしてみたい。

思考のポイント
 およそ思考作業は、ものごとに接して「なぜ、私はこう感じるのだろうか?」と疑うことから始まるとみてよい。五感での受けとめ方は、もちろん人によって違うから、その反応も各人各様。そこでのポイントは、「なぜ?」という疑問符と、「私」という主体との組み合わせ方である。
 まず、「なにを」「なにか」あるいは「なには…である」という事実命題に相当する“what”を、「なぜ…なのか」“why”という疑問命題に置きかえてみる。すると、事実まわりのなかから、おぼろげな因果関係の仮説やあまたの妄説が浮かび上がってくる。ここで、こちら側の問う姿勢が弱く、事実の受けとめ方が表面的なレヴェルにとどまると、説明を一方的に聞くだけの受け身な状況認識におわってしまう。とすれば、状況追随的な思考/行動様式になりさがり、これは「現状(存在するもの)は正しい」(ヘーゲル)という間違った暗黙の前提と、コンヴェンショナル(因習的)な価値観に支配されることを意味する。
 それに対して、現状と世界に違和感をもち、「どこか、なにか、おかしいぞ」と疑うことから出発すれば、おのずと問題が設定され、理由を問いただそうとする積極的な態度がうまれる。ちなみに、他者との付きあいを億劫がり、傷つけあうことを過度に惧れ、ミクロコスモス(自分という小宇宙)に閉じこもりがちな現代の若者像は、安易を求めて問題に目をつぶる、「追い詰められた砂漠のダチョウ」もどき。ともかく、この国のあらゆる分野に遍在する体制思考の因習派に利せられてはならない。
 たとえば、ワインを楽しもうとするのに、ワインスクールに通ったり、○○や××といった資格を得ようとしたりするのは、木に縁って魚を求めるたぐいで、楽しみの本筋を忘れて体制の迂回回路に迷い入るようなものである。皮相な知識を追うより、意味のある試行錯誤をすればよいのに。
 さて、大は政治のありようから、小はワインの味覚に至るまで、あくまで「私にとって」という旗色を鮮明にしつつ、あらゆることに問題意識を抱くことが、ブレない思考の原点である。こうして、“why”と「私」という主語が結びついて、健全な思考作業の条件が整うことになる。さあ、あとは、私あるいはあなた次第です。

因果関係は思考の補助線
 「なぜ」に対する自分の答えは、つねに仮説であるから、自分なりの検証を要する。 歴史的な事件や日常的な出来事から、化学的な反応、さてはワインの味わいにいたるあらゆる事象には、複数または単独の原因が時系列的に伴う。つまり、端的にいうと、現在、あるいはあらゆる現象とは、過去におきた一連のことがらが因果のフレームとなったところに、人間的な要素が組み合わさって生じた結果である。ただし、因果関係(論理)を継起の順序(時間)と取り違えてはならない。因果関係の仮説を設けるのは、初頭幾何学で定理を証明するために補助線を引くようなもの。ここで補助線の引き方には諸々あるから、合理的な証明力はもちろんとして、もっともシンプルで美しい補助線を引くことが望ましい。その際、複数の異なる仮説(補助線)をつくり、そのなかでもっとも説明力の高い仮説を選択すること――それが思考の役割である。なお補助線は本来、目に見えないものを空間に仮設した線(面の交点)であるから、これを実体化してはならない。
 もっともらしい仮説のなかには、論者にとって都合のよい事象だけを有意に選び、都合の悪い事象には触れないという、大局的な整合性に欠ける操作を施されたものがあるから、気をつけよう。歴史家は(都合のよい現象だけを選べば)まったく相反する歴史仮説を容易に立証することができる、という皮肉すらある。
 ワイン評論家も似たような状況に置かれている。ワイン造りには科学的に解明されていない部分が山のようにある、というより、科学的に解明済みの部分が圧倒的に少ない。そのうえ、個別ワインについて産した畑/セラーの深奥と、人的な干渉の細目までを知る専門家はほとんどいなく、鋭いテイスターも極度に不足していて味覚上の判定も難しい――とくるから、当てにならない旧説をひけらかしたり、もっともらしい説を主張したりすることは、バレル恐れが少ないだけに、難しくない。なかには、過去の自説の一部を誤りとしていさぎよく放棄した、マット・クレイマーのような賞賛に値する例もあるけれど。
 ワイン生産者の側でも、過去の行き方を否定して、正反対の道を歩む勇気ある造り手がいる。たとえば、ジョスコ・グラヴネルやフェルディナンド・プリンチピアーノのように。ただし、どの道がより正しいかは、造られた作品のみが証明材料となるが、誰が判定できるかという問題は最後まで残る。
 そもそもワインは嗜好品であり、好みや味覚反応には個人的な差や閾値の違いがあるだけでなく、環境や他人の説に影響されやすい心理的な存在でもあるから、ワイン関係者やワイン批評家の魔術的な言説があるとしたら、猛威を振るいかねない。もしも、その批評家が催眠術的な言動に巧みであれば、その効果は恐るべきものがある。

見えるものと見えないもの
 目に見え、耳に聞こえることは、味覚・嗅覚とおなじく、受けとめる側が受け身であるかぎり、単純な刺戟の受容現象におわりがちである。 が、思うに、目に見えないものをどのようにして掴むか、が考えることの究極である。
 たとえば、テロワールは、特定の地域や区画でもって、その地域で認められた(必ずしも合理的でない)方法で造られたワインにある、一定の共通性であるとされている。ここで、テロワールを狭義の「土地」(テラン)ではなく、マクロ気候をふくむ区画や畑の立地環境全体(水と水脈、畑の斜度と向き、土壌、岩盤、風向き、温度、湿度、セラーの立地条件、周囲の森林など)を指すとすれば、各指標は必ずしも数値化できず、質的な情報が多い。
 としたら、テロワールがもし存在するとすれば、可能性の総体として存在するわけで、目に見えるものはごく一部にすぎない。その可能性を解釈し、各自の畑の特質やセラーの制約条件などのなかで、自分のワイン哲学に即して目標をたて、年次ごとの気象条件に即しつつ悩みながら、テロワールとその年次の可能性を実現に近づけようとするのが、各造り手である。したがって、実際に造られたワインとテロワールとの間に、1:1の関係があるわけではないし、まして土壌などのモノから唯物論的にワインが規定されていると解するのは、あまりに短絡的かつ近視眼的な見方になる。
 ということは、ある畑の土質や土壌構造が、そのままワインに反映しているのではなくて、規定要素の一部として間接的に、あるいは造り手の意に反して心ならずも、ワインに体現されていることになる。だとすれば、あるワインに特定の土壌や石そのものの味わいがあると決めつけるとしたら、少なくとも論理的な思考ではない。ただ、人には見たいものが見える、という心性があり、唆されれば、それが見えたように感じたりもする。イマジネーションは、ふつう「想像力」と訳されているが、近年は正しく「想像作用」とも訳されている。が、ともあれ、恐るべきは想像作用であって、目に見えないものが眼前に見え、舌に味わえるという錯覚が都合よく生じるのである。
 にもかかわらず、いや、だからこそ、目に見えないものを考え、その機能と構造を推測するという思考過程が必要なのである。この想像的にして創造的な思考作用こそ、人間の内なるエネルギーなのではなかろうか。その意味で、シュタイナーに学ぶところは大きい。 (了)

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